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いつも考えていること

ミレー展より-美術館は高いのか

ミレー展が大変良かった。
三菱一号館美術館で来年1月12日まで。
 
ミレー展の感想の前に、いきなり脱線。
 
この三菱一号館美術館というのは、丸の内のど真ん中にある美術館です。
丸の内というのは東京駅の付近のことを言います。東京駅というのは東京の中心的な駅です。
三菱一号館美術館は、明治25年、ジョサイア・コンドル、工部大学校で建築の先生をした人が設計し、当時の建物は紆余曲折あって解体されたのですが、そのレプリカとして丸の内の開発に伴い復活した、といういきさつがあります。
 
丸の内って今とてもいろんなものがあって、少し高級な、大人な街で、兵庫県出身のぼくにとってまさに「東京!」な場所で、この三菱一号館美術館はその象徴の一つでもあります。
美味しそうなレストラン、ガレットがあるのですが、高いからまだ行ったことはありません。いつか行きたい。
そういった歴史的建築、大人な街丸の内、という側面は、美術の雰囲気を味わうために必要な要素の一つです。
勤務先から近くて、金曜の夜は8時まで開館している、というのもなんだか都会な感じです。
 
館長・高橋明也さんのインタビューがあります。
 
国立西洋美術館でヒットを連発した学芸員さんだそうなのですが、丸の内、都市の真ん中にある美術館であることやその建物の面白さから、「日本の美術館に欠けているもの」を生み出せるのでは、と館長を引き受けたそうです。
確かに、パリのルーヴルもオルセーも、ニューヨークのメトロポリタンも街の真ん中、一等地にあって、人々の生活に密着しています。
ぼくはフランスのリヨンに少しの間だけ留学したことがありますが、その街でも美術館の身近さに驚きました。建物は荘厳だし、収蔵品もいかにも美術な感じなのですが、なんというか、気軽。子どももたくさんいて、ひそひそ、静かに!って目くじらを立てられるムードもなく。
美術館ってなんで黙って見ないといけないみたいになってるんですかね。
真剣に見なさい!みたいな抑圧。
ふむふむ、とか頷いて、分かったふりしてみたり。
 
あと、とても安い。
日本は美術館の料金が高い。1500円以上、平気でとってくる。
企業の美術館、この三菱一号館美術館のようなところであれば採算のためにやむを得ないとも思いますが、国立・県立・都立といった福祉的な施設であるはずの美術館でさえもばかすかお金を取ってくる。
そこはかとなく「美術は高級なものなので!」という発想が、どこからともなく臭ってくる。
厳かであればあるほど、高ければ高いほど「ありがたみがある」とでも言うような。
で、まあ、その料金の問題について以下のブログが話題にされていて、とても面白かったので、リンクしときます。おもしろいです。
特に箱根の美術館の話。
たくさん美術館のある箱根ですが、全部まわろうとすると2万円かかるそうです。
いやしかし、こんなたくさんある美術館全部めぐらへんがな、とも思いますが、こうぱっと思い浮かぶ「ポーラ」「マイセン」「星の王子様」「彫刻の森」の四つを巡っただけで6600円しているので高い。この4つくらいなら1泊2日で行ったりしますもんね。6600円…。
 
ぼくが何かする時に考える理屈に、実に下品な発想なのだが「娯楽おける費用対効果」というものがある。
たとえば映画。1500〜1700円で2時間。うむ。
音楽。ライブなら6000円とかで3時間程度。CDならアルバム2500円で1時間。何度も繰り返して聴けば何時間も。TSUTAYAで借りれば200円。うむ、これは割りがいいぞ。
スポーツ観戦。2500円〜5000円、ピンキリあるが、まあ2時間から3時間。テレビならただ。ちなみにぼくの一番の趣味である相撲は当日券2200円で9時から6時までいられる超お得な暇つぶしだ。
もっとも割がいいのが本。ブックオフで100円。何回も読み直せるし、何時間でも読める。音楽は音を出すから場所が限られるが、本は場所を選ばない。河原でも部屋でも電車でもどこでもいい。
 
で、この理屈で行けば美術館はまったく費用対効果に欠ける。
僕の場合は美術館で2時間から3時間過ごせるからいい(スペインのミロ美術館で同じ絵を20分以上観て一緒に行った友達を困らせたりできる。Blueって作品があるんですけど、これに感動してしまって、なんかぼーっとしてしまったんですよね。おすすめです。バルセロナに行った際にはぜひ。ちなみにミロ美術館は8ユーロっぽい。案外高いなあ)。
でもまあ、割りに合わないと思われても仕方が無い。
 
もちろんこの「割に合わない」という感覚がすでに美術に対する態度ではない。
しかしながら娯楽、というか消費というものは常に有用性、合理性、効率性を求めるから、訳にたたないもの、おもしろくないもの、使えないものに対してとても厳しい。
ここらへんは内田樹の『下流志向社会』なんかがよくて、以下のインタビューでも「「費用対効果」マインドを解除せよ」とここまで述べてきたことに対して実に耳に痛いことをおっしゃっている。
 
でもねえ、娯楽だから。娯楽にこそ真剣になる。いくらかかっているのか、いくら楽しめたのか。
USJは行列に並びたくなければお金を出せばいい、つまり時間を金で買えるシステムだが、ディズニーはミッキーに会いたければお金を出せばいい(絶対に現れるレストランに行ってちょびっとしかないのに3500円くらいするお昼を食べられば会える)、つまり夢を金で買えるシステムだ、と僕の兄が喝破したことを思い出す。
時間をかけるか、お金をかけるか。
宝塚歌劇なんかも、暑かろうと寒かろうと出待ちをするか、お金持ちになって一番近いファンになるか、だ。
娯楽は現代の象徴であり、消費社会の成れの果てだ。
「費用対効果」を求めない奴は馬鹿。冒頭に「下品な発想」と書いたけれど、消費社会においては下品でも何でもない。むしろ上等も上等、当たり前の発想だ。
 
だから美術館が高い、というのは、消費社会において「負け」を意味しているとしか言いようがない。
中途半端に千円や二千円で敷居を上げるくらいなら、いっそ市民社会を放棄してブルジョワジー(死語)だけが観られるような一万円とか二万円とかの美術館をやってしまえばいいのだ。千円、二千円だから美術館に行ける人(僕のような人)は、それなら美術館に行くのを止めるだろう。それが、今現在の美術館に行かない他の人々にとっての千円なのだ。たまたま、自分にとっての美術の価値を千円なら、二千円ならと納得しているだけに過ぎない。
 
東電OL事件というのがあって、まあ知らない人は調べてほしいが、五千円や二千円で売春をしていた、ということを「女が男の値段をつけた」と解釈する見方がある。
売春と聞くと、女の値段を男がつけたように思えるが、そうではない。男が自分の性欲に三万円だの、一万円だの、五千円だのという値段を与える。俺はいくら払ってでもセックスがしたい、という思いに三万円、あるいはどんな女でもいいから二千円を払って性欲を処理するわけだ。
唐突に何を言い出したのか、というと、美術館に二千円払うのはそんなに高くないよ、という人は自分の美術に対する欲望に二千円とつけているに過ぎないということが言いたい。
かつて、松本人志が入場料一万円のコントライブ、あるいは料金後払い制のライブをやったことがあるが、まさにそれである。
イエス・キリストの言葉にこんな言葉がある。
 
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコによる福音書/ 12章 41-44節)
  
あまねく公平に、人々が美術に触れられるようにしろと言いたい。
その適正価格が千円か?
あなたの千円はやもめの千円か?
いや、そんなことはないだろう。
千円は高くない、などと軽々しく言うべきではない。
 
美術は、既存の価値から離れたところにあって、そこに「新しい価値」があるから、人はそれをありがたがる。
新しい価値は常に心地よいものではなく、自分の醜い部分や嫌な部分、直したいけど直せない部分にずきずきと響くようなものでもある。というかそうでないなら新しくない。
そんな経験、長生きできても一世紀程度の一人の人間が、千年以上の蓄積からなる一枚の絵画に出会う経験と、入場料が二千円だとか千円だとかいうことは本来関係がない話だ。
しかし、だからこそそういった経験を、二千円だとか千円だとかが阻むことは許されない。
そこのところをもうちょっと考えないと、今のままでは「消費」や「娯楽」が勝って、日本社会は経済的に成長したとしても「停滞」したことになるんじゃないだろうか。
 
これは思いつきなのだけれど、だからある意味めっちゃ高い美術館があってもいいと思う。
箱根なんてまさにそうで、あのあたりの施設に行くことに対するハードルを上げる代わり、もっともっと質を高めた美術館にする。
これは地元の人が見に来る美術館ではありません。本当に価値のあるものを集めた場所への対価を払いなさい、というコンセプトの美術館があってもいいんじゃないのか。僕が無知でそれを知らないだけかもしれないけれど。
その一方で、あまねく公平に開かれるべき美術館も増やす。
そうした方が美術に対する間口とブランドを高められるんじゃないかしらん。
今ってある意味、名画を安売りしている状態で、東京にいたら、あらゆる世界中の名画がぽこぽこ見られるわけで、それも一応払えないわけない額だったりするわけで(ここがずっと言っているとおり問題なんだけれども)。
ぎゅうぎゅうになりながら、台湾の白菜を見たり、エジプトの棺を見たりするよりも、それらの持つ「価値」をより広め、高めることをやっていかないと、結局「払えないわけない額」での「娯楽としての美術」から抜け出せないのではないかとも思う。

東京国立博物館 - 展示 日本考古・特別展(平成館) 特別展「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」

 

さて、美術館についての考察は以上として、ミレー展の感想に移りたい(前ふりが長い)。

バルビゾン派、というのが1830年代におりまして、フランスではそれまで風景というジャンルは神話や物語の背景でしかなく、それだけの絵、つまり風景画というのはちょっとよくわからんなあ・・・という状態だったところにバルビゾン派は風景画を描いて一世を風靡したのです。

ちなみにバルビゾン派よりも前にイギリスではターナーコンスタブル、ドイツではフリードリヒといった人たちがいて、また、それよりも前からオランダでは風景画、風俗画は盛んで、とくに有名なのがフェルメール、という具合です。フランスはその間ロココ(貴族がきゃっきゃしてる絵)→新古典主義(ナポレオンがかっこいい)→ロマン主義(破滅的な感じとか情熱的な感じとか、とりあえず激しい)というように革命の時期も相まって激しく移り変わっており、風景画が成立するタイミングがなかったと思われます。

そこに現れたバルビゾン派は本当に「斬新」だったことだと思います。

今でこそ風景画、なんて聞くと緑色と茶色の目立たないだっさい絵。みたいに思ってしまいかねませんが、今日観て思ったのですが、こいつらかなり反抗的な態度です。

それまで神話や英雄を描いて人々を驚かせていた画壇に対し「種をまく人」をあたかも英雄のような構図で描く、なんてそこらへんの高校生並に反抗的な態度ではありませんか。僕はすげえと思いました。

しかし、もちろん、意図して反抗的(アンチ既存画壇)な態度を取っていたんではないことは明らかなことです。

題材とした農民たち、木々や自然、に対する敬虔な気持ちがあふれ出ています。

そんな小さな「画壇」がどうこう、というところで題材を選ぶような態度でないことは火を見るよりも明らかで、そこにバルビゾン派の強さを感じました。

特に感動したのが「馬鈴薯植え」と「洗濯女」。

展覧会の見どころ>晩年のミレーと印象派・その他作品|ボストン美術館 ミレー展 傑作の数々と画家の真実|三菱一号館美術館

馬鈴薯植え」のなんといえばいいのか、そのひたむきさ、いや、なんだろう、生きることを問われているような、自分の中に欠けている切実さを突き付けられたような感覚は、実際に絵の前に立って感じてほしい。

「洗濯女」を見た時には歌の「遠き山に火は落ちて」が頭の中に流れてきて、ここ最近仕事中に感じた「俺はこんなことしに東京に来たのか?」感覚が募って泣きそうになった。

 

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ボストン美術館ミレー展 三菱一号館美術館 - すぴか逍遥