Nu blog

いつも考えていること

『ルポ百田尚樹現象』の感想

雑誌「SPA!」の熱心な(?)読者としては、2年前に『ゴーマニズム宣言』が復活して以来、小林よしのりという人が何を考えている人なのかはよくわかるのだが、どういう人なのかはよくわからんなーと思っていた。

というのも、私の先入観では「小林よしのりネトウヨのルーツ」なのに、復活した連載を読んでいても、ネトウヨっぽい雰囲気がない。むしろ、個人が大切だよね、でも守るべき公共的な意識は持たないとね、それは上から押し付けられたくはないよね、というような感じで、古典的な自由主義の風情である(天皇に関する考え方はちょっと違うけど)。

なので、トピックごとに描かれる「考えていること」はわかるが、総体としてどういう人なのかわからない。そもそも私は小林よしのりの読者ではなく、雑誌を斜め読みしているだけの人間なので、当然だ。

ところが、石戸諭の『ルポ百田尚樹現象』を読んだところ、結果として百田尚樹のことではなく、小林よしのりのことが少しわかった気がした。

 

『ルポ百田尚樹現象』は、「毎日新聞で10年ほど記者経験があり、これだけ売れているにもかかわらず周囲で『日本国紀』を読んだ人に出会ったことはなかった」作者が、「分断の真っ只中にいて、現象を捉えきれていない」ことに疑問を感じ、「知ろうとすることから始め」るドキュメントだ(p29)。

百田尚樹に対する3時間半にわたるインタビューを行い、ディベート的に意見を交わすことはせず、徹底的に、丁寧に話を聞く。

百田尚樹以外にも、百田尚樹をテレビ業界に引っ張り上げた松本修、編集者の花田紀凱、『虎ノ門ニュース』を制作するDHCテレビジョン社長の山田晃、そして幻冬舎見城徹らにもインタビューをしている。

どことなく映画『主戦場』を思わせるが、映画と違うのは、彼らの主張を頭ごなしには否定しないところ。かといって、誤認のある発言を紹介する際にはきちんと訂正を入れており、相手方の主張の垂れ流しにはなっていない。

「『差別主義舎、排外主義者に発言の場を与えたもの』になるだろう、だが、そうした言説の背景にあるもの、異なる価値観を緩やかにでも支える存在を軽視すれば、あちら側に『見えない』世界が広がるだけだ」というわけだ(p116)。

 

本書をまとめると、百田尚樹を取り巻く現象のキーワードは「反権威」と「普通の人々」にある、ということになる。

反権威の「権威」とは何か。それは既存のマスメディア、左翼である。

関西のテレビ番組で今も流れる「本音が一番良い」(いわゆる「よう言うてくれた」」的なやつ)という主義が「ええかっこしい」な既存のマスメディア(主に朝日新聞)に向かっているのだ。なので、自分たちはマイノリティーだという意識が強い。 

そして、「普通の人々」とはなにか。これは、イデオロギーではなく、面白いものを大衆に届けようとする意志、買ってくれる読者を信頼することである。

見城徹は「『面白い』は大事に決まっているじゃないか。これがダメだって言うなら、批判する側が、批判するだけでなく通史を書いたらいい。それぞれの歴史観を打ち出せばよくて、後は読者が評価する」と言う。読者の評価、要はどれだけ売れたかに成否がある、というわけだ。

 

こうした反権威主義や普通の人々という現象の土壌には90年代の「新しい歴史教科書をつくる会」にある、と著者は言う。

土壌を探るべく「つくる会」の中心人物、主役たる小林よしのり西尾幹二藤岡信勝らにインタビューをしていく。この、百田に触れない第2章が最大の読みどころだ。

小林よしのりは『戦争論』を書き、70万部のベストセラーとなった。この本のことを本人は「右方面に新しい市場を作ってしまった」という。

そしてキーパーソンの三者はそれぞれ「小林は百田を厳しく批判し、百田と付き合いがある藤岡であってもその中身について疑義を呈し、西尾に至っては自身の著作と同じように位置付けるのをやめてほしいという」(126)。

連続している現象のはずが、百田を後継者とは認めない。むしろ、右の市場を作ったはいいけれど…というような断絶を感じさせる反応である。

 

ここで小林よしのりのことに戻る。

そもそも『ゴーマニズム宣言』シリーズのコンセプトは「権威よ死ね!」だそうだ。この権威は知識人や大手メディアのことを指す。

薬害エイズ運動から社会問題にコミットするようになった小林よしのりであるが、運動そのものは目的ではなく解決が目的であって、目的を果たしたら解散することをイメージしていた。

にもかかわらず、左翼の運動体に学生は流れていく。個人の連帯と思っていたものが、集団の論理に取り込まれていく。

その頃、慰安婦問題で朝日新聞産経新聞の真逆の主張に触れ、そのことを漫画に書くと、読者の反響が大きかった。そこで、朝日新聞に疑問を呈したところ、木で鼻を括ったような回答をしてきた。

薬害エイズ問題では行政が権威であったが、慰安婦問題では左翼=朝日新聞が権威となった。

小林よしのりは、目的を問題の解決に据える直線的な合理主義で、個人を基盤にしているから権威を信奉しない。

ただ、権威がどこにあるのかの判定はその時々による。行政のこともあれば、大メディア=新聞のこともある。与党のこともあれば、野党のこともあるし、トピックごとに異なってくる。

現在のコロナに対して、小林よしのりは「コロナはインフル以下の致死率、強い自粛要請は経済的な死を招くからやめるべき、自粛警察やそれを煽るような報道は経済的な死を招く殺人に等しい」というところで、リベラルによるロックダウン要請などには強く反発するし、政府による緊急事態宣言含む自粛要請も批判している。

私はかなり短絡的に自由を侵害しているので自粛要請や緊急事態宣言に反対しているアホなので、少し意見は異なるが、いわんとすることは理解できる。

今の権威は、政府はもちろん、煽り気味なメディアとそれに追随する大衆なのであろう。

 

行ったり来たりで申し訳ないが、本に戻りたい。

百田尚樹は感動に正直な人だという。

たとえば思想的には相容れないであろう宮崎駿の作品にも感動できる人である。百田にとっては、その作家の背景やイデオロギーは関係がないのだ。大事なことは自分の受け取り方で、「その時々の自分」「その時々の自分の感覚」に正直なのだ。

作品の中で「「大東亜戦争」という言葉を使わず「太平洋戦争」と描くことになんの躊躇もない。こだわりがマイナスになるなら、やめた、というエピソードがある。洋服を脱ぎ着するようにイデオロギーを着脱できるのだ。

百田尚樹を批判する側は、物語とイデオロギーが繋がっていると思い込んでいるが、実際は繋がっていない。そして、批判は空転する。

百田尚樹現象とは、そういうポピュリストによる新しい現象である。本人は空気を代弁しているにすぎない。

 

つくる会が「自虐史観を旗印に、リベラル派・左派から「反権威」というポジションを奪い、「普通の人々」の力を信じ、彼らに訴えることで力を獲得し、リベラル系マスコミの「権威」を崩壊させたポピュリズム運動」であり、百田は「大衆を徹底的に考え、彼らに届けることを第一に考えてきた」「自然体で「偽善を暴く本音」と感動させるストーリーテリングを武器に、大きな権威と対峙する姿を見せ、人々を捉えてきた」のである。(298−299)

つくる会にあった言論人としての姿勢、実存を賭ける態度は失われ、今はそれっぽい言葉のそれっぽい反権威になっている。

 

現代を覆っているのは、この「それっぽい言葉」「それっぽい反権威」なのだろうと思う。

右翼左翼問わず、「私はこう思った」という啓蒙のかまし合い、マウントの取り合いが空中を飛び交って、反論の余地もない。

反論の余地がないから議論にならない。

 

著者は最後に「私たちはつながりすぎていて、そうであるがゆえに無自覚なまま発せられる人の言葉に流されすぎている。ノイズのような言葉に振り回されすぎている。歩きながら思う。今、必要なのは……。それは静かに思考を深めていくために、自分の言葉を探すために、情報の渦から遠く離れて、静寂の中に身を置く時間である、と。」とむすぶ(326−327)。

 

ノイズが溢れている。私たちはしゃべりすぎている。

沈黙を恐れて口を開くのはやめて、沈黙を味わい、本当に言うべきことを見つけるような、そんな態度でありたい。