家を出る時に「家に帰りたい」と呟いてしまう。家が大好きなのだ。
自動車の教習所で、車に乗った時は自分の身体が大きくなったと思いなさい、と指導された。十八歳の社会学部生・私は「身体の拡張や!」とマクルーハンを想起して歓喜したものだが、教官は何も比喩でそう言ったのではない。実際、自動車に乗ったら、そう感じずには動かせないのだ。その指導は特にS字クランクで役立ったことを覚えている。
ラグビーW杯が始まる前に、NHKでその楽しみ方の解説番組がやっていた。
その中で、密集(ラックやモール)は一つの大きなボールと捉えれば分かりやすい、という話があった。
たしかに、密集を一つの大きなボールと認識したら、なぜ密集の最後尾より前に出てはならないのか、なぜ密集の横からプレーに参加してはならないのか、など多くのルールにちゃんとした説明がつく。
近年、急速にラグビーの原理原則が整備されたように思う。なぜ前にパスしてはいけないのか、なぜボールより前でプレーしてはならないのか、といった基本的なルールに対して「ボールを先頭に陣地が分かれるから」と明快な答えが出されるようになった。これは二十年前にはなかったことだと思う。少なくとも、私は指導者から同様の答えを聞いたことがない。「ダメだからダメ」と教わった。
量子の発見に似たものを感じる。あるいは地動説とか。それまで経験則的に継ぎ接ぎで理解していたことが、新しい考え方によって、一本の筋が通されるような感覚。
さて、話を戻して。
鷲田清一は衣服を皮膚、身体に一部だと喝破した。
自動車は身体の拡張であり、ラグビーボールは密集において大きくなる。
家もまた、私の身体の一部なのだろう。
だからいつも家に帰りたい。家から引き剥がされるその時、一番強くそれを思う。