上手いなあ、と言われたことは覚えているが、その季節とかを覚えていない。5月とかだったのだろうか。
ラグビーを始めた幼稚園年長さんの時のことである。
M川の河原で活動するラグビー少年団に、兄がどういうきっかけで参加したのか、よく考えるとあまり知らない。父親も、母方のおじさんなども、誰もラグビー経験者ではなかったし、謎である。
いずれにせよ兄がラグビーを始めてしばらくして、私もラグビーを始めた。「ピコを買ってやるからやってみろ」と父親に言われたのだ。
ピコは、流行ったのかどうかは知らないが、幼稚園の友人が有していた最新のゲーム機であった。
確か…、確かクレヨンしんちゃんとドラえもんのソフトを買ってもらったはずだ。しかし、全く覚えていない。
私が覚えているのは、餌のピコのことではなく、ラグビーのことばかりである。
初日。今でもコーチの名前を覚えている。T山さんとH口さん。T山さんはガラス屋のおっさんである。当時流行っていたKinKi Kidsの曲を替え歌して「T山さん家のトラックが、仕事の数だけ横切るよ」みたいなどうでもいい替え歌を父親が作っていたのを覚えている。
少年チームのコーチなんてのはマア本業がみなさんバラバラなもんで、魚屋のおっさんもいれば、小さな食堂を経営しているおっさんもいるし、警備員もいたと思う。
いずれにしてもT山さん、H口さんともに強面で、幼少期の私は大変びびった。ラグビー経験者なだけあって、体もデカい。
ブルドックとセント・バーナードみたいな顔の彼らなりに、優しく「上手いぞ」「ええぞ」と褒めてくれたんである。
で、マア調子に乗って、勝手気ままにボールを投げたら、
「こっちに攻めてんねんから、前投げたらあかんやろ!」
と怒られた。
ルールを知らない子供に対する怒り方とは思えない。
毎年夏には淡路島に合宿に行った。今でも夏に冷たい麦茶を飲むと、その時のだるさや楽しさといったハイな感覚を思い出す。
何年かに一度、九州の小学生と交流したのも忘れられない。同い年なのに、一回りも大きな子だった。後に高校日本代表候補か何かになったはずだ。
「何食べてんの」と聞いた、「普通に食べてるよ」と言うのだが、その日の晩御飯、お米を何杯も食べていた。
こりゃ勝てないな、と思った。
冬になるとリーグ戦が始まる。少年チームの兵庫県一位を決める大会だ。
結果を全く覚えていない。優勝したことはないが、果たして何位だったのか。私はそういうことには無頓着で、いつもいいプレーができたら嬉しいとしか思っていなかった。だから、それら試合の意味はわからないまま、練習と同じように無我夢中でタックルし、トライに向かって突き進んだ。
顔より大きなボールを持って、自分より大きな相手に当たる。自分より大きな相手が突進してくるのに対して、思い切ってタックルに行く。
まずは技術よりも、度胸と根性が必要なスポーツだ。それが何よりも楽しかった。
小学生になってすぐの頃、サッカーと野球にも少し触れたが、ラグビーの英才教育のせいか、丸いボールや棒をうまく扱うことができず、すぐ断念した。
今でも楕円球ならうまく扱う自信はあるが、それ以外はからきしだ。
それから右腕の骨を折る中三まで、十年に渡りラグビーをした。
今の子らは芝生で練習することが多いらしいが、私の頃は土埃の立ち煙る中が普通であった。怪我したら膿むような土。
しかし、怪我なんて痛くも痒くもなかった。大きな相手を止められた喜びや、誰かが活躍するようなパスを放れた嬉しさだけを覚えている。
その後、何をするでもない高校生活を送り、何をするでもない大学生活があって、何をするでもない会社員になるとは想像だにしていなかった。
人生は、楕円球のように、どう転がるか分からないものである。などと知ったようなことを書いておく。