中学校受験を決意したのは、小学五年生の秋頃だったと記憶する。
先にK中学を受験し、進学した兄が楽しそうにラグビーをしている姿を見て、自分もこの学校に行こうかなと思ったのである。
国立大学附属の小学校に通っていたため、受験せずに進学した場合、国立大学附属の中学校に進学することとなる。
その中学にはラグビー部がなかったので、ラグビーを続けようとするとラグビースクールの中学生の部でやらないといけない。このラグビースクールというのはやけにレベルが高くて、明らかに屈強な人間ばかりで、小学生の私は恐怖していた。
野球やサッカーでも「アカデミー」的なところはレベルが高いものである。通用する気がしないではないか。一方、K中学のラグビー部は和気藹々、のんびりとしていて、楽しそうだった。
それだけでなく、さらに高校受験しなくてはならなかった。これまた恐ろしいのが、国立大学附属の中学だったので、みなさん頭が良く、バンバン進学校に受かって、さらに京大とか行くんである。小学生の私はそれにも恐怖していた。
一方、K中学は大学まで一貫校だったので、受験の呪縛から逃れられる。
これしかないと直感した私は親に受験を申し出た。
消極的なんだか積極的なんだか分からない理由である。
そこから塾に行くわけだが、そこまでろくすっぽ勉強してこなかった私であったので、入塾テストで「1×2×3×4×5×6×7×8×9×0」に「362880」と回答したのをよく覚えている。凄まじいバカだ。
八つあるクラスのうち、真ん中、下から四番目のクラスから始まった私だったが、半年で上から二番目のクラスに上がった。三ランクアップである。
最上位は灘特進コースであり、特殊能力がないと入れないから、常人が行けるもっとも上のクラスに半年でいけた。どうやらその塾との相性が良かったのかもしれない。
しかし周囲の皆さんは大抵小学三年生くらいから通っているので、三年もの努力を半年で不意にされた彼らからすれば、不愉快極まりない存在だっただろう。
ちょっとした言葉尻を捉えられて執拗にいじられるなどイジメに近いものを受けたこともある。まあ、あまり他人に興味のない性格だったので、飄々と過ごしていたが。
毎日塾に行って、授業がない時間は自習室でアルバイトの大学生に質問しまくるのが日課になった。このアルバイトの大学生が今思えば頭が良くて、なんでもわかりやすく教えてくれるのだ。中学校受験のマニアックな問題をわかりやすく教えられる大学生なんて、とんだ変態だと思う。
親が節約だと言って、裏が白いチラシを集めて、私が問題を解く時、ノートの代わりに使うよう用意してくれたのを覚えている。子供心に申し訳ないなと思って、小さな字でびっしり計算した。ちょっとでも白い空きがあったら、気晴らしに落書きをして、チラシの裏と右手の側面が真っ黒になった。鉛筆は一瞬でチビた。
受験は楽しかった。
塾の先生らは半年で成績が伸びた私のことをよく相手してくれた。
理科の、爪が派手な女性の先生が理科の苦手な私のことを心配してくれた。
国語の男性の先生は変わっていて、生徒らが問題を解いている間、黒板に落書きしていた。その落書きに影響を受けて、私は落書きを始めたのである。あと、その先生は問題に使われた小説などを図書館で借りて全文読むよう薦めたりした。受験で時間がないなんて関係ない、読め、と言うので『あの頃はフリードリヒがいた』を読んだ。原田宗典なんかも読んだ。
算数の先生は私が算数が好きなのをよく知っていて、授業中何度も当ててくれた。いいぞいいぞ、なんて褒めてくれるのでどんどん調子に乗ったものだ。
というわけで、その時の遺産で、大学まで進学してしまうのだから、なんとも怠惰な人間であるが、小学生の私が将来の自分を予見したのだろうなと思う。
ありがとう、自分。