誰かに引っ張られる感触があって目を覚ましたら、暗闇の向こうに母親がいて名前を呼ばれた気がした。その時、夢うつつのぼくは、そういえばスキーに来たんだったと思い込んだから、ここはホテルの一室で、窓の外には白い雪が積もっていて、リフトが照らされている、なんてことまで感じた。「どないしたん」なんて声をかけようと思った時に、「あ、夢だ。母親は死んでいる」と、うすらぼんやり目が覚めた。前までならこういう時、涙が出ていたのに今は出ない。悲しいと言うより、ここにおったんか、と思った。なんとも説明できないけれど。ぼくは死を受け入れていないのか、たまに「お母さん、元気にしてるかなあ」と考える。なんとなく元気にしてそうな気がする。東京での生活を話してあげたら羨ましがるだろう、とも思う。私の方が東京が似合うのに、なんて言うだろう。あんまり相撲ばっかり観てたらあかんよ、と言われそうだ。仕事はどうなん、体調崩してない、飲みすぎたらあかんけど、飲みに行かないのもあかんよ、なんて矢継ぎ早に言われるのだ。枝雀の落語を聴く時に、枝雀が死んでしまったことを懐に忍ばせながら聴くように、ぼくは母親のことを奥底に記憶しながら生きている。つまり、再生ボタンを押すと枝雀が新しく話し出すように、母親もまた突然、ぼくの記憶の中で新しくぼくに話し出す。生きていることと死んでいることとに、間はあまりないのだと思った。ここはホテルの一室で、窓の外には白い雪が積もっている。いつのどの記憶か。ぼくの中のどこかの記憶を抱えて(確かにそれはあったことだ!)、午前3時、また眠る。