Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(遅刻)

日曜の夜、ぼくは祖父母の家の畳の部屋のヒーターの前で、猫のミッちゃんと一緒に並んで座っていた。いつのまにか冬になっていた。気づかぬうちに厚着するようになっていた。なぜかぼくは夏、水泳の授業が嫌だったことを思い出したりしていた。

そして母親がお風呂から上がってきたから、ぼくは不思議に思って「ねえ、いつ帰るの?」と聞いたら、母親は呆れた顔をして「帰るのは明日の朝。月曜は2時間目から登校するって言ったでしょ」と言った。「え、でも学校はどうするの?」と言うと「だから、2時間目から登校すればいいんだって。学校にはもう連絡してあるから」とにべもなく言われてしまった。そんなことを通告された思い出がぜんぜんない。覚えてない? いや、忘れたとかではなく、そもそも言われてないと思う。おかしいな。

祖父母の家のお風呂は寒いから嫌いだった。「あーあ、お母さんと一緒に入ればよかった」と呟いたら「一緒に入るか聞いたら、ううんって言ったじゃない」と怒られたが、やっぱりそれもまた覚えてなかった。考えるに、たぶん「ううん」って言ったのは「ぼくは家に帰ってからお風呂に入るよ」と言う意味合いなのだろうけど、言われた記憶がないのにそんなことを言い返すのも変だと思ったから黙って風呂場へ行った。いや、なんか返事した気もする。うーん、もう覚えてない。

ものの5分くらいで風呂から上がって、母親が用意してくれていたパジャマに着替える。いつものパジャマが祖父母の家にあるのはとっても不思議な感じがした。

祖父が鬼殺しを飲んでいる。祖母がよくわからない干物に噛み付いている。母がちょっとだけビールを飲んでいる。ぼくは不安になる。「お父さんと一緒に家に帰ればよかった」。そう父は先に家に帰ったのだ。どうしてだろうか。よくわからない。「あら、あんた、お母さんといるって言ったじゃない」と祖母がバカにしたような口調で言う。「言ってない」「言ったわよ」「言ってないもん」「言ってないもん、だって」と祖母が甲高い声、ぼくの真似をして言う。「頑固だねえ、お父さんに似たんじゃない、隔世遺伝」と祖母が祖父に言うが、祖父は「ううむ」と唸り声をあげるだけ。ぼくはちょっと泣いてしまう。母が「どうしたの、もう。バカねえ、そんなことで泣いて。おばあちゃんはあんたと仲良くしたいだけよ」と言う。「うそだ」とぼくは母の太ももに顔を埋める。母の太ももは気持ちいい。あたたかい。

それで母親に連れられて、廊下を挟んで向かいの畳の部屋に敷かれた布団に寝かされる。その前に和式便所でおしっこをした。この家は、さっきの部屋以外どこも寒い。廊下も、トイレも、南極みたいだ。

いつものベッドじゃないから、背中が痛い気がする。きっと眠れないなと思う。家が傾いている気がする。傾いている方向に布団がずれていって、徐々に壁に近づいちゃってるんじゃないかとか思う。あー、どうしよう、ふすまの障子を破いちゃうかも。

と思って気づいたら朝だった。どこだ、ここは、と一瞬思ったがすぐに思い出した。祖父母の家だ。

廊下を挟んで向かいの部屋、ストーブのある部屋で人の動く気配がするから飛び起きてそっちへ行く。

「おはよう!」と声をあげると「朝から元気だね」と祖母が言う。祖父は「うん」とだけ。母親が、「はい、朝ごはん」と言って机を指す。机にはお米と味噌汁と細長い魚が焼かれたものが置かれていた。いつもはパンなのに、朝にこんなの食べたことないから食べられない、と思う。「えー」とぼくは意思表示したが、「ほれ、さっさと食べて」と促された。不味かった。

母親がバタバタと動き回って、「あれして、これして」と呟きながらいろいろして回っていたが、ぼくはテレビを見ていた。特に興味のない番組だったから内容はわからない。途中音量を下げられたので、少しテレビに近寄ったら「目が悪くなるから離れなさい」と肩を押されたりした。不愉快だなあと思った。

車に乗っけられて、ぼくは学校に行く不安が募り、祖父母には簡単に手を振るくらいしかできなかった。「なにをむくれてるの」と言われたが、むくれてるわけじゃない。祖母がなぜかあっかんべーをしてきたのでむっとしたら、ケラケラ笑っていた。ミラーに映るその笑顔が遠ざかっていくのをぼくはじっと見た。

家に着くと「どうしてこの時間にお前が家にいるんだ」と誰かから言われた気がした。トイストーリーみたいに、おもちゃたちががさがさ定位置に戻っていった気がした。母に急かされながらランドセルに荷物を詰め、背負って、出かけた。母もまた仕事があるので、一緒に家を出たが、駅は反対方向だから、母は分かれ道のところで「ちゃんと学校行くのよ。車通りがいつもより多いかもしれないから気をつけて。先生にはちゃんと連絡してるから遅刻でもなんでもないからね」と言った。

いつもの道なのに、いつもと全然違う。いつもすれ違う人がいない。花に水やりしてる平山くんとこのおばさんもいない。花もなんだかよそよそしげだ。

不安な気持ちが喉をせり上がって、酸っぱい味がした。学校までがいつもの10倍くらい遠い。思わずぼくは駆け出す。ランドセルがカタカタ鳴る。うるさくて死にそうだ。息が続かなくなって、走るのをやめて、ゼーゼー言いながら歩く。心臓が破裂して死んだらどうしようか。痛そうだ。すごい音がしそうだし、母親が悲しむだろう。心臓が破裂して死んだ人を見たことがないから、大変なことになるだろう。

学校が見えた。校庭には誰もいない。みんな教室の中にいるのだろう。学校が「入ってこれるもんなら入ってみな」と言っているような気がする。学校の口は、たぶんあのあたり。鋭い牙が生えているに違いない。

そして今にも先生が走ってきて怒られるような気もしてきた。校門まで行けない。その手前の塀に隠れる。花壇の土がさらさらしている。陽が当たって気持ちいい。心臓がばくばくする。校門を通った瞬間、先生に怒られる。このままグズグズしていると2時間目にも間に合わないかもしれない。あっちの道から人が来たような気がして、見つかるとやばい!と思って校門に駆け込んだ。守衛さんの姿が見えたが、何も言われなかった。追いかけてくるかもしれないと思ってぼくは走った。逃げるぞ、逃げるぞ、と心の中で呟きながら走った。ちょっと、漫画の主人公みたいだと思って楽しくなった。

下駄箱で靴を履き替えて、シーンとした廊下を歩く。いつもならガヤガヤしているこの場所が、こんな静かな姿を見せるなんて、怖い。呑み込まれそう。爪先立ちで歩き、ぼくは足音を立てずに歩くことに成功した。ランドセルの蓋が鳴らないように手で押さえるのがコツだ。先生も、みんなも、誰も今廊下に人がいるなんて思わないだろう。

ぼくは1組だから、3組と2組の前を通らないといけない。教室の窓にぼくの姿が見えると噂されるだろうと思って、ぼくは匍匐前進することにした。音を立てないように匍匐前進。やったことがないから、ずいぶん手前で練習してみたら、案外できた。よしよし。

教室が近づくと3組で授業している声がする。他の組の授業の声は変な感じ。すっ、すっとぼくは匍匐前進する。先生から見えないように、できる限り教室側の壁に寄って這う。

で、1組まで1時間くらいそんなことをした気がする。いや、まあ、そんなことはないか。わかんない。静かに立ち上がって、洋服についたホコリを払って、これまた静かに後ろの扉を開けたが、静かに開けようが先生には見つかるわけで「おお、山田さんか。おはよう」と声をかけられた。みんなが一斉にこっちを見る。田中さんが隣の川口さんと「どうしたのかな」とか喋っているのが見える。かーっと顔が赤くなる。頭のてっぺんから汗がツーっと落ちてくる。ぼくは小さな声で「おはようございます」と言って、席まで俯いて歩く。隣の席の和田くんが「おはよう」と声をかけてくれて、ぼくは何も言わず頭だけでお辞儀した。「体調悪いの?」と聞くから頭を横に振って否定する。教室はまだざわついていて、先生が「ほれ、山田さんはお家の都合で遅れただけだから。授業続けるよ。山田さん、わからないところあったら、あとで周囲の人に教えてもらいなさい」と声をかけて鎮まった。

 

という、小学校一年生だったか二年生だったかの時の記憶がふと蘇った。二日酔いの頭を抱えて、2時間の時間休を取った俺は、すでに2時間分仕事が進んだであろう賑やかなオフィスに入っていった。あの頃のように赤面も発汗もなく、むろん走ることも匍匐前進することもなく、俺は挨拶をして回った。

1日が始まった。