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いつも考えていること

フィールド・ノート(第7話)

 ベッドの悪い方から起きたら機嫌が悪い、という話を子どもの頃に読んで以来、朝起きた時になんとなく不機嫌なことがある度、それを思い出すのだけれど、どうしてその対処法はないのだろうと続けて思ってしまうからますます機嫌が悪くなるのだった。
 今朝のフカミは、たぶんここ二週間、残業と飲み会が続き、なんとなく忙しなかっただけのことが今になって面倒に思えてきて機嫌が悪かった。
 それで、毎朝欠かさず洗濯機を回していたのも止めにして、カーテンも開けず、ソファに座り込んでずっとスマートフォンをいじっていじけてみた。
 三十分後に聡子が起きて、いつもと違う様子のフカミを見て「おはよー、どないしたん?」とさほど気にするでもない調子で言ったのが、フカミにはなんだか癇に障って、「何もないけど」とつっけんどんに返事してしまった。つっけんどんに返事してしまった自分に輪をかけて腹が立って、しかも聡子がそのつっけんどんさに「何その言い方」などと突っかかってきたので、もう取り返しがつかないくらい機嫌が悪くなっていくことを自覚しつつ、まったくもって止められない。
「何もないねんから、何もないねん」
 と聡子の方を見ずにさらに答えてしまう。
「あっそ」
 と聡子はもう興味なく、冷めたコーヒーを口に運ぶ。けっ、俺が淹れたコーヒーじゃないか、などとこれはさすがに口に出したら戦争なので、言わないけれど思ってしまう。
 
 電車に乗れば乗ったで、隣に座ったおっさんが大股を開こうとぎゅうぎゅう押してくるので、ムキになって押し返してしまったり、押し返し過ぎたかななんてすぐに怖くなって、小さな声ですんませんとつぶやいたり。
 会社に着けば、なんやかんやといつもよりもややこしい仕事が多いような感じがして、やるにはやるけどやる気なく、受話器の置き方なんかが少し乱雑。
 
 十九時半に帰路に着けたから聡子に「帰るね」と連絡したら、聡子から「晩ご飯何作ろうか」と即答があって、ぼくがレシピを考えなあかんのか、と唐突な怒りがこみあげた。
「鶏肉と玉ねぎと卵があるから、親子丼とかでええんちゃう」
 と冷蔵庫の中を思い出して返信したら
「あー、どうやって作るん?」
 と返事がすぐ来た。親子丼で検索したら山ほど出るやろ、と打ちかけて止め、検索してそのURLを送付した。
「ふーん。ま、帰ってきたら一緒に作ろ」
 と聡子の返事。どうして俺がいないと作れないのだ、とフカミはむすっとした。
 
 遅く帰ったフカミが親子丼を作り、皿洗いをし、洗濯物を取り込んで、風呂を入れた。聡子はフカミの周囲をうろうろするばかりで、いつも以上に何もしないのは今朝の報復なのだろうか、ただ本当によく分かっていないのか。
「美味しいね」
 と聡子が言うが、フカミは
「うん」
 とそっけなくなる。ダメだ、ダメだと思うのだけど。
 
 寝床に着くと聡子が「円山ちゃんが結婚するって、インスタに写真載せてる!」と友達の結婚報告をしてくるが、フカミは円山ちゃんのことはあまり知らない。
「ふーん」
 と鼻で返事をして、インスタを見せてもらったら、婚姻届けを手に持った男女が映っており、
「この場でのご報告となり申し訳ないのですが、この度結婚いたしました! 夫婦二人で力を合わせてがんばります! みんな、これからもよろしくねっ! ♯円山から角田へ ♯ディズニーの婚姻届 ♯どうも人妻です ♯末広がりの八日を選んだよ ♯これからもよろしく」
 と書いてあった。
「『この場でのご報告』ってのが芸能人みたいやね。一般人と結婚しました、みたいな」
「うーん、そうかな。直接会って言えてない人ごめんねって意味やん」
「ふーん」
 フカミはコメントを見たら、聡子が
「まるやん、おめこ! また遊ぼな! これからはかどたんかー。末広がりでお幸せに!」
 とコメントしていたので、フカミはニヤニヤしてしまう。
「どしたん?」
 と聡子が不思議そうに聞く。
「『おめこ』ってさあ、おめでとうの意味で書いてるんやんね?」
「うん。略してんねん」
「『おめこ』ってさあ、関西弁で女性器を指す言葉やねん」
 とフカミはスマートフォンで検索して見せた。
「へっ? ほんまに?」
 と聡子が画面を覗く。
 
 女性器の俗語。女陰の俗称。近畿で使用。また、性交することを「おめこする」という。これが使われる以前は「おそそ」と言い、四国で使われる。近畿の外側で「めんちょ」、東奥羽で「べんちょ」「べっちょ」、北奥羽や北海道で「だんべ」、九州などで「ぼぼ」など。「万個」「おまんじゅう」などに反応するのは関東人で、関西人は「全国共通おこめ券」「青梅国際マラソン」「あけおめことよろ」「お目こぼし」「なめこ汁」「飴、コーヒー、ライター」などに反応する。放送禁止用語
Weblio辞書)
 
中島らもが書いてて知ったから、あんまりみんな知らんのかも。『おソソいたしました、どうぞオメコぼしを!』ってギャグがあって……」
 と言いながら、フカミは笑いがこみあげてきた。
「マジかー。『まるやん、おめこ』、やばいやん」
 と聡子がわざわざ口に出して言ったので、フカミはこらえきれず声を出して笑った。
「『まるやん、おめこ』、止めて。めっちゃおもろい」
「普通におめでとうの略で使っててんけどなあ。ほら、他にもそんな感じで使ってる人いるやん」
 と聡子がインスタで検索した画面を差し出す。確かに結婚や出産に対して「おめでとう」という文脈で使っている人がいる。
「ふーん。まあ、聡子くらいの年齢なら、って同い年やけど、知らんやろうから大丈夫ちゃう。高度な下ネタと思われている可能性もある……、ないか」
 フカミと聡子はその後布団の中で「まるやん、おめこ」を連発して一頻りお腹がよじれた後、知らぬ間に眠りに落ちていった。
 
 新聞の投稿欄を読むと、政治家や官僚、公益団体とか教師とか、もういろんなあらゆるものに憤っている人たちがいることを知る。あるいは、電車で座席を譲ってもらえて嬉しかったとか、座席を譲ったら感謝された嬉しかったとか、そんな話をわざわざ新聞に投稿する人たちがいることも知る。
 しのの母親は投稿欄が好きで、こんなことが書いていた、あんな意見があったとしのに話してくれた。
 リビングテーブルに、ばさっと大きく広げ丹念に読む。いつからか老眼鏡をかけていた。病院のベッドの上でも読んでいたし、抗がん剤治療で痛みが続き、寝ているのか起きているのか分からない状態でも、朝だと気づけば新聞を読みたがった。
 それだけが、たぶん、仕方がなく受け入れていた専業主婦の自分と社会を結び付けていたからだと、しのは今は思う。
 母親のことを思い出すと、自動的に父親の顔を思い浮かんでしまう。しのの父親は今頃、再婚相手と楽しくやっているのだろうか。
 興味はないし、交流もないし、遠くから幸せを祈るのみだが、父親に再婚すると言われた時その通り「興味ないし、特に交流する気もないし、遠くから幸せを祈っているよ」と言ったら、激怒された。「人でなし、恩知らず、薄情者」という人格否定三点セットを忘れることができない。皇太子の「人格否定発言」ってなんだったっけ、いつのことだっけと適当な連想で現実逃避してしまうくらいに、嫌な言葉だった。
 政治家や官僚、公益団体とか教師に憤る人がいるように、息子に憤る人もいるし、それをやり過ごす息子がいる。
「カナさんのことを娘のように迎えたいと思ったが、あかんみたいやな」
 というよう分からんことを言われたこともある。
「別にカナはお父さんの娘じゃないので特に問題ないですよ」
 と困惑気味に言ったら、またしても怒鳴られた。カナに経緯を話してみたら、カナも困惑していた。
「しのくんのお父さんは、しのくんのお父さんやんね。何が変わるんやろ」
 オリンピックや国会討論、働き方とかご近所付き合いとか、学者や芸術家のコラム等各種記事を考え事のうちに読み終えてしまい、さらに無意識裡にスーツに着替えていた。
 朝の寒さがマシになり、過ごしやすい朝になったな、とスラックスから飛び出る裸足の足を見る。
「もう行くの?」
 とお弁当を作ってくれているカナに声をかけられて、「うん」と返事をした。
 今日もとりあえず会社に行く。
 明日行くかどうかは明日決める。そう思いながら、毎朝を迎える。いつの間にか着替えられている内に出かけてしまえば、何とかなる。
 
「一日一番、って言うけどさ、本当にその日一日に集中できるのって幸せよな」
 フカミはプロントで、しのを相手に相撲話を打っていた。
白鵬もさ、もう後は記録伸ばすばっかりで、あらゆる記録を極めてからもそれを伸ばし続ける目標を立ててやってるけど、めっちゃしんどいことやと思うねん。
 四十回優勝しようが、千勝以上しようが、それでも明日があるって、なんて言うたらいいんか分からんけど、酷くない?」
「まー、確かに、オリンピックでメダル取っても、その後の生活がすべて保障されてるわけじゃないもんなあ」
「そうそう。最近めっちゃ思うのは、never young beachって好きなバンドあるんやけど、ぼくらよりも年下で。
 めっちゃええ曲、『明るい未来』と『お別れの歌』って言うのがあんねんけど、それでも彼らはむしろ今からライブ続けて、どんどんいい曲作ってかなあかん。どの程度売れるか、売れたいかは別にしても、メジャーでやり続けるならそこそこの集客力保っていかなあかんわけやろ、たぶん。
 でも、たぶんぼくはこれからの人生で何度でもさっきの二曲を聴くねん。ずっと。だから、彼らにはこれからの先の人生に年金をあげたいって思うもん、財力あったら、ほんまに。ないけど。CD買ったげたり、ライブ行ったげたりしかできへんけど。
 だからもしこの後彼らが失速しちゃって、経済的に困窮してしまったらって考えると、あかんやろって、つらいなって思う」
「若手のバンドかあ。お笑い芸人とか俳優とかもそうやんな。一本うまくいったって、一生うまくいくわけちゃうもんな。
 さっき言ったオリンピックのメダリストは、スノーボードハーフパイプ平野歩夢を頭に思い浮かべて言ったんやけどね」
「あの決勝は良かった。勝ってた気もするけどな、王者の風格にやられたね」
「うん。平野君は十九歳やで。あと何年生きるか分からん。
 でも、あんないいパフォーマンスしたんやから、もう後の人生、ほんまは何もせんでええ気がするねん。一生、国が面倒見たげてもいいくらいやと思うし、税金、そうやって使ってくれてかまわんやん」
「そうそう、そういうこと」
 二人は少し押し黙って、うーんとか言いながら、飲んだり食ったりした。
 
「フカミくん、機嫌悪くなることあるねん。怖いねん。むすっとして黙るから」
「分かるわ。こいつ、黙るよな。怖いで」
 しのは途中でフカミに向かって言った。
「そんなことない、とは言えないけど、そんな機嫌悪いこともないよ」
「嘘やん、この間の朝とかめっちゃ機嫌悪かったやん。何言っても『そうちゃう?』みたいな」
 聡子がフカミを責めるので、フカミは嫌な気分になる。しのの前でそんな言わんでも、という気持ちも沸く。
「だって、朝忙しいやん。ゆっくり新聞読んだりしたいから、洗濯したり、髭剃ったりするのに時間割かれるのが嫌やねん。で、機嫌悪いように見える」
「ううん、私が洗濯物手伝わへんって怒ったことあるやん」
「あー、だって、実際やらへんやん。たぶん、三日くらい溜めたとしても、やらんと思う」
「なにそれ。嫌な言い方」
「まあまあ。そんくらいにして。あとは家に帰って二人で話し合ってくれ」
 しのが間に入ったが、聡子はもう十分怒っていた。
「言うたらあれやけど、共働きで、別にお互い残業あったりなかったりするから、五分五分のはずやのに、ぼくが家事の八、いや、六割くらいやってるって気持ちはあるよ」
 フカミは言っちゃったなあ、と言った後に思った。
「私だってやってるよ」
 聡子がフカミをにらむ。目に涙が浮かんでいた。
「や、別に責めたいんちゃうねんって」
 フカミは焦ってフォローするが、聡子は「お手洗い行く」と席を立ってしまった。
 ため息をついたフカミに、しのが笑顔と困り顔を合わせた表情をする。フカミはちゃっちゃっと愚痴ろうと思った。
「実際、半々でやってて文句言うなら分かるけど、大分偏ってんねんもん。責められるん、アホらしくない?」
「アホらしい。でも、やってあげてんのに、って言っちゃったら終わりやねんよな」
「それな。確かに、母親に『やってあげてんのに』って言われたら、もう終了やんな」
「それ」
「しのはどうなん」
「ウチはカナが大半やってるけど、最近は休日ちゃんと取れてるから、そういう時は率先してやってるよ」
「ふーん。まあ、年上のおっさんらもだいたいそんなこと言うよな」
「だから、余計に割食ってる気がしてるんちゃう?」
「そうかもしれん」
 聡子が戻り、しばらくどうでもいい話をしてから解散した。
 
「なんなん、怒ってるん」
「怒ってない」
「怒ってるやん」
 という不毛な喧嘩が始まり、だいぶ経ってようやく本題に入る。
「聡子が全然家事してへんみたいに言ってごめん」
「別に。実際やってへんし」
「黙って不満溜めずに言うようにするから」
「言われても困るから言わんでええよ」
 折れようとしているつもりのフカミは、聡子のにべもない対応に腹が立ってくる。
「もうええわ」
 とフカミはぷっつり黙った。
 子どもの頃、小学校低学年の頃、家族で出かけて何があったか忘れたが、不機嫌になって、電車を降りた瞬間走って家の近くの公園まで一人で行ったことを思い出した。誰も追いかけて来ず、公園のベンチでぼーっとしていた。普通に通り過ぎた両親がフカミを見かけて「何してんの」と平然と言ったのがショックだった。
 その土日もお互い不機嫌なままで、月曜の夜になってようやく聡子が「ごめん。これからがんばる」と言って、仲直りになった。
 
 フトーは、うっすらと雪の積もったお墓が並んでいる真ん中にいた。祖父母のお墓がここにあるはずだが、どこにあるのか分からなかった。父方の祖父母なので、母親も知らないと言っていた。父方の伯父が面倒を見ているはずだが、父の死後、疎遠になっていた。
 墓に参ったって何の意味もないって昔から思っていた。今も思っている。ただ、札幌に来てしまったのだから、墓参りしておこうと思った。
 思い立って札幌に来て、一か月が経とうとしていた。ゲストハウスの手伝いをしながら、そこを寝泊まりの場所として借りていた。
 ゲストハウスで働く人たちは前向きで、良い人ばかりだった。そこで得た経験や人脈を使って、これから先の人生でしたいことを見つけていくらしい。そういう話を聞いてしまうと、フトーは「自分は起業したいと思ってます」なんて、迂闊に言えないような気になって、日を追うごとに「そろそろ帰ろう」と思う気持ちが増していた。
 雪に覆われたモエレ沼を見て感動もできたし。
 三十分ほどうろうろして、それらしいものはまったく見当たらなかったが、フトーはお墓を出た。小学四年生の時に両親に連れられて一度来た記憶と、ここはまったく重ならなかった。