7月の中旬、天皇が生前退位の意向を持っている、と唐突に報道されたのは不思議だった。
参議院選の最中で、東京都知事選の候補者が誰になるのか、という政治の話題に尽きないはずのそのタイミングで、天皇が云々等々報道され、ぼくとしては「なぜ選挙のことを報道しないのか」とうんざりした気持ちすら持った。
そして8月8日、天皇のお気持ち表明として、映像でメッセージが語られた。
まずは面白いな、と思った。政治的なことを言ってはならないので、「お気持ち」を表明するという歪んだ構造を、だ。
天皇が天皇自身について、政治的でなく「気持ちを語る」という事態に合わせ鏡を見るような不思議な感覚を覚える。
メッセージの主眼は、生前退位を考えた理由である健康問題だった。
既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。
各地のお祭りや催事、宴会、テレビ番組、CM、ありとあらゆる物事が自粛されたと聞く。
「なんだかなあ」と思う。
「吐血報道」の数日後には娯楽番組などの中止や変更が多発。軒並み報道番組やドキュメンタリー番組に差し替えられた。それは『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)『スーパーJOCKEY』(日本テレビ)などのバラエティ番組だけでなく、『全日本プロレス中継』(同)などスポーツ中継、はては『ひらけ!ポンキッキ』『おそ松くん』(ともにフジテレビ)『仮面ライダーBLACK』(TBS系)などの子ども向け番組にまで及んだ。他にも『笑っていいとも!』(フジテレビ)ではタモリによるオープニングの歌やダンスがとりやめになるなど、中止にならなくとも通常の状態ではない放送が長期間続いた。
「自粛」というのが、誰から誰に要請されたものなのか、というのがはっきりしないから、気持ち悪いし、たちが悪い。
誰かの「そうするのが当たり前だ」という、根拠不明の怒りに付き合わないといけないのが鬱陶しい。マスメディアを通じて、そのムードが増幅され、否が応でも巻き込まれる。
この動きって、戦争へと突き進んだ時と何も変わってないんじゃないか…?
メッセージの中で、以下のように天皇自身が「象徴」であることに言及しているのも興味深かった。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。
天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。
そもそも、誰かを「国の象徴」にしてしまうことが許されるのか、とぼくは感じる。
むちゃくちゃじゃないか?
今回のメッセージに対して、様々な識者が様々なことを語っているかと思うが、「天皇制の在り方を見直すべき」とは言えども、「天皇制は人権侵害なので廃止すべき」という意見は今のところ目にしない。
党綱領に天皇制廃止を掲げる共産党からもそのような声は聞こえない。
天皇家に生まれたせいで、何をするにも、何を話すにも、常に制限がかけられる。
衣食住はじめ、職業選択の自由からなにからなにまで、ありとあらゆる人権が認められていない。
有り得ない、としか言いようがない、とぼくは思う。
それでも、一人(正確には「天皇家」なので一人ではないが)にその犠牲を強いることで「国」を保てるのだから、仕方がない犠牲なのだ、というのが日本国民の総意とすれば、有り得ない発想を持つ国及び国民だ、とぼくには思える。
そこまでして「象徴」が必要なのか?
たとえば、目をつむり、新たに目を開いた時、あなたが天皇になってしまうとすれば?
ぼくは誰かのことを考える時、この発想で考えてみる。
思い及ばないことも多々あるが、天皇になるのを想像すると、アイドルや歌手、芸能人、政治家になるのとは別次元の「理不尽で強制的な公人」に仕立て上げられる恐怖を感じる。
「天皇」という象徴を必要としているのは、なぜなのか、まず考えてほしい。長い歴史の積み重ねの中で、直せるものは直していけないなら、それはおかしい。
なぜ必要なんだろうか? 人権を明らかに侵害しても、なお。