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いつも考えていること

シン・ゴジラについて、できるかぎり語らない感想

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昨年、劇場で2回観るほど興奮し、先日はオーケストラまで聴きに行って、ついにブルーレイを買うに至り、ようやく少し感想を書きます。

とはいえ、公開時にかまびすしく語られたような考察には与したくなく、単にゴジラ対人間の活劇として面白い、と思うだけだ。 

というのも、この映画はあらゆる感想に耐えうる強度の強い映画であり、人によって語りたくなることがぼこぼこ出てくる、「語りたい気持ちをくすぐる作品」だから、語らないことこそ大切なのだと思う。

しかしながら、3点、述べたいことがある。

まず、1点目は、映画が権力側を肯定的に描くことについて、だ。念頭には「突入せよ! 「あさま山荘」事件」への感想がある。権力側を肯定的に描く作品は、映画に限らず、プロパガンダの意味合いを持たざるを得ない。時の政治体制を手放しで肯定することは、背中合わせに、権力が芸術へ介入してくることを拒否できなくなる恐れを持つ。

美術の世界では「未来派」という作品そのものは素敵な一派がある。イタリアを中心とした芸術運動であり、「咆哮する自動車は「サモトラケのニケ」より美しい」という言葉に象徴される、あまりにも無邪気なテクノロジーや機械、スピードを称賛する姿勢はやがて、ムッソリーニに取り込まれ、イタリアのファシズムに加担することとなった。

政治への批判的な姿勢を持たなければ、芸術は容易に政治に取り込まれてしまう。

さて、「シン・ゴジラ」は権力側を肯定的に描いた映画だと言える。官僚が官民一体となったゴジラ凍結作戦を立案し、少なくない作業員の命を犠牲にするものの、全体最適としてゴジラの凍結を成功させる筋立ては、政治主導のリーダーシップと官僚による音頭取りを全面的に信頼=現政治権力を肯定した映画と捉えざるを得ない。

むろん、ゴジラが初めて東京に現れた際、初動対応に時間を要したことで、被害の拡大を防ぐことができなかった、という点で、儀式的な会議や文書主義、役所の縦割り等に対する批判的な側面もあるけれど、それらはむしろ「独裁的な政治の方が決定が速い」という子供じみた発想の裏返しにも思える。

そればかりでなく、書きたいことの2点目になるが、もう一つ物足りなく思えるのは野党の不在。政権与党による(劇中、時間がかかると表現されているが)迅速な決定を、野党はどのように批判していたのだろうか。確かに、東日本大震災の時も、その渦中における野党の存在感は薄れてしまっていたが、とはいえ、実際の政治運営においては何らかの役割を果たしていただろうことを思うと、たとえば「ヤシオリ作戦」に対し、作業員の人命軽視を批判する声はなかったのか。与野党協議を経ずに、首相の印鑑一つでGOサインが出され、実行されたものなのだろうか、と思うと不思議である。矢口は多くの犠牲者を出したことについて「責任を取る必要がある」旨ラストに語るわけだけれども…(特典映像の現場メイキングのラストシーンで、ヤシオリ作戦を見守る巨災対メンバーが作戦の成功を喝采して喜んだところ、庵野総監督が「人がたくさん死んでるのに、そんなに喜べる場面じゃない」旨叱責する様子が映されていた。そうした姿勢が、もっと劇中、明確に表現されてもよかったのではないか)。

また、3点目として、これはあえてなのだろうが、天皇の不在も気になるところ。あそこまで皇居に迫られて、天皇が話題にならないのは不自然だが、先に述べた通り、あえてのことなのだろう。錦の御旗は与党にあり、ということか。

 

しかし、しかし、そうした考察的な部分はすべて捨て去ることが肝要。この作品の魅力は、早口で難解な台詞や効果的な音楽により、場面ごとに抑制されたテンポだ。進むべきところは早足で、見せるべきところはゆっくりと、緩急をつけた演出がぴたり!ハマっていて、引き込まれてしまう。

「この機を逃すな! 無人在来線爆弾、全車投入!」

こんなパンチラインのある映画、日本語を使用する人間だけがオリジナルに楽しめる特権ではないか。

中毒的な要素を持つ本作品。こねくり回して語るのも良いし、娯楽として手放しに楽しむことも、許される姿勢だろうと思うのだ。