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いつも考えていること

ポップスターの悲劇

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国立新美術館「生誕110年 東山魁夷展」を観た。

東山魁夷という名前や「道」あるいは「緑響く」などの有名な作品を知っている人は多いだろう。「国民的画家」である。

しかし、本展覧会、まったく東山魁夷という芸術家のキモが分からなかった。

たたひたすらポップな作品が並んでおり、ここは本当に美術館なのか?というモダンな疑問さえ浮かぶほどである。百貨店のギャラリーで、一枚ウン十万円~という具合に見える。

山、森、滝、夕暮れ、朝焼け、白夜、雪。描かれているモティーフは具体的なのに、描かれている場所はあくまでも抽象的。

なんとはなしに、日本の原風景みたいな、どこかで見たような気持ち、郷愁を煽る。

東山魁夷のポップさとは、残念なことに「懐かしさ」「既視感」なのである。不愉快なまでの「懐かしさ」。

なぜこうまで懐かしいのかと考えれば、表される「懐かしさ」が画家個人に固有するものではないからだと思い至る。

常に「私たちの懐かしさ」とでも言うべき、一人称複数の「懐かしさ」が描かれるが故に「私たち」は安心してこの絵画と向き合うことができる。

反対に、「私たち」という一人称複数形に対して、ぼくはぼくを縛ろうとする強制力みたいなものを漠然と思って、嫌な気持ちになってしまうのだ。

 

そして、画面には人がいない。自然だけが屹立している。

一方、画面のこちら側にはそれを覗き込む「私たち」がいる。「私たち」はいるが、「私」はいない。

そして画家はどこにいるのか?とその姿を探してみても、どこにも見当たらない。画面に人がいないように、こちら側に画家はいない。

しかし、東山魁夷は自身の目で見た風景に自身の心を重ねて描いたのだと言う。

果たして、自分の心を覗いて、そんな綺麗な心象風景しか見えないのだとしたら…。失礼かもしれないが、こんな気持ちの悪いこともないのではないか…?

寂しさや悲しさもなければ、楽しさも嬉しさもない。ただ、懐かしさしかない。懐かしさ…。

 

美しい心象風景と作り手の不在。ぼくは彼の作品を広告宣伝のように感じてしまった。

また、日本画でありながら洋画のエッセンスを多分に含んだ画面構成にも「これは立派な絵画である」と思わせる安心感がある。

ぼくにとって今、東山魁夷という芸術家は謎のポップスターである。

有難がって観るものかもしれないが、ぼくはそんな素直な人ではない。

なんか、紹介の仕方が悪いのではないか。人間、東山魁夷に迫るような特集を望む。

 

その一方、ノルウェーの国民的画家、ムンク

偶然同時期に開催されていただけで両画家を比較するのもおかしな話だが、国民的画家という点で共通する。

ムンクというと暗い絵の印象が強く、ゴッホみたいに死後評価されたものと思っていたが、意外にも(?)存命中に画家としての成功を掴んでいる(80歳まで生きていたことにもびっくりだ)。

東山魁夷とは正反対に、人が描かれている。あるいは人が描いていることが分かる。書き手が不在になることがない。ぼくはそれにホッとする。

月の光の丸く伸びる様など可愛らしい。

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この「すすり泣く裸婦」がお気に入りだ。観ているととても悲しい気持ちになるが、だからこそ観ていて落ち着く。そして、家に置いておきたいと思う。 

 

私たちが被造物であるように、芸術は人工物である。つるんとした、手触りのない工業製品は、僕はあまり好きではない。