Nu blog

いつも考えていること

白鵬がんばれ

白鵬は、そんなに悪いことをしたのか?

そんなに批判されるようなことをしたのか?

ぼくは、断固、白鵬は悪くない、と言う。

ぼくは白鵬のファンであり、白鵬を贔屓しているからだ。

ぼくが相撲を観始めた時、白鵬は若かった。強く、これからもどんどん強くなる人だった。そして実際、誰にも負けないほど強く、63連勝を成し遂げ、6場所で2回しか負けていないという驚異的な記録も打ち立て、同じ「翔」の名を与えられた者として、誇らしく思ったものだ。

 

2016年3月、大阪場所の千秋楽、白鵬1敗、稀勢の里豪栄道2敗。稀勢の里豪栄道は直接対決のため、どちらかが2敗のまま。白鵬日馬富士に負ければ、稀勢の里豪栄道のどちらかと優勝決定戦、という大一番。

白鵬、立ち合いすぐに手を出したかと思うと、ひらりと体を左に交わし、勢いよく飛び込んだ日馬富士は目標を見失いそのまま土俵下へ…。場内は観客の反応に騒がしく、解説者の北の富士さんは怒りをあらわにした。

この大一番で変化は期待外れであった、と。

 

ツイッターでも非難の声がすぐに上がる。

能町みね子さん(漫画家。好角家で知られ、NHKにも出演されている)の反応は以下。

 そのほかにも様々な非難が飛び交ったのは事実である。「呆気ない」「つまらない」というものから、能町さんのような「白鵬否定」まで、それは優勝インタビューが行われるまで、ぼくのタイムラインは止まらなかった。

なお、ぼくの反応は以下。勝った瞬間にすぐ「やった!」と喜びのツイートをした。ぼくにとって、あの立ち合いは、何も憂うものではなかったのである。

 

ここで、2つのことをぼくは書きたい。

一つは「立ち合いで変化することは卑怯なのか?」という問題。

もう一つは「白鵬批判はすべて人種差別ではないか?」という問題。

 

1.立ち合いで変化することは卑怯なのか?

 「変化で決まる相撲はつまらない」というのは一つの価値観でしかない、とまず断言しておきたい。もちろん、一瞬で決まってしまうから「あ~」と嘆息が漏れることを否定はしないが、つまらないかどうかは場合によるし、人による。

 千秋楽の、この大一番で、という意見は分からなくもない。

  能町さんに至っては「少なくとも「横綱同士の千秋楽結びの一番での変化」だけはどんな場合でも批判する」とまで言い切っている。批判する、というのは「許せない」という意味のようである。

 しかし、何が許せて、許せないのか、というのは、もはや土俵の上に立つ二人にしかその共通認識を持ちあえないのではないか、その取組の当事者である力士2人にしか「許されること」「許されないこと」は決められないのではないか。

 小説家の保坂和志は「野球は何が起こるか分からない、と言うけれど、ピッチャーがマウンド上でいきなり魚をさばくような訳の分からないことは起きない」とストーリーを面白く感じる人間の性質について言っている。

 つまり、野球であれば、ピッチャーがいてバッターがいて、点が入ったり、抑えられたり、エラーがあったり、危険球があったり、そういうような「想定できること」が様々な組み合わせの中で起こる。

人がストーリーの展開を面白いと感じられる理由は、展開が予測の範囲だからだ。その枠をこえた本当の予測不可能な展開だと、感想以前の「???」しか出てこず、面白いどころか「意外だ」と感心することすらできなくなる。

 だから、相撲で言えば、千秋楽だろうが、優勝のかかる一番であろうが、変化はある。かつて、白鵬朝青龍の優勝決定戦で、白鵬が変化し、優勝したことがあった。あの時も物足りないと批判が上がったものの、朝青龍というヒールの存在もあって、今回ほどの批判はなかった。

 何があろうが、それが相撲なのである。いきなり、蹴飛ばしたり、殴ったりしたら、それこそ「ありえない」「許せない」けれども、変化はあり得る話だし、それをなくしたら、相撲の枠組みはかなり変わる。

 ルールを変えろ、とまではいわないけれど、「それも相撲でしょう」というのがある。

 

 そればかりでなく、白鵬の心中を勝手にぼくは推察する。

 15日間、初日に敗れ、徐々に調子を上げたとはいえ、稀勢の里豪栄道との連戦は精神的にかなりの負担を強いられたことと思う。あの立ち合いは、鬼気迫るものすら感じさせられた。勝つことに対する執念があの二日間にあって、それが優勝へとつながったわけだ。

 しかし、ここ数場所の白鵬を見ていれば分かるように、終盤の失速、スタミナ切れか、メンタルが持たないのか、終盤に負けてしまうことが続いた。

 15日目、ほぼ優勝を手中にしたと周りがどれだけ思おうが、本人の胸の内はそうではなかったことと思う。

 ましてや相手は日馬富士。それまで5敗しており怪我もあるとはいえ、鋭い出足で機先を制することは目に見えている。

 かつてであれば、それをどっしりと受け、四つに組み、渡り合っても勝つ自信があっただろうが、もうそうはいかない。

 少なくとも立ち合いで優位な形に持って行きたい、と思えばこその左への変化。もし日馬富士が踏みとどまっても、振り返ることでスピードは殺せ、上体は少し浮く。勝機がある。

 もしも受け止めようものなら、低い姿勢の日馬富士に体を起こされ、腰は浮き、きっと簡単に寄り切られてしまうだろう。そうなれば、優勝決定戦。そこで沸き起こるであろう稀勢の里コールは想像に難くない。一度切れたメンタルを、もう一度燃やすことができるか?

 そんな葛藤をぼくはひしひしと感じた。勝手な妄想かもしれないが、そうやって考えてみれば、何を「許せない」だろうか。あるいは、そういったことを考えず「面白くない」だの「つまらない」だの言っているのであれば、それは浅薄とは思わないか? 

 覚悟を決めて、土俵に上がっている力士に対して、これ以上の何を求めると言うのだろうか。正々堂々と土俵で向かい合った人に対して、それ以上の「品格」みたいな訳の分からないものをどこまで求めるのだろうか。

 その「品格」を問う人の「品格」とはいかほどのものか。

 同じくらいの覚悟を示せる人だけが、「許せる」「許せない」を論じるべきであって、「おもしろくないから許せない」なんて観客の身勝手を選手に押し付けるのは、わがままも甚だしい。

 舞台に上がってきたことをまずほめたたえられるような観客でなければ、おおよそファンとは言えないのではないか。その舞台に上がるまでの努力、覚悟、強さを感じられない程度の人が、ファンを名乗るのは、ましてや批判など、ちゃんちゃらおかしいとぼくは思うのだ。

 

2.白鵬批判はすべて人種差別ではないか?

ぼくは本気で上記のように思っている。 

現にある「歪み」を感じ取れないからこそ差別は連綿と続く。

ぼくはこれこそまさに人種差別だな、と思った。というのも、「親方になれない」のは品格が理由ではなくて(品格が理由になるなんてのもおかしな話だが)、「国籍」が問題なのに、まるで品格の問題のように書いているのだから、品格を問うたふりをした悪質な人種差別でしかない。

能町さんはこの後も「人種差別ではない」という立場みたいだけど、上のツイートのせいで、ぼくは疑わしく感じてしまうのだ。

  

じゃあ、親方になれそうにない鶴竜日馬富士のことはどうなんだろう。彼らの品格はどうなんですか? まさか、ぼくに品格を判定するような度胸はない。ましてや、相撲に励み、ファンと交流し、取材に対応し、ぼくよりも何倍も忙しい人を捕まえて「品格がなってない」 なんて、どの面で、どの口で言えようものか。彼らが親方になれないのは、立ち合いで変化するような力士だからでも、品格に劣っているからでも、なんでもない。ただ国籍が日本でないだけだ。それを盾に「親方になれないまま引退でいいと思う」とは、何事だろうと思う。

 

なんか、書いているうちに泣きそうになってきた。

どうして、白鵬は泣かないといけなかったのか。

どうして、こんなにみんな白鵬を責めるのか。

何を悪いことをしたって言うのか。

相撲を取って、勝ってしまっただけなのに、なぜ、そんな言われないといけないのか。 

何のために生きているのか?

そんなに相撲は大切なのか?

いいじゃないか、何があったって。優勝のかかる大一番で変化して、勝つこともあるだろうよ。そんなに許せないか?なぜ?何が?

そんなに相撲が大事なのか?

この世の中に、そんなに大事なものがあると言うのだろうか。

ぼくにとっては、すべて等しく、ちょっとずつ、どうでもいい。

あるべき姿なんて、ない。

あるものがあるだけだから、それを優しく、柔らかく受け入れていくのがいいじゃないか。どうして、それができないのか。どうして、そんなに頑なにならなくちゃならないのか。

分からない。

書いているうちに混乱してきた。

本当はもっと、理路整然と、落ち着いて反論したかった。

でも悔しすぎて、止まらない。

書いたまま、そのまま、直さずに、載せたいと思う。