Nu blog

いつも考えていること

死にやすくなるために

オチ書きますのでご注意ください。
まず、「貧困」が表されている事に注目したい。
象徴的には男性がフリーターであり、家の名義は彼女のものである等経済的に女性に依存していることが挙げられる。
男性陣で正規雇用で労働している人がいない。
これが特殊なようで、特殊ではなく、むしろ低所得者層にありがちな形態、貧困の一つの在り方なのであることを思う。
 
物語の主軸を担う兄弟の兄はIT系と言いつつ出会い系のサクラをやっている。正規、非正規という雇用形態に関係なく、真っ当な仕事とは言いがたい。一方弟は大学生(卒論がどうのこうの、という発言から。しかし通学している様子は作中においては見受けられない)であり、バイトすらしている様子はない。同棲している彼女の稼ぎに依存している様子が見受けられ、これはオチにあたることだが、彼女の仕事は(秘密にされているものの)デリヘル嬢である。
彼女が望んでその職業についたとは到底思えない。経済的貧窮(同棲の解消を避けるため?)からその職を選ばざるを得なかった、とぼくは推測した。
途中、さほど意味もなさげに提示される「兄弟間の服の貸し借り」(服のお金の出所は弟の彼女)のシーンは、弟の彼女に兄弟二人が寄生していることを示唆する秀逸な演出なのである。
 
貧困がそこかしこに表されている。
上記兄弟の家の他、あと二つの家が舞台となっているが、どちらも経済的に恵まれているとは言い難い状況をまじまじと表している。
部屋の中に散乱したものを見れば、コンビニで買ったと思われるペットボトル、カップ麺、お弁当。
「コンビニのお弁当は高い」という認識がそこはかとなくあるかと思うが、それは料理のできる環境を整備できる「貧困」ではない人の意識である。
貧困に陥れば、まずフライパンを買ったり、包丁を買ったり、各種料理道具を揃えるだけの初期投資やレシピを手に入れるための具体的な行動等が行えない状況になる。明日払うお金をどうするか、という時に、鍋やらなんやら買えない。それがコンビニ等での弁当、カップ麺の購入へとつながるのだ。
長期的にはコストが高くとも、そうせざるをえない。これが貧困である。
 
この映画で表される貧困を、動物園の動物を見るような態度で見ることはぼくは許されるものではないと思う*1
この貧困は、今、自分にはそれは訪れていないが、確実にこの社会に含まれていて、ややもすれば自分の問題として顕在化しかねないことを意識すると、もしかするとこの映画はホラーである。
何かあればぼくたちもそうした自転車操業な生活にハマり込む可能性はある。病気、事故、借金、災害。不可抗力のものを含め大量に危険は潜んでおり、安定は容易く崩れる。
 
この映画に描かれる貧困を、他人事や特殊なことと思い込むのではなく、日本社会が構造的に抱える貧困への無慈悲さ、その普遍性を感じ、どのように自分なら対峙するのか、あるいは日本社会はどうこの貧困にコミットするのか、ただ本人らの問題に帰すべきではないという見方に必然、なるのではないだろうか。
 
「貧困」から離れれば「人は人の上に立ちたがる」といういわば「根源的な欲求」が繰り返し見せつけられる点もこの映画の特徴だろう。
何度となく繰り返される怒声、そのすべての怒りの原因は「自分が長(おさ)である」という状況の維持ができるか、できないか、にかかっている。
兄弟の、特に兄はその傾向が顕著で、彼女だけでなく友人らに対してもその欲望をぶつける。
田舎から出てきた友人を住まわしてあげている男性も、シニカルな態度が多いが、周囲を下に見ることで自分の立場を確保している。
もっとも下っ端のように扱われる男性も、彼女に対しては強く出る。
女性たちの間にも、互いを「品評」するようなマウンティング状態がある。
それらはわが身を振り返って、自分の姿と遠くないもの、むしろそのものとも言える。
 
あるいは「常識」の怖さも感じさせる。
台詞の中に「普通」「日本人なら」「女は」というような枕詞がいたるところに散りばめられている。
「常識」を、誰もが共有しているものと思い込み、さらには目の前にいる生身の人間にそれを押し付けることほど怖いことはなく、それはかようにさらりと日常的に行われているのだ。
日々の生活の中でも常識を疑い続けていては確かにしんどいが、常識のぬるさに浸って自分を甘やかすよりはマシだろう、と思う。 
 
 
ところで、日本においては経済力と文化資本は比例しないと言われている。
文化資本というのは社会学の概念だ。ブルデューという人が提唱した。
面倒なのでWikipediaを引用しよう。
ブルデューは、文化資本の概念を次の3つの形態に整理している。
「客体化された形態の文化資本」(絵画、ピアノなどの楽器、本、骨董品、蔵書等、客体化した形で存在する文化的財)
「制度化された形態の文化資本」(学歴、各種「教育資格」、免状など、制度が保証した形態の文化資本
「身体化された形態の文化資本」(ハビトゥス; 慣習行動を生み出す諸性向、言語の使い方、振る舞い方、センス、美的性向など)
要は、お金では買えないその人に養われた文化。俗に「育ちがいい」とか「育ちが悪い」というようなことを言うが、おおよそそういうものである*2
この映画を観ていると、この文化資本という概念のことを思う。
もっとはっきり言えば、この映画に出てくるような人はこの映画を観ない、というような気持ち。
 
ここで更に話を飛ばして、成人式について考えてみたい。
今年の成人式でも激しいパフォーマンスがあったようだ。
もはや伝統芸能の感もあるほどだ。
成人式が話題になる時、大抵はそれについて眉をひそめる意見が多いものだが、今年はTwitterを見てると、「彼らにとってこれが最後の華やかな瞬間だ」というような哀れみのような意見が散見された。
前からそのような見方はあったのかもしれないが、要約すれば「この成人式以降、彼らが輝ける時はないのだから、目くじら立てずに見守ろう」的な意見。
凄まじく上から目線で、それを言っている人は「私には今現在輝いている日々があるのだけどね」と言わんばかりで胸糞悪いなと感じた。
当該ツイートを見つけられず悶々としている。 
 
どんな人にも、文化資本がたくさんあろうとなかろうと、たとえSMAPだろうと、経営者だろうと、「くだらない毎日」がないわけないのだ。何もなし得ない日々が人生を底から支えているのだ。
そのことを否定してはならないし、そうした日々を軽々しく扱うことは人生を軽いものとすると思う。
くだらない日々に、つまらないことに、小さなことに、思いを詰める。
 
日々を「くだらない、つまらない、小さい」ものと思い込むことは、日々訪れる無数の差異を無視することに他ならず、それを「慣習」と言う。
慣習に従えば、楽なことも多いが、つまらないし、くだらないことになる。
日々の中に潜む無数の差異を感じ取れるようになろうとすることを「向上心」と呼ぶのではないだろうか。
向上心がない奴はバカだ、とは夏目漱石の『こころ』の有名なセリフだが、バカとまでは言わないまでも、向上心があった方がやっぱり死にやすい。
死にやすい、というのは生きる日々に満足できているから、死んでもあまり悔いがない、ということである。
先日のバスの転落事故で、メディアは亡くなった方々のエピソード集めに奔走して顰蹙であったが、ぼくがもしも不慮の事故で死んでもそういったエピソードは要らない。
日々に満足しようと努めていた、とただそれだけをみなさんの心の内に留めておいてもらえたらそれでいい、ようにしたい。
 
文化資本や成人式、日々の満足の話は映画の登場人物のような「日々の差異のなさ」に飽きた人々にそのことを伝えたいと思ったのだ。
映画を観て「私たちと変わらない」と思うのまでは感想でしかない。
そこから先、じゃあ私たちはどう生きようか、を考えて、ぼくは「日々の満足」「向上心」、ひいては死にやすさこそが映画の登場人物を、そして私たちを救う方策なのではないか、と思ったわけである。
みんな、死ににくそうに生きている。
死ににくい生き方は辛いものだ。死ねないのだから。
生とは、死の時、何もかも忘れ、自らをも失う時までの、与えられた束の間の幻、と思う。

*1:他のブログの感想を見ていると、そのような見方をしている人はほとんどいなかった

*2:ちなみにぼくはこの「育ち」という言い方が大嫌いであるし、あとお箸の持ち方で「育ち」をどうのこうの言う人は頭がおかしいと思っている。ぼくはお箸の持ち方がいわゆる正しい持ち方ではないので、時折鬼の首を取ったかのように指摘されるのだが、明確にムカつく。お箸の持ち方が汚いと異臭がして周囲の人に迷惑をかけているとか、異音がするとか、明らかな被害を及ぼしているのであれば、人が言いにくいことを言ってくれる良い人なわけだが、お箸の持ち方が通常と異なることがどのようにも他人に影響を与えない。ただ人を貶めたいだけなので、まったく会話として成り立っていない。クソだ。しかも、そういうことを指摘する人に限って、言葉遣いが汚かったり、ナイフやフォークの使い方はめちゃくちゃだったり、フレンチにもかかわらずお皿を持ち上げてスープを飲みだしたり、上記で言うところの「客体化された形態の文化資本」にまったく造詣がなかったり、割と破天荒だったりするのだが、本人は何よりもお箸の持ち方が大切で、それが人間性を決めているかのごとく鼻高々なので、ムカつく。