Nu blog

いつも考えていること

メディアは差別を助長するー2016年初場所について

メディアは我が身を振り返り、自分のなすべきことを考え直すべきだ。

メディアは世間の代表であること(世論の鏡だとか公器だとか自負だけは立派)を盾に「既にある差別」を増長するような行為を止めてほしい。
 
何をそんなに怒っているかといえば私の数少ない趣味「相撲」のことである。
 
まず1つ目は、大相撲中継2日目のことである。
この時のNHKの蛮行をぼくは許さない。
「データ放送であなたも参加 みんなでつくる大相撲中継」と題してデータ放送でアンケートを取った。
4人の大関のうち横綱になってほしいのは誰? と言ったようなどうでもいい質問が続いていた中、後半になってNHKがぶっこんできたのが以下の質問であり、結果はそれである。
今の相撲人気が続くために必要なのは?
①日本人の活躍 73.8%
②土俵の充実 16.1%
③ファンサービス 5.9%
④更なる国際化 4.2%

結果が出た瞬間のぼくの憤りと言えば言葉に表せない。まさに憤怒である。

しかもこの後、横綱白鵬関に同じ質問をしたインタビューが流れされたのだが、インタビュアーは上記四択を示すのではなく「土俵の充実などが挙げられると思いますが・・・」と言葉を濁して聞いていたのだ。

これがまた許せなかった。

NHKは、モンゴル人である白鵬関に「日本人の活躍が重要ですよね」と直接聞けないにもかかわらず、公共の電波を使ってそれを垂れ流すことはできるのである。

なんという裏のあるおもてなしであろうか。素敵な放送局だ。本当にムカつく。

それが白鵬関らいわゆる「外国人力士」には言えない質問だと「分かっていながら」データ放送でアンケートを取る神経がわからない。

無論、白鵬関に対し、何の考えもなく「日本人の活躍が大事ですよね?」なんて聞く神経なら、怒りを通り越して呆れることだ。

なにせ、その後も散々に「日本人」を連呼し続ける醜悪な様は、かつてなく許し難かった。ぼくの観測できる範囲のTwitterのタイムラインにおいては、非難以外なかった(Twitterというのは、見たいものしか見れないものだな、とも思う)。

なぜ、「日本人が活躍していない」と言われるここ二年にも相撲人気が回復したのか、まったく検証がなされていないし、それが白鵬関や日馬富士関や鶴竜関、少し遡り朝青龍関、琴欧洲関、把瑠都関らいわゆる「外国人力士」が大相撲を支えてきたことを蔑ろにしていると、NHKは気づかないのか?

圧倒的に、力士たちに対する感謝が足りていない。まるで、相撲は「国ありき」の競技のようだ。

違う。まずはじめに力士あり。そのことを忘れては相撲を愛することはできない。そう断言してやる。力士以外のすべては、枝葉末節、お飾りなのだ。断じてそうなのだ。

 

2つ目は大関琴奨菊関の優勝に関する報道に対しても怒っている。
「日本出身力士10年ぶりの優勝」を報道したすべてのメディアをぼくは許さない。
 
そもそも「日本出身力士」という不可思議な表現は何かと言うと、旭天鵬関への配慮である。
旭天鵬関、今の大島親方はモンゴル出身であるが、帰化したことにより国籍は日本なのである。そして、最年長での幕内優勝をはじめとした数々の偉大な記録を持つ相撲史に残る力士なのである。
 
つまり、「日本人」の優勝は、すでに旭天鵬関が成していた。それゆえ、「日本出身力士」なる不可思議な表現が生み出された。
国籍主義かと思えば、出生地主義へと鞍替えする。まったく、御都合主義である。
 
そのような曖昧で、侮蔑的、差別的な表現が、外国から来て、帰化もして、相撲に、角界に貢献してくれている旭天鵬関やその他の人たち、あるいは帰化せずともこれまで、そして今も、相撲を盛り上げてくれた「外国人力士」らにどれほど失礼なことか、考えられないのだろうか。
また、優勝した琴奨菊関に対しても「日本出身」であるから祝福されている、という本質を外した現象を少なからず生じさせているということを失礼だとは思わないのだろうか。
地方紙が、その地方出身の力士の活躍を報じているのとはわけが違うのだ。
 
腹立たしいことは、山ほどある。
白鵬関らモンゴル国籍の力士らに対し「帰化すればいい」などと軽々しく言うこともそうだ。
なぜなんの関係もない人間が、そのような個人的な事情に対し安易に踏み込めるのか、神経を疑う。
 
それと、差別と騒ぐから差別みたいになる、というような「まあまあ、落ち着いて」という中立の雰囲気も腹立たしい。
「そういう素直な気持ちもあるやん?」と双方の理解を促すふりをして差別を助長する意見は断じて許されない。
その「素直な気持ち」が差別だと言っているのだから、考え方を根本的に見直せ、という話なのだ。
分かったふりほど恥ずかしいものはない。
 
このような差別は今回だけでなく幾度となく繰り返されてきたことだ。
横綱の品格」だのなんだの「日本人になら分かる」ことなんて存在しない、とぼくは言ってやる。
その「人種」だけにしか分からないことは、差別や偏見が生み出した歪みでしかない。
そんなもの要らないのだ。唾棄せよ!
 
運営である日本相撲協会は、日本国籍以外の力士は部屋ごとに一人、また日本国籍でないと親方になれないというルール以外にそのような差別を行ったことはない、とぼくは思う(反対に外国人力士だからといって通訳をつけたり、特例を認めるような優遇措置も当然ない)。
常に「土俵の充実」を掲げ、勝った者が番付の上に、負けた者は番付を下がる。この原則のみで運営されている。
外国人であることを暗に陽に差別しているのは横綱審議会やメディアや、あるいは観客たちなのである。
メディアや、横審のような組織にこそまずは偏見を取り除いてほしいと思うし、翻って観客たる私たちにもそうした態度が求められる。
いい加減な「日本人贔屓」を早く止めなければ、相撲は滅びるだけだ。
 
白鵬関の終盤の気力の喪失のように見えるあの状態は、先場所でも見られたが、いったいなんだったのだろう、と考えると、ぼくの勝手な推測であるが、もしかすると白鵬関は、相撲の神様が頭を下げて優勝を授けに来るまで待っている、試しているのではないだろうか、と思う。
私たちが白鵬関の活躍を象徴とする「出身国に関わらない応援」ができるようになることを、白鵬関は待っているのだ。
 
偏見を除けないままでは、相撲という文化は、国力の衰退とともに「かつてちょっと栄えた極東の小さな島で行われていたという珍奇な祭りごと」として、白鵬の偉大な記録も、それまでに打ち立てられた全ての功績、全ての栄誉、全ての楽しかった思い出、すべてもろとも、いつか朽ち滅びることと思う。
 
国際化は、どれほど国力が衰退しようと、その伝統を紡ぐ唯一の方策であり、また差別意識をなくすことのできる人道的にも適った道筋である。
土俵の充実、ひいては角界の国際化こそが、今求められるものと思料する。
国技などという戯言に惑わされず、その文化を守るためにこそ拡げてほしい。
ぼくはそう願う。
 
そして最後に、ぼくは今場所、白鵬関が優勝しなかったことが本当にショックである。
ぼくは毎場所、白鵬関の優勝を祈っている。年間6場所、本場所中の毎日勝利を、全勝を祈っている。
またその他の力士の成長をずっと見ていきたい。そう思っている。
だから、頼むから相撲を、健全な文化にさせてほしい。
 
 
余談:新聞というメディアは「国民国家」形成の重要な一要素だった、と言われる。新聞というメディアが、「国語」を作り、「◯◯人(日本人)」を作った。それゆえ、「日本出身力士」というような、歪み切ったナショナリズムが表れされることはなんらの不思議ではないのかもしれない。しかし、もはや国家は必要ないとぼくは考えている。新聞は来るべき「無国家時代」に向け、その主要な役目を果たすべく変革してほしい、というのは、独学的アナルコ・キャピタリストとしての、誰にも理解されない密やかな願いである。