Nu blog

いつも考えていること

『花束みたいな恋をした』の荒ぶる感想

絶対に自分語りはしないぞ、と心に決めつつ、これから100%自分語りをしてしまう共感力。

そう、『花束みたいな恋をした』を観てしまった。期待してた以上の強さ。死んだ。泣いた。隣に座る妻がドン引いていた。菅田将暉(またはオダギリジョー)を観に来ていたティーンエージャーの女の子たちが「なに、あのおっさん、泣いてる、キモ」と俺を指さした。しかし、すべてのサブカル・キッズに送られた物語だ。俺は泣いた。泣きまくった。体が熱くて、今検温されたらヤバかった。

しかし、なにがどういいいのかわからない! 頭の整理をするために今から書く。俺は書く!

イヤホンを分け合っても聞こえてくるのは違う音楽、同じものを二人で分け合い続けることはできないことが暗示される冒頭。同じスニーカー、同じ映画や音楽、小説を好む者同士。つまり、破局は示されている。ちなみに、そこで並べられる固有名詞はまるで私自身を表すかのようで悶絶しまくったのだが、それは別の話(穂村弘だの長嶋有だの舞城王太郎だのいしいしんじだの…)。

押井守をダシにして始まる二人のピンと来ちゃった夜は昨今流行りのむずキュンだ。トイレットペーパーを小道具に調布を歩き回る二人。居酒屋、カラオケ、ドライヤー、本棚、落書き、どうでもいいDVD。別れたその朝、余韻に浸る絹。そして麦は絹に言われた「山音くんの絵が好きって言ってくれた」をカケルこと4回反芻する。山音くんの絵が好きって言ってくれた、言ってくれた、言ってくれた! それだけで生きていけるような気持ち。 4日間一緒に過ごすエピソードはエロくて可愛らしい。パンケーキを食べているけど、した後の二人なんです! この挿話で保坂和志の『草の上の朝食』を思い出した(パッと見えただけだが、麦の本棚には保坂和志が置いてあったです)。

さっそく禁を破り自分語りをいたしますと、学生の自分を表すための言葉がなく、何を好むかを語る以外に自らの「個性」を表す術がないのである。まあ、私はかつてそうだったし、今もそう。しかし働き始めると仕事が生活を侵し、思考回路をジャックし、自らと同一化してきやがる。なぜなら、仕事は生活の真ん中にあるから。エグいね、資本主義!

就職活動はその手始めであり、社会からの手荒い歓迎の儀式なのだが、麦と絹はそこを一旦やり過ごす。多くの恋愛でありがちな就職活動をきっかけとしたクライシスは先延ばしされ、実家からの仕送りを元にした同棲生活が始まる。

小林薫岩松了戸田恵子といった豪華な面々がさらりと現れてはさらりと消える。渋い!

そして就職した二人を待っているのはすれ違い。先ほど申し上げた通り、仕事が生活を乗っ取っていく。学生時代の就活では絹が「現実の厳しさ」に自分を諦めようとするのだが、ここでは反対に麦が「現実の厳しさ」を痛感し打ちひしがれる。ここで折れてるからこそ、仕事人間ができるんでしょうね。

とはいえ私としては、2015から2017あたりは売り手市場で、余裕ブッこいてもどこかに入れてる世代だと思ってるので、違和感あり。菅田将暉有村架純といえば映画『何者』ですが、これが2016年公開なんですね。『花束』後に見たのですが、うーん、あんまりおもしろくなかった。というのも、こちとら就職氷河期終わりなのにリーマンショック後かつ2011震災後世代(2010年3月卒から2014年3月卒の4年だけ就職率が悪かった。その後12月1日時点内定率が8割を超えるなど、売り手市場の風が吹く。悪かったのは4年だけだったので就職氷河期のように世代で括られず、行政における援助対象から漏れがちな世代だと私は思っている)なので、「選ばなきゃどっかに入れるんじゃないの!?」みたいなえげつないことを思いがちなんです。まあ、そんな自分も選んでは落ちて、苦労したわけだから、そんなひどい言葉を思っちゃダメなんですけどね…(はっ、また自分語りだ!)。

仕事に傾く麦はそれまで一緒に楽しんでいた音楽や映画、本から離れていく。本屋に行っても自己啓発書を手に取るし、演劇のチケットを取ったのに出張で前泊するからとキャンセルする。二人を結びつけたのは「文化」だったから、その優先順位がそれぞれの中で変わってしまったら、二人の関係も変わってしまう。

そう、この物語は優先順位の話である。今でも本を読み、映画を見て、音楽を聴くことの優先順位が高い僕からすれば、絹の気持ちになってしまう。映画館を出て最初に思ったことは「いや、それだからこそ俺には文化しかない、文化だけが俺を支えている、文化しかない」という熱い思いだった。

人生には、優先順位を強制変更するような出来事・イベント(それは仕事かもしれないし、子供かもしれない)が発生する。その時、人はどう対処できるのか。「結婚していれば」というラストシーンで出てくるセリフはそのことを問いかけているように思う。結婚していれば、二人の優先順位を「家族・子供」に切り替えてやっていけるだろう。家族という単位の経営を最優先すれば、多少の我慢もしなくてはならないと自分を納得させられる。でも、二人は家族じゃない。あくまでも文化で繋がったバラバラな二人、それぞれの二人、個別の二人、ちょっとずつ違う二人なのだ。

かつて二人が座っていたファミレスの席に若い二人が座る。このベタな展開、当然予想していたからやめてくれと心の底から願っていた。最初ファミレスに入った時はスカされたので、めちゃくちゃ安堵・安心していたら、別れ話のピークで清原果耶と細田佳央太が入ってきて茫然自失、血の気が引いて冷や汗が出た。そして、変奏される新しい二人による、かつての二人の物語。

泣いてまうやろ! そんなもん、泣くに決まっとるやろ! 文化が二人を繋いでいくその瞬間を、今文化との距離が変わり離れようとする二人が聞く。その悲しさよ。しかし文化よ! いつまでも人と人を結びつけてくれ! 文化よ!

と、荒ぶってしまったのは、劇場でも実際にのたうち回って泣いていたからです。少し落ち着きましょう。このシーンは昨年見た松たか子とアベサダヲの『スイッチ』を思い出しました。二人が積み重ねてしまった重たい地層を、かつて二人が過ごした幸福な時間が、さらりとめくってしまう感覚。たぶんね、これ、スピルバーグの『A.I.』で泣いちゃうのに似てる気がするなあ。違うか?

また荒ぶりかけているので、落ち着いて。落ち着いて。どうどう。

部屋を出るまでの三ヶ月、穏やかな二人の生活。ここは『最高の離婚』を思う。別れることが決定した二人による、笑顔の共同生活。明るい日差し。別々にさわやかのハンバーグを食べたこととか、さらりと二人に異なる時間が流れていたことを知る瞬間。

そして街で元カレ・元カノに出会う、イヤホンを分けたカップルを見て毒づく冒頭に戻ってくる。お互い見ることなく、お互いに手を振り合う。同じことを同じタイミングでしてしまうような二人では、もう一緒にいられない。

せっかく積み重ねた時間が、思い出が、幸福な時間が、と思ってしまって泣いちゃうのは私も老いたからか? もったいない、なんて言葉はいけませんね、現実の自分の行動原理がそれと思われるのは不本意なので。でも、これからも文化の優先順位を上にして生きていく限り、積み重ねた時間を不意にすることはないはずだと確信している。仕事になんか負けない。そう強く思っている。

最後にもう一度。俺には文化しかない、文化が俺を支えてくれる。文化しかない。

 

 

 

一晩寝て考えたのだが、絹と麦が出会う夜のこと。終電を逃し、よくわからんカフェで見知らぬ者同士たむろし、意気投合した者同士で居酒屋に行き、好きな言葉は「替え玉無料」と「バールのようなもの」なんて少しボケて、座敷で小説や音楽の話をし、暗い道を歩き回り、人のいない横断歩道を大声で笑いながら渡り、一人暮らしの人の家に行くため、使ったことのない駅を見て、ボロいアパートの音が鳴る階段をのぼり、人んちの本棚を見て、いつの間にか寝てて、ほとんど徹夜明けで頭の中はぼーっとしている朝。僕はそんな朝いつもナンバーガールの「omoide in my head」を聴いた。麦はザゼンボーイズナンバーガールを好きなようだったから(Tシャツがちょくちょく登場してた)、同じように聴いてたんじゃないかなんて思う。明らかに青春にだけ許された時間、きっともう人生にこんな時間が再びは訪れないだろう予感を感じているから、余韻に浸らせてもらう朝。2010年頃の大学生だった僕が大阪、三宮、西北で過ごしたそれらの夜と朝が2015年の明大前や調布で繰り返されていること。そして僕にとっては2012から2015年頃の自分が、東京で友人ができて相撲の話を夜通ししたこととかとも繋がる。誰も明日のことなんて気にせずに笑う夜は、結婚し子供ができた奴もいる今、もう来ない。みんな大切なものをちゃんと大切にするために、そこそこで切り上げて帰る。それに健康の優先順位も上がってきたから、徹夜なんてできない。そんな戻らない、その頃の自分を思い出し、夜また泣いた。あの頃に戻りたいから? 若さが羨ましいから? なんか違う。戻りたくはない。あの頃に戻りたくなんかない。しんどかったことの方が多かったはずなのだ。何もうまくいかず、鬱々とした青春。実家で親の目を盗んで静かにエロ動画を見るような生活。大学図書館で借りたクソ重い本を横目に、開く気がしないようなそんな目的のなさ。でも、それらの日々に紛れて燦々と煌めく友人らとの夜があった。ねえ、みんな。あのワインバー覚えてるよね。一本二千円の一番安いワインを3本も4本も空けてさ、ほとんどつまみなんか食べずに店員の女の子に絡もうとして恥ずかしくてうまく絡めなくて、結局最近読んだ小説とか漫才とか野球の話をしていたね。会計は、前はお前だったから今日は俺だ、なんて順番に払ったんじゃなかったっけ。まあ、だいたい割り勘になってるやろ、なんて言った思い出がある。そんな夜が、今の若者にも絶対ある。その「ある」ってことに涙が出る。みんな、死なないで生きててくれ。生きてりゃ、楽しかったことを思い出せる。楽しかったことだけ覚えてようよ。悲しい思いをさせたことがあるだろうけど、身勝手ながら忘れて欲しい。Googleマップに残るのは、幸せな頃の二人だ。そんな感じで、身勝手に生きていこう。たまに後悔しながら。ああ、もっとちゃんとできたのに、うまくできたのに、そしたら今頃全然違うことになってたのに。そればっかり考えてたら、トラックを海に投げ捨てちゃうのかもしれない。パズドラしかできないのも嫌だしね。思えば、麦と絹が清原果耶と細田佳央太を見て自分たちを重ねていたように、麦と絹に自分を重ねていた僕だった。

さ、楽しい夜の次の朝は仄暗く、自分たちを追い立てるようだけれど、朝だけが救いなんです。さあ、生きよう。楽しいことしながら、生きよう。

落ち着いてみようよ一旦
どうだってよくはないけど
考え過ぎているかも
悲しい話はもうたくさん
飯食って笑って寝よう
Can we play a love song?

ーー宇多田ヒカル『Play A Love Song』

 

 

さらにもう一晩寝て考えたら、「やりたくないことやらなくていいよ」が麦から絹へ変わっていくことも思った。

働かなくちゃ映画も見れないライブも行けない本も買えない。

現状維持のために、やりたくないことをやって、現状が崩壊する。

でもさ、ここまで戯画しなくてもいいよね、実際はさ、嫌な仕事でもほどほどに好きになってほどほどにやってって、ほどほどに休日を確保していくもんじゃない。や、それができないブラック企業もあるけども。たしかに平日はさ、もう電車ん中でパズドラするくらいしか仕事以外のことを考える方法がなくなってしまったりするのかもしれない。でも休日は昼過ぎまで寝て、ちょっと散歩して、本屋冷やかしたりさ、なんかかんかするもんじゃない? ふらっと美術館行ったら、やきとん屋でホッピー飲んだり!

だから、たとえば今若い人たちは恐れなくともいいし、少し文化との距離が開いちゃった人もすぐ戻れるよってことが言いたい。「もう何も感じなくなっちゃったかも」なんてことないよ! かつて感じたことは消えずに、きっと結晶になって人格の奥底にぽろっと落ちてるはずだから!

 

そんでもう一晩寝て起きたら、ああ、でも今の大学生は終電までだべったりしてないかもな、と思った。だってコロナのせいで今こんなじゃない。店は閉まっちゃうし、実家暮らしだと本気で怒られたりするんじゃないかな。街は、昼もあれば夜もなきゃ変だ。飲食店は、切り捨てられちゃダメだ。立派な文化なわけだから、食は人間の生み出した一つのとても豊かな文化だから。

この物語は2020年の春先、コロナ前でプツッと終わる。スクリーンにいる僕らはそのことを知ってる。だから、気持ちがちょっとざわつく。二人は物語の後のこの1年、どう過ごしたのかな、なんて思う。

そんなことを思ってたら、小沢健二の『彗星』と『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』を聴いていた。すごくいい歌だと思った。頑張ってこうと思った。

それからさ、この映画全体をネバヤンの『お別れの歌』みたいだと思った。あの小松菜奈のMV、それはそっくりそのままこの映画なんだろうなあ。うう、また泣きそうだ!

 

さらにもう一晩寝たらだいぶ落ち着いたので、周囲の人に勧めまくった。みんなの感想が知りたいなと思った。

 

 

よし、終わり。終わらせる。