izumishiyou's diary

いつも考えていること

君の名は。

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さほど、という評判だったから、さほどなんだろうなと1.3倍速で見てみたら、さほどと貶める作品でもなかった。

裾野が広がりすぎて、本来興味を持たない人にまで訴求しちゃった結果の悪評のように思う。

アニメ、青春、SF…。本来はそれらが好きな人しか見に行かない、めっちゃ微妙なジャンルではないか。大ヒットする方がおかしい。

 

アニメの得意なところが存分に発揮された作品だと思う。

アニメの得意なところとは、画面に映るすべての情報を操作できることで、映り込む物はもちろん、その物をどの程度写すのがというピントも操作できる。

なので、1回見てからも、見終えたら後だからこその観察が楽しい。

こんなところにこんなものが描いてあったのか、この場面のこの描き方はそういう意味があったのか、と何度も見たくなる仕掛けがたくさんある。

(シン・ゴジラはアニメ的情報量で実写の画面を構成した点に面白みがあった)

実写の良さは、人間が演技することで観客を物語に引き込む没入性であろうと思うが、映像の専門家ではないので、的外れなことを言っているかもしれないです。

 

そうやって画面にたくさんの情報が散りばめられた本作品は、考察欲を刺激する。

エヴァンゲリオン的な「考察サイト」「小ネタサイト」がちょっと調べただけでもボロボロ出てくる。

そうした小ネタを拾い集め、小ネタがわかり合うもの同士でニヤリとほくそ笑む。

由緒正しきアニメの消費法である。

 

ぼくの感想がメタ的なものばかりで肝心の物語に対する言及が皆無なのは、この作品の物語自体は記号的なもの(青春、SF、入れ替わり、巫女、彗星、夏祭り云々)の組み合わせで成り立っており、この表現が伝わるかわからないけど、「叙情性を感じない」からである。

「思春期特有の揺れ動く心などなど、叙情性たっぷりじゃないか!」と反論する向きもあるだろうけど(思春期特有の揺れ動く心という陳腐な表現が思いついてしまった自分が恥ずかしい…)、この物語がそんな"純文学"的テーマを扱っているとは感じられない。

むしろ、葛藤のなさ(入れ替わりに対する順応の早さに顕著)や、無限の体力で山を走り、大災害で起きた被害をなかったことにする全能性(3年前の東京を歩き回る三葉の体力、電車ですれ違ってから階段で出会うまで歩き回る二人)には奇妙な感覚を覚える。

どこにも無力感、孤独感、焦燥感といった近代的な人間観がない。

なぜ2人が入れ替わったのか?この二人の関係は、最後のシーンで恋愛に発展することを示唆するように顔を赤らめる関係が相応しいのか?あの町の人は彗星で死ぬべきではなかったのか?その過去の改変は必要なものだったのか?

事細かな説明は要らないが、それらを感じさせる何かが欲しかった。

しかし、もしかすると動機の不在は、気づいたら生きている(誰も生命の始まりには触れられない)私たちのことかもしれないが、どちらかといえば世界五分前仮説を振り回す中学生のウザさみたいなものを感じる。

「叙情性」とは、世界=「あるということ」に対する信頼である。

その信頼が見当たらない点に、東浩紀がかつて論じたゲーム的なリアリズムの復活(ゾンビ? 終焉?)を感じるが、現代思想家たちはこの作品をどのように捉えたのだろう。暇なときにでも検索してみるか…(やる気なし)。

 

さて最後に。

奥寺先輩のブラがちらっと見えるのは朝の気だるさや奥寺先輩の艶やかさを演出できているけれど、瀧が三葉に入れ替わるたびに胸を揉む描写や三葉が走るたびに胸がわっさわっさ揺れることに何か表されているものがあるかと言えば、おっさんや男子中高生の興奮のツボを刺激しているだけで、その他の意味(キャラクターの性格とか、物語における重大な暗喩とか)がないから、おっさんとしては「おおっ」と反応してしまいつつも、気づけばやはり不快なのでした。