diary

いつも考えていること

専門家であること、専門家でないこと、間に橋を架けること

日常的に接しているニュースとニュースが、自分の中で一本の線になって、ハッとした。

権威とか、専門性とか、ってなんなんだろうか。 
1.美術
二科展に押切もえやAKBグループに所属するアイドルの若月佑美工藤静香が入選したそうだ。

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芸能人が絵を描くとか、彫刻をするとか、いわゆる美術に携わるのはよくある話で、こないだも阪急百貨店でその展覧会みたいなのがやっていた。
たまたま帰省した時にちらっと見かけて、みんな口々に「才能あるねえ」「才能ないねえ」と品評していたのがおもしろかった。
ちなみに、二科100年展というのが東京都美術館でやっていて、二科展というものに触れることができたのだが、すごい。
中川一政東郷青児坂本繁二郎、といった画家に惹かれた。
芸能人の作品がどうのこうのと言うわけでなく、「本業・画家」の気迫。それは、百年経っても古びず、輝く。

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2.文学
こちらの方が話題になっただろう。
お笑い芸人の又吉直樹芥川賞を受賞した。
受賞作についてはいつものごとく文芸春秋を買って読んだ(というか、「火花」単行本があれだけ売れたのが不思議で、文芸春秋買った方が安いし、もう一つの受賞作も読めるのに、と思っていたのだけど、みんな知らないのかしらん)。
オーソドックス、破たんのない踏みしめるような、訥々とした作品で、好感が持てて、優しさを感じた。
もう一人の受賞作、羽田圭介の「スクラップ・アンド・ビルド」の方がお笑い的、全編ボケに満ちていた。そうした笑いが、人間の滑稽さ、寂しさ、やるせなさをそこはかとなく感じさせる。
なににせよ、どちらの作品も「文学」であって、「誰が」書いたか、が問題となるものではないと思う。
 
芥川賞は芸術家の池田満寿夫赤瀬川源平尾辻克彦名義)、ミュージシャンの辻仁成町田康、といった「小説家でない」人たちが受賞することは度々あったし、綿矢りさ金原ひとみあたりから「誰が」書いたか、特に「若さ」なり「女性」なり「前職」なり、様々「話題作り」的に騒ぐことが珍しくなくなった。
しかし、本来作品の出来不出来を見るべきであって、「誰が」書いたかは文学史的批評の観点からは必要かもしれないが、受賞してすぐに重要とされるものではないと思うのだ。
そして、その「作品の出来不出来」から言えば、受賞作は実に出来の良い、山田詠美の言葉を借りれば「ウェルダン」な出来で、ぼくは楽しめた。
3.デザイン
そしてデザイン、話題となったのは五輪のエンブレムである。
デザイナーという専門家と、それ以外の人々(国民?)による「似ている」という指摘との間にある深い溝を感じた。
果たして、どうなのか、と問われてもぼくには分からない。
 
成立の過程を鑑みるに、ベルギーの劇場のデザインから着想を得た(パクった)とは考えにくいと思う。
1964年のオリンピックを想起させる「円」のモチーフはベルギーの劇場のデザインにはないし、それが最大のコンセプトなわけであるから、それをパクったとは言い難いだろう。
しかしながら、原案とされるデザインについて、別の展覧会から着想を得た(パクった)という点は、それは怪しいようにも感じるが、成立の状況が分からないので、何とも言えない。
原案には円の要素がまったくないので、最終案に置いてどうして円のモチーフを登場させたのか、原案に置いてはどのようなコンセプトがあったのか、が説明されないままなのだ。
 
このエンブレムに求められていた「コンセプト」とはなんだったのか。
応募に際して様々な賞の受賞者である、という条件があったというのは広く報道されており、それは権威主義的であるとの批判もある。
とはいえ、ただエンブレムを作って終わりではなく、そこから派生させたデザインが求められるため、そうした経験のあるデザイナーでなければ2020年までもたないことを考慮しての条件だろうから、それを簡単に批判することはできないと思う。
 
結局、このエンブレムというのがすなわち「オリンピックのコンセプト作り」だったのではないか、と思う。エンブレムを通して「こんなオリンピックにしていきましょう」と呼びかけようとして、その役割を一デザイナーに負わせたんであって、そりゃ炎上するだろう。
その「コンセプト」部分はしかるべきところ(IOC内のその部門があるんだろう、知らんけど)で決めた上でデザイナーにはコンセプトの表現を依頼すべきでないか、と思うのだ。
オリンピック開催の意義そのものから外注しているようにしか思えない。
 
にしても、ツイッターで見かける菊だの扇子だの富士山だの、日本の象徴的なモチーフをエンブレムとしよう、みたいなのを見かける度反吐が出る。
それこそ、どういうコンセプトなのか、分からない。まったく国際性を感じないし、そうしたモチーフがはたして東京オリンピックをどのような方向に導こうとしているのか意味不明、ただ見た目にきれいとか日本っぽいとかそういう程度の意味しか感じられない。
そういう日本的なものが、もしもかなりの支持を持っているのであれば、やっぱり一般公募なり一般投票なりというのは、愚にもつかない結論を導き出しそうだと不安を覚える。ぜひそういった衆愚的な選び方は止めてほしいと思うのだ。
その点から言えば、最終案であるあのエンブレムは、1964年の東京オリンピックであったり、そもそもあのエンブレムそのものの躍動感や、伝わりやすさ、分かりやすさから言えば(原案よりも、日本モチーフのものよりも)、素晴らしいものだったのではないかと、撤回された今となっては遅いけれど、思うのだ。 
4.政治
8月最後の週末に、10万人規模のデモがあったという(警察発表や一部マスコミの試算では3万人程度とされている)。
集団的自衛権を認める安保法案への反対デモである。これもまた、政治という専門への、素人の反乱だろう。
高度に専門化した政治において、「隙間を埋める」と言った漠然たる説明でもって「集団的自衛権の行使」が認められる法律が成立するとなれば、専門家でないぼくや他一部市民、国民が不安を感じざるを得ず、その成立に反対しているわけであり、それらの反対に対して「理解が深まっていない(=理解が深まれば必要なことは自明である)」「誤解が生じている(=誤解が解ければ法律の必要性は当然である)」といった専門家による結論ありきな言葉が出てくるのは、まさに専門対一般の構図の最たるものだろうと思うのだ。
 
もう一回、ちょっと書き直してみる。
専門家は必要と言う。
一般人は怖いと思う。
怖いと思うのは意味が分かっていないからだと専門家は諭す。意味が分かれば、必要だと分かるので、専門家たちは賛成なのだと説明する。
でもやっぱり怖いと一般人が言う。
一般人は理解してくれなくて困るなあと専門家は思う。
というお話。
5.まとめ
美術、文学、デザイン、政治、現代社会においてそれらの業は日々進歩、高度化し、専門的に日常接していればその先端化について行けても、表舞台に立った途端そうした先端に触れていない一般に晒され、いわば「いちゃもん」をつけられることが今表面化しているのだと思う。
もちろん、そもそもの倫理観の欠如(作品の良しあしにかかわらず客寄せパンダ的に芸能人を利用するとか、無断で模倣するとか、正義のための戦争を引き起こすとか)があれば、それは専門も一般もなく非難されることだ。
しかし、専門性が強まりすぎた結果、作品の良しあしや模倣か否か、戦争につながるのかどうか、が一般には判断できないとされる状況が生み出されているわけである。
しかし、専門家が「よし」と言えばよいのではないか、と放置していては、実はたいしたことのない作品に利権が群がったり、模倣作品が世に出回ったり、戦争が引き起こしたりするわけだから、「素人」として声を出すことは大切なことだと思う。
 
これからも専門と門外漢の間の亀裂は広がる方向にあるからこそ、橋を架ける技術が求められるのだろう。
スペシャリスト(専門家)でありつつも、ゼネラリスト(広い知識を持った人)であれ、とは中学校の先生が言っていたことなのだけど、その通りだな、なんて10年越しに思い出した。
 
朝日新聞四コマ漫画しりあがり寿の「地球防衛家のヒトビト」で以下のような四コマがあったので、紹介する。
みんな「ただもっとおいしいラーメンを食べたい」だけだから、専門家は作ってみろなんて怒鳴らずに、しかし専門家でない人も文句言いっぱなしではダメで、ともに力を合わせて努力していかないと「おいしいラーメン」は作れないと思いました。
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