izumishiyou's diary

いつも考えていること

「楽園としての芸術」展を観て―歴史的な価値、自分の芸術、理想の誘惑

 先々週、上野の東京都美術館に「楽園としての芸術」展を観に行った。

「楽園としての芸術」展 | Art as a Haven of Happiness

 興奮した、感動した、楽しかった、打ち震えた。

 たとえば確かまだやっている、国立新美術館の「オルセー美術館」展。印象派の作品を観ることは、知的好奇心を満たし、文化的営みの意義を感じさせてくれる。もちろん、絵から湧き溢れるパワー、絵から受け取る気迫、感情をないものとは言わないが、基本的には理性的なエンターテイメントだ。

 しかし、「楽園としての芸術」展はそういう類の楽しさではない。

 もっと、根源的な、「それ!」と代名詞と感嘆詞で指すしかない、伝えられない、言いようのない興奮。

 ただ絵を観るだけなのに、自分の普段のものの見方、考え方、行動、生き方、そんな根本的な地点に立ち戻らないと戸惑ってしまう気もした。 

 なんだか大げさに聞こえるんだろう。

 「楽園としての芸術」展は、「アトリエ・エレマン・プレザン」「しょうぶ学園」というダウン症など障害をもつ人々の作品展だ。

 こういう紹介をすると、もしかして、こう、なんていうか、ネガティブなイメージを与えている気がする。

 というか、僕の序盤の絶賛も、そういった作家の性質を込みにした感想なのかと思われているんじゃないかと不安になる。

 そういった障害を持つ人たちへ単純な幻想、「無垢」「純真」「崇高」をあてはめ、自らの卑怯さやいい加減さを隠滅しようと画策しているように感じられているのではないか・・・。

 

 「アール・ブリュット」とか「アウトサイダー・アート」という言葉がある。

 正規の美術教育を受けておらず、名声を得るためでなく行われた創作活動。既成の芸術、アートと関わりを持たない芸術。芸術の「外側」の芸術。

 「楽園としての芸術」展の作家たちは該当するのかもしれない。といっても展覧会のどこにもそういった言葉はない。そう総称して、ひとくくりにして、「アート」の内側に取り込んで「良し」としないでほしい、ということかもしれない。

 「楽園としての芸術」展の特設ホームページの中で「アール・ブリュット」や「アウトサイダー・アート」という言葉はなく、「障害者アート」という言葉がミナペルホネンのデザイナー、皆川明さんのインタビューの中で否定的に用いられている程度だ。

 

── 実際に「しょうぶ学園」で、たくさんの作品や制作の様子を御覧になって、
いかがでしたか?

 

一言でいえば衝撃的でした。これをはたして“障害者アート”といってよいのか、つまり、“障害者”という言葉を使ってよいのか、自問自答しました。ものづくりのプロセスの中で、どちらかというと自分たちの方にこそ既成概念という障害があるのではないかと感じました。

皆川 明 | 「楽園としての芸術」展 - Art as a Haven of Happiness

 

 検索すると、記事がたくさん出てくるが、そこでは「障害者によるアート」というような言葉が必ず出てくる。

 なんというか、発信する側の意図なんて、メディアにとってはどうでもよくて、受け取り手が一目見て「分かりやすい」ように表現してしまう(ノットイコール理解、だ)。その分かりやすさは、きっとこの展覧会自身がその分かりやすさを覆すのだが、そういった記事を単に受け取り、観に行かなければ、分かりやすさ、いやはっきり言うと「誤解」は解けないままに、同じ誤解は再生産され続けるのだろう。

 

 いや、ちょっと話がずれている。

 アール・ブリュットアウトサイダー・アート(めんどうなので、以下アール・ブリュット)については『アウトサイダー・アート 現代美術が忘れた「美術」』(服部正光文社新書)が詳しいとされている。

 僕もこの本でおっとり刀、勉強しただけなので、無知を晒しているかもしれないが、その際はご指摘、ご鞭撻願いたい。本当に、僕はこのアール・ブリュットというものを知りたいと思っているので、それこそ分かったような感じ、「誤解」はないようにしたい。

 

 アール・ブリュットジャン・デュビュッフェというフランスの芸術家が作った言葉だ。フランス語で、アールは芸術、ブリュットは「生」。生(なま)の芸術。

 

 高校生の頃シュルレアリスムが大好きだったため、デュビュッフェという名前とその異様な作品については知っていた。

 異様、というのはたとえばこんな感じだ(ちょっと、閲覧注意かも)。

暴動 | コレクション | ブリヂストン美術館

 この作品は東京のブリヂストン美術館にあるので、観に行った方がいい。実物は、カラフルで、暴動という名の通り騒がしく、それでいて楽しげな、なんだか不思議な作品だ。

 きっと子供の落書きと感じた人もいるだろう。

 先述の服部さんは子供の創作活動はアール・ブリュットの創作と本質的に異なる、と言っている。

 なぜならば、子供は周囲の期待や模倣という、成長過程で創作を行うからだ。アール・ブリュットは、最初に述べた通り「正規の美術教育を受けていない」「名声を得るためでない」ものだから、子供のありがちな目論見は、それはアール・ブリュットではない。

 というか自分自身を振り返って、子供時代、そんなに無邪気だっただろうか。何の期待もなく、ただ好奇心の赴くままに物を作ったことがあるだろうか。無心に遊んだことはあっても、その経験を「あった」と声を大にして言えるのなら、素敵な子どもだと思うし、その気持ちを忘れちゃいけないと思う。

 そして、何の影響も受けずに絵を描いたり、いや絵に限らなくてもいい、何かをするにあたって何かの影響を受けなかったことがあるだろうか。何をするにしても親や兄弟、友達や先生や、テレビのドラマ、映画、ニュース、アニメ、何かの影響があって自分の行動、思考が成り立っている。

 いや、俺は俺オリジナルの生き方だ、なんて言う人がいたら、呆れる。

 

 しかしながら「芸術」という世界から外れた人たちがいる。

 つまり、アウトサイダーだ。

 「俺すげー絵が下手だよ、アウトサイダーなのかな」なんてのは違う。僕たちは普通に生活する中で、氾濫するメディアによって数えきれないほどの芸術を浴びていて、何かを作ろうとする時、己の心のままに作ることはできない。

 服部さんが挙げた例で示すとある知的障害者福祉施設で「イカ」を描きましょうとなった時に、きっと今頭の中で思い描くのは、泳ぐイカだろう。

 しかし、ある利用者(施設に通っている人のこと)はスーパーで売っているロールイカを描いたそうだ。

 これを無知だと笑い話と思うなら、それは別にそれでいいと思う。

 何の衒いもなく出てきたイメージに、普通思いつかない発想があるなら、それはもう芸術だ。

 このたとえはおかしいかもしれないけれど、ダウンタウン松本人志が、芸能人のコメントに対して、すっと思いがけない一言を言うのに似ている気がする。

 その思いがけない発想に、僕らは笑うしかないわけだ。

 中島らもは、笑いはデペイズマン、本来そこにあるべきでないものがあることだ、と喝破した。

 思いがけないことは、笑いにもなるし、芸術にもなる。

 今更立ち返って芸術とは何か、なんてことを言うと、芸術とは「驚き」のことだと思う。「意外性」とか想像していなかったことを突き付けられること。それは、観た人の人生を変える出来事になる。

 芸術はものじゃなくて、反応にあると思うわけだ。額縁にはまった絵が芸術じゃなくて、それを観た人がその後考えたり、悩んだりすることが芸術だと思う。

 そして、その驚きの積み重ねが今日の芸術となっている。

 そして一つの方法が生まれる。「これまでになかったものを作る」という方法。

 この方法は簡単だ。これまでに「あったもの」をすべて調べて、「ないもの」を作ればいい。あるいはこれまでに「あったもの」を組み合わせれば「なかったもの」を作ることができる。ただし、その組み合わせ方は誰もやったことがない組み合わせ方じゃないと、「あったもの」になってしまうから大変だ。

 創作をするにあたって、だから勉強が必要になる。「あったもの」じゃないことを確認しないと誰も驚いてくれないからだ。

 反対に観る側も勉強が必要になる。それが「あったもの」じゃないことを確認しながら観ないといけないからだ。

 学問と同じだ。これまでに積み重ねられた研究を基に、自分なりの視点を加えたり、新しい手法を導入したり、地域を変えたり、対象を変えたり、そうやって新しい発見を探していく。

 

 たとえば印象派なんて、その最たるものだ。正確に現実を写し取ることではなく、目に見えるように世界を描くことを発見し、今もまだ人々を驚かせている。しかし、これも唐突に思いついたわけじゃなく、単純化して言うと、写真の発明によって正確に現実を写し取る以外のことが要請されたからだ。

 何も唐突に目に見えるように描くのだ!とマネやルノワールが叫んだわけじゃない。絵画にできることを熱心に考えた末の結論なのだ。

 ピカソやブラックのキュビズムもそうだ。「遠近法を使わない、ていうか画面の中に複数の視点を入れても良くない?」といって、こうなるわけだ。

アヴィニョンの娘たち ピカソ絵画の解説

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 で、そもそも何か対象を書かなきゃいけないの?とかってなると、ポロックとかロスコとかステラとかのような抽象表現にいきつくわけです(いろいろすっ飛ばして自分の好きな作家を紹介し始めた)。

ジャクソン・ポロック『No.5, 1948』 : 世界で最も高額な絵画のランキング - NAVER まとめ

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 芸術家には訳の分からない人が多い、というように感じるかもしれないけれど、なぜ訳が分からないかというと今まで誰もやったことがないことをやっているからだ。

 芸術が積み重ねてきた歴史を知り、その順序にきちんと則れば芸術として評価される。芸術として評価されるべく表現されたものが芸術、ということになる。

 芸術は感性によるもの、と教えられたことがあるかもしれないが、感性は知性、しかも芸術という限られた分野の知性だ。もちろん、その限られた分野の知性を他の分野に生かすことはできる。たとえばビジネスだって、ほら仕事とは人を感動させることだと、どこかの社長が言っていた。その言葉ははっきり言って嘘じゃない。ビジネスにおいて人の考え付かないようなことをする、というのは鉄則だ。 誰も考え付かないようなことをする、どこかで聞いた言葉だ。そう、芸術だ。

 僕らは割とそんな風にいろんな物事を数珠つなぎに生きている。意識するかどうかはともかく、そんなものだ。

 

 そうやって、ないものを探したり、組み合わせてないものを作り出したりする以外の方法がもう一つだけある。

 そもそもその枠組みから外れることだ。

 つまり、アウトサイダーだ(2回目)。

 デュビュッフェはアール・ブリュットのことを「芸術的教養に毒されていない人々が制作した作品」と言ったそうだ。

 障害を持った人やあるいは囚人や独居老人のような孤立した人は、たまたまデュビュッフェの言う「芸術的教養に毒されていない人」であることが多く、そういった「毒されていない」人たちの作った作品は既成概念から大胆に外れ、力強い魅力を放つことがある。

 イカを描けと言われて、ロールイカを描くような大胆さ。もし、芸術に毒されていれば、どう描けば斬新かを熱心に考え、これまでイカはどう描かれてきたのか、あるいは他の海洋生物はどう捉えられてきたのか。シチュエーションは海でいいのか。そうやって考えまくって、あるいはロールイカにたどり着くことはあるかもしれない。でもそのロールイカは大変「毒された」イカということになるのだと思う。うーん、これは難しい。創作過程はどこまで作品の一部か、ということは僕はまだその知識が足りないので、今後勉強したい。

 しかし、そうなんだよな。僕はこのアール・ブリュットという概念に一つ疑問があるとすれば、その制作過程をどこまで作品の一部として鑑賞するか、というのが分からない。

 もちろんそれは他の何の作品だってそうだ。美術館に行って、純粋に作品だけがぽつぽつと置かれているのなんてない。むしろ最近は芸能人がナビゲーターをしていて、生い立ちやらその絵を描いた時の時勢や心情を事細かに教えてくれる。あるいは絵の具はこういうのを使ったとか、何日間かけて作ったとか、なんぼで売れたとか。

 先に言った通り、芸術は歴史の積み重ねだから、今更ピカソのような作品を描いたって誰も相手にしてくれないが、ピカソの作品は相手にされる。

 そこらへんを込みにして「ピカソの作品はすごいなあ」と言うのか否か。

 つまり、障害者の作品、というかその作者の制作態度(名声を得ようとしてないとか正規の美術教育を受けていないとか)を含めて作品に向き合わないといけないのか。

 たぶん初歩的な問題にひっかかっちゃてるのだろうけれど、僕にはまだ結論が見えないのだ。

 しかし、冒頭に絶賛した僕の態度は「障害者の作品」に対する態度だったのか、という問いに対しては「違う」と断固として答えられる。

 たとえば安澤美理の《もようとカラフル》。

吉岡徳仁 | 「楽園としての芸術」展 - Art as a Haven of Happiness

(真ん中右にあります)

 ホームページで見ると、なんだかただ色を塗りたくった何とも言えない、さっき紹介したポロックやロスコみたいな抽象表現にしか見えないかもしれないが、実際見てみると、そのリズム感、色彩の動き、言い方が思い浮かばないが「ワクワクが溢れる」画面なのだ。

 他にも安澤美理は「おじゃる丸」という作品がある。

「楽園としての芸術」展 - Art as a Haven of Happiness|東京都美術館

(最下部、左にあります)

 これもまた、なんだかよく分からないだろうし、そもそもタイトルがアニメの「おじゃる丸」っていうのも、「??」だろう。

 でもやっぱり実際に観てみると、もしかしたらこれは「テレビ」を表している、あるいはアニメの動きを表しているのかもしれないし、そういった表しているものがあるにしろないにしろ、形象と色彩にドキドキする。

 安澤美理の「体育館のステージ」も「ああああ! 体育館!の!ステージ!!!!」と叫びだしそうになるくらい僕はびっくりしてしまって、そのなんというか、もう!観るしかない!

 

 しかし、結局作品と作家の関係をどう処理すればいいのか、分からない。あるいは、アール・ブリュットと言って、たとえば障害者の人たちに好きなように描きなさい、ということがどこまで好きなように作品を描いていることになるのかも、実際にその場にいれば分かるのかもしれないが、今の僕には理解するための経験が足りていない。

 制作風景のビデオが流されていて、その時に、一筆目に何のためらいもない姿を見て、心が痛くなった。

 僕はいつまで経っても一筆目に迷ったような人生だ、と思ってしまった。

 しかも、その一筆目から途中まで描いていた色は、結局別の色で上から塗りつぶして完成した中では微塵もその後は残っていなかった。

 

 

 アール・ブリュットアウトサイダー・アートは、名声を得ようとしていない人の作品を、「内部」が評価して、美術館に飾り「アート」としてしまう、というような問題もまたかなり語りつくされたことだろう。

 服部さんの本の中でも触れられている。

 今その問題がどういう地点にあるのか、もっと勉強しないといけない。

 そもそも、美術館にあるものをアートとして鑑賞する以外に判断基準を持たない僕はそれでいいのか。

 自分にとっての芸術を見つけることこそが本来の芸術の意味、驚きじゃないのか。だって、かつて驚かれたものを観て「これはこうこう、こういう時代に描かれたもので、こうこう、こういう理由ですごいんだよ」って、アホくさ。途中まで書いた芸術論を最後にきて、ひっくり返すわけだが、歴史的に価値あることよりも自分にとっての驚きを大切にできないなら、美術もくそもない。

 

 また、服部さんの本の中で初めて知ったのだけれど、シュルレアリストが「狂人の芸術」として障害者の作品を一種の理想として自分たちの作品と並べ、自分たちの作品がいかに「理想の自由」に近いか(=言葉は悪いが自分たちがいかに「イカれている」か)を誇示したような態度は、許しがたいことだと感じた。

 そうした、自分たち以外に崇高な精神性を押し付ける態度はオリエンタリズムフェミニズムのある種の問題にも通じているように感じる。

 ややもすれば、どこかに理想を押し付けて、それになれないことを僻んだり、あるいはそれに付随している差別や苦しみを隠ぺいすることがある。気を付けないと陥る罠だ、と当然今回こうして「楽園としての芸術」展をリコメンドするにあたっても思いながら書いたわけだけれど、不安である。

 

「消化不良の人の芸術や膝に疾患のある人の芸術というのがないように、狂人の芸術というものもない」(デュビュッフェ)