『沈黙』以来、キリスト教や神について考えてばかりいるのですが、それは前に書いたものに任せるとして。
遠藤周作原作 マーティン・スコセッシ監督『沈黙』より - izumishiyou’s diary
ふと讃美歌を開いたら、スラスラと歌えるものがいくつかあることに気づいた。
中学の3年間は毎日、高校3年間は週3回、礼拝を守っていたわけだが、その中でも幾度となく歌ったものは体に染み付いているみたいだ。
ちょっと紹介。音源はいいのがなかったので、歌詞だけになってしまうけれど。
出典は讃美歌21です。
元気なメロディ4選
- 403 聞けよ、愛と真理の
- 471 勝利をのぞみ
- 515 きみのたまものと
- 536 み恵みを受けた今は
同級生、同窓生なら、タイトル見ただけで、もうメロディが流れるだろう!
「聞けよ、愛と真理の」は何回歌ったか数えきれないほどで、特に最後の「くーまーなーくーよをてーらーす!」というあたり、300人を超す男子中学生の大声で礼拝堂が揺れる。
聞けよ、愛と真理の 主の物語を、
世の罪を除く 主のみことばを、
主のみことばを。
やがて時は来たる。 平和の光の
くまなく世をてらす あしたは来たる。
「勝利をのぞみ」は英語の歌詞「We shall overcome 」が黒人公民権運動の際のプロテストソングとして有名なので、聴いたことのある人もいると思う。
勝利をのぞみ 勇んで進もう、
大地ふみしめて。
ああ、その日を信じて
われらは進もう。
「きみのたまものと」は若者向けの歌。先生とか、どういう気持ちで一緒に歌ってたのかなあ。
ちなみに聖書の言葉に
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」
と言う年齢にならないうちに。
太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに雨の後にまた雲が戻ってこないうちに。
というのがある。旧約聖書「コヘレトの言葉」にハマる、は中学生あるある、だと思う。
きみのたまものと 若いちからを
主のわざのために すべてささげよ。
「み恵みを受けた今は」も礼拝堂が揺れる。ハモリもあり、盛り上がりが半端じゃない。
さあ進め、たゆみなく、
さあ歌え、声たかく
み恵みに生かされて
われらは主に従おう。
礼拝らしさを感じる歌6選
- 18 「心を高くあげよ!」
- 210 来る朝ごとに
- 495 しずけき祈りの
- 504 主よ、み手もて
- 520 真実に清く生きたい
- 532 やすかれ、わがこころよ
「「心を高くあげよ!」」はぼくのフェイバリットソングでもある。母の葬儀でも歌った。
キリスト教の精神がここに詰まってるんじゃないかと勝手に思ってる。「うれいもおそれもみな後ろに投げすてろ!」という前向きさもあれば、「終わりの日が来たなら裁きの座を見上げて」という敬虔さもある。
「こころを高くあげよ!」
主のみ声にしたがい、
ただ主のみを見あげて、
こころを高くあげよう。
霧のようなうれいも、
やみのような恐れも、
みなうしろに投げすて、
こころを高くあげよう。
主から受けたすべてを、
ふたたび主にささげて、
きよきみ名をほめつつ、
こころを高くあげよう。
おわりの日がきたなら、
さばきの座を見あげて、
わがちからのかぎりに、
こころを高くあげよう。
「来る朝ごとに」は朝の礼拝らしい歌。朝になると光を浴びて気持ちも新しくなる、そんないい1日の始まりを感じられる歌。
来る朝ごとに 朝日とともに、
神の光りを 心にうけて、
みいつくしみを あらたにさとる。
これも何回も歌った。ひっかかるワードが多いのだ。「いとたのし」とか「つぶさにつげしむ」とか「そびゆるピスガの」とか。
しずけき祈りの ときはいとたのし。
なやみある世より われを呼びいだし、
み神のもとへと すべての願いを
たずさえいたりて つぶさに告げしむ
しずけき祈りの ときはいとたのし。
そびゆるピスガの 山のたかねより
ふるさとながめて のぼりゆく日まで、
なぐさめをあたえ、よろこびをみたす。
ひっかかる系なら「主よ、み手もて」も。まず「み手もて」だし「われいとわじ」だし「何かはあらん」だし、なんだか覚えちゃって覚えちゃって。
主よ、み手もて ひかせたまえ、
ただわが主の 道をあゆまん。
いかに暗く けわしくとも
みむねならば われいとわじ
この世を主に ささげまつり、
かみのくにと なすためには、
せめもはじも 死もほろびも、
何かはあらん、主にまかせて。
この歌好きな奴多かったんじゃないか。「真実に清く生きたい」。確かにメロディもいいし、歌詞もいい。やるべきことのために恐れずに強くあろう。友のために清く生きよう。染みる。
真実に 清く生きたい、
誠実な 友のために。
恐れず 強くありたい、
なすべきわざのために。
ゆく手は なお遠くても
心こころを高くあげよう。
簡単な歌3選
- 470 やさしい目が
- 493 いつくしみ深い
- 502 光のある間に
「やさしい目が」も「光のある間に」は超簡単。クラスだけの礼拝の時とか、「手抜き」な時によく歌った。
やさしい目が
清らかな目が
今日も私を支えてくださる
まっすぐに歩きなさい と支えてくださる
光のある間に歩くならば
光の子たちは一つとなる
「いつくしみ深い」は結婚式で一般的に歌われるので、有名。簡単と括ったものの、歌詞の内容はキリスト教を知ってないとよく分からない歌詞ではないだろうか。イエスの生涯とその存在を表した歌詞だ。
いつくしみ深い 友なるイェスは
うれいも罪をも ぬぐい去られる。
悩み苦しみを かくさず述べて、
重荷のすべてを み手にゆだねよ。
いつくしみ深い 友なるイェスは
われらの弱さを 共に負われる。
嘆き悲しみを ゆだねて祈り
つねに励ましを 受けるうれしさ。
いつくしみ深い 友なるイェスは
愛のみ手により 支え、みちびく。
世の友われらを 捨てさるときも
祈りに応こたえて なぐさめられる。
卒業式を思い出す2曲
- 463 わが行くみち
- 465 神ともにいまして
最後に卒業式で歌った2曲。
2月になると、もう卒業式のことを思い出す。受験のない中高大一貫校は呑気なもので、2月は大したことをしないので、記憶が一足飛びに卒業式になる。
さて、「わが行くみち」もフェイバリット・ソング。「この先、何があるかは知らないけれど、神はその意図を行うだろうから、自分たちはそれに備えてやっていこう」という、敬虔さとある種の楽天さ、神に依り生きる安らぎ、みたいなものを感じる。
わが行くみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん。
そなえたもう 主のみちを
ふみて行かん、ひとすじに
「神ともにいまして」は「また会う日まで」というリフレインが卒業式らしい。この歌はお葬式でも歌われる。「また会う日まで」? と思われるかも知らないが、キリスト教では死が終わりや生まれ変わりを表すものではないから、当然のことである。
神ともにいまして
ゆく道をまもり、
日ごとの糧もて
つねに支えたまえ。
また会う日まで、
また会う日まで、
神のめぐみ
たえせず共にあれ。
思い出すと不思議な時間、体験だった。大人になって、あんな合唱はしたことがない。上手いも下手もなく、大声で歌う。今も毎日、学校を揺らしているのだろう。
宗教について思うことはいろいろある。親の影響で新興宗教を信仰し、出家すると言って役者引退を表明した芸能人のニュースに、何か言えるわけじゃない。
新興宗教を一律に誤っているとか、なんだかんだと否定する労力を、自分は担えない。
そうこうしているうちに、偏りが一定の力を持ってしまうのだろうか。
いつの間にか恵方巻きが世間一般の常識となるように。
バレンタインが根付いたように。
土用にウナギを食べる広告から生まれた慣習のように。
親を敬わないといけないとか、子供には母親が必要だとか、そういう常識のように。
あるいはキリスト教だって、その一つなわけで。
青春の日々にこそ…。
一人一人がこの社会の成り立つ前提を理解し、共有し、尊重し合えなきゃならない。そのことを「青春の日々にこそ」学び、考え、身につけないといけないのだろうに、この社会はあまりに何も教えてくれない、とぼくは感じる