遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督『沈黙』を観た。
感想を、要点をまとめて書きたいと思うけれど、難しい。
映画を見終えた後に『沈黙』や『海と毒薬』『白い人・黄色い人』等、中学生の時の推薦図書だったが、当時は流し読みしかしなかった作品を改めて読んで、ひしひしと、結論のなさに落ち込んでしまう。
しかし、今感じていること/考えていることを、書きたい。
ネタバレ、というような映画でもないけれど、一応ストーリーや結末に触れるため、そういうのが嫌な人はご注意願いたい。
まず、ぼくは神はいると信じている。
ただ、キリスト教そのものを、解釈されている通りにそのまま信じられる人間ではないので、一般的な信徒とはまた違うが、それでも神の存在は信じている。
遠藤周作はいくつかの作品を通じて「神のいる人」「神のいない人」について言及する。
たとえば『白い人・黄色い人』では特に明確に描かれているのだが、「神がいる人」と「神がいない人」の2種類の人間について、前者を西洋人として、後者を日本人として表している。
つまり、日本人には「神がいない」と遠藤周作は感じていた。
黄色人のぼくには、繰り返していいますがあなたたちのような罪の意識や虚無などのような深刻なもの、大袈裟なものは全くないのです。あるのは、疲れだけ、ふかい疲れだけ。ぼくの黄ばんだ肌の色のように濁り、湿り、おもく沈んだ疲労だけなのです。
しかし、むしろ日本人には八百万の神がおり、汎神論的な思想がある、という人もいるだろう。
日本には神々が、いたるところに自然にいる。これは確かだ。
しかし、超自然的な神はいない。
キリスト教的な神は超自然的な存在だ。海を割る、病を癒す、パンを増やす、水を葡萄酒に変える。聖書に書かれる数多の奇跡は神の御力によるものだ。そして、奇跡とは別にこの神は人を罰する存在でもある。
だから、「神のいる人」は神を畏れる。
これは自然に宿る神とは全く違う存在だ。自然に宿る神は、人間に恵みを与えたり、あるいは罰したりしないし、人間もまた神を畏れることはない。
「神のいない人」には、そのような超越的存在を思い浮かべることができない。いないものを畏れることもない。
『沈黙』では司祭フェレイラがそのことを
「日本人は人間とは全くかくぜつした神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」
「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」
「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」
「なぜ畏れないのか?」ーこのことは「神のいる人」からすればとても不思議なことに感じられる。しかし、その答えは単純だー「なぜなら、そもそもいないから」。
「神のいる人」からすれば、そんな枠を外すような答え、大前提を否定するような、「畏れ多い考え方」は想像もできないものなのだ。
キミコは、私にゆさぶられて乱れた髪をなおしながら呟いた。「なぜ、神さまのことや教会のことが忘れられへんの。忘れればええやないの。あんたは教会を捨てはったんでしょう。ならどうしていつまでもその事ばかり気にかかりますの。なんまいだといえばそれで許してくれる仏さまの方がどれほどいいか、分からへん」
私は起き上がり呆然としてキミコの顔をみた。ふてくされて、口ばしったキミコのこの言葉は、突然一つの啓示のように私の心に突き刺さった。
神を裏切り、教会を捨てた八年間、私は全く神の刑罰に悪夢のように追いかけられ、さいなまれてきた。私は自分を破門した教会を憎み、それを否定しようと試みたが瞬時も神を忘れることはできなかった。
だが成程、その神を忘れれば、それから解放されれば、もはや刑罰へのおののきも死への恐怖も全くなくなるということに気がつかなかったのだ。
(略)
今日から私は救われるかもしれない。だがそれは私が育った白人の観念とは全く相反した異邦人の方法によってである。あのにぶい情熱のない眼を持ち神を次第に忘れ罪を幾重にも重ねれば、やがて死にも罪にも無感動になることを私ははじめてのように気がついた……。
そう思いながらたとえば、以下のような公式サイトの語り口を見ていると、「あ、この文を書いた人には神はいないんだな」と感じる。
人間の強さ、弱さとは?信じることとは?そして、生きることの意味とは?貧困や格差、異文化の衝突など、この混迷を極める現代において、人類の永遠のテーマをあまりに深く、あまりに尊く描いた、マーティン・スコセッシの最高傑作にして本年度 アカデミー®賞最有力作品がいよいよ上陸する。(公式サイト内「作品情報」より)
反対に、スコセッシ監督には「神がいる」と感じる。
スコセッシは書いている。「――ゆっくりと、巧みに、遠藤はロドリゴへの形勢を一変させます。『沈黙』は、次のことを大いなる苦しみと共に学ぶ男の話です。つまり、神の愛は彼が知っている以上に謎に包まれ、神は人が思う以上に多くの道を残し、たとえ沈黙をしている時でも常に存在するということです」(公式サイト内「プロダクションノート」より)
『沈黙』のテーマに「人間の強さ、弱さ」や「信じること」や「生きることの意味」という「人間のふるまい」を持ってくる、というのは神がいない人の発想だろう。そもそも神がいるとかいないとかを考えないので、描かれている人間のふるまいだけを見る。
しかし、「神のいる人」は映画はおろか現実にも姿を現さない神のことを、この映画を通して強く感じ、そして「なぜ神は沈黙しているのか」ということを考えてしまう。対比させるならば、「神のふるまい」について考えてしまう。もとより「神はいるのかいないのか」などという畏れ多いことは考えられない。なぜなら「神はいる」のだから。それを疑うことの罪深さたるや。
もちろん公式サイト内の文言であり、プロモーション上の策略かもしれないけれど、であればなおさらのこと、日本では「神がいない」発想(結果的に表れてきた発想だろうけれど)で売り出さなければならない、と判断したことが重要だろう。
遠藤周作は『白い人・黄色い人』だけでなく『海と毒薬』においても、「神なき人間」を描いている。
米軍捕虜の生体解剖を行った医学生=「神がいない人」を通して、「神がいない人」には罰がないことが語られている。
どや、俺の心はこんなに平気やし、ながい間、求めてきたあの良心の痛みも罪の呵責も一向に起ってこやへん。一つの命を奪ったという恐怖さえ感じられん。なぜや。なぜ俺の心はこんなに無感動なんや。
(略)
赤黒くよどんだ水につけられたこの褐色の暗い塊(引用者註=捕虜の肝臓)。俺が怖ろしいのはのはこれではない。自分の殺した人間の一部分を見ても、ほとんどなにも感ぜず、なにも苦しまないこの不気味な心なのだ。
捕虜を殺す前、殺すことに対して医学生はむしろ「心の呵責に悩まされるやろか。自分の犯した殺人に震えおののくやろか。生きた人間を生きたまま殺す。こんな大それた行為を果たしたあと、俺は生涯くるしむやろか」と期待さえするのだが、その期待は裏切られる。
「でも俺たち、いつか罰をうけるやろ」勝呂は急に体を近づけて囁いた。「え、そやないか。罰をうけても当り前やけんど」
「罰って世間の罰か。世間の罰だけじゃ、何も変らんぜ」
この小説の終わりに語られる二人の言葉は、「神なき人間」の罪/罰の不在=良心の不在を浮き彫りにする。
しかし、「神のいない人」が下だとか「神のいる人」が上だとか、そんな話がしたいわけでは決してない。
「神のいない人」は強い。強かであり、へこたれない。何度でも立ち上がることができる。
反対に「神のいる人」は一度道を外れれば、転がり落ちる。また元に戻ることがなかなかできない。『白い人・黄色い人』の神父しかり、『沈黙』の司祭フェレイラしかり。
そんな風に遠藤周作は捉え、描く。
しかし、ここでようやく映画の感想に戻るが、『沈黙』のキーパーソン、キチジローという登場人物について考えねばならない。
窪塚洋介の怪演が光る彼、キチジローは「神がいる人」だが、何度でも道を外れるし、何度も元に戻ってくる。
たとえば以下の感想などはキチジローを語るにふさわしい言葉だろう。
その点、窪塚洋介が演じたキチジローという存在が興味深い。お前いつも踏み絵してんなという仕方がない(その一方でどこか憎めない)ヤツで、途中からはそれが面白くなってきてしまいますが、彼は踏み絵を踏むたび、主人公の司祭(パードレ)に告解をせがんで帳消しにしてもらおうとする。彼のような心の弱い信者ほど生き延びるというのは、どこか皮肉です。
この他にも「何度も裏切り、何度も許しを請うキチジローが許せない」と書いているブログも見かけた。
しかし、それでも彼は「神がいる人」なのだ。許しを請う目が、叫びが、そのことを感じさせる。踏み絵を踏みながらも神を畏れ、逃げ、なぜ自分がこうも弱いのか悩み続けている。
神はそんな彼に許しを与えてくれるのだろうか?
確かにイエス・キリストは聖書の中で「放蕩息子」「失くした銀貨」「見失った羊」といったたとえを用いて、罪びとが悔い改めることの重要さを説いている。その点からすれば、キチジローのような惑う子羊の告解ほど価値のあるものはない。
しかし、一度道から外れれば戻ることができないと感じる司祭からすれば、何度でも立ち上がるキチジローの存在は、およそ理解できない存在である。
司祭にとって、一度「転ぶ」ことは、永遠に立ち直れないことを意味しているからだ。
「あなたを、まだ信じられない」司祭はキチジローの臭い息を我慢しながら呟いた。「許しの秘蹟は与えるけれども、私はあなたを信じたわけではない。今さらなぜ、ここに戻ってきたのかそのわけも私にはわからない」
大きなため息をつき、弁解の言葉を探しながらキチジローは体を動かす。垢と汗くさい臭気が漂ってくる。人間のうちでも最もうす汚いこんな人間まで基督は探し求められたのだろうかと司祭はふと考えた。悪人にはまた悪人の強さや美しさがある。しかし、このキチジローは悪人にも価しないのだ。襤褸のようにうす汚いだけである。
(略)
いいや、主は襤褸のようにうす汚い人間しか探し求められなかった。床に横になりながら司祭はそう思った。聖書のなかに出てくる人間たちのうち基督が探し歩いたのはカファルナウムの長血を患った女や、人々に石を投げられた娼婦のように魅力もなく、美しくもない存在だった。魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。司祭はそれを理窟では知っていたが、しかしまだキチジローを許すことはできなかった。
『沈黙』において先に転んだフェレイラ司祭は、奉行の言いなりのままキリスト教の不正を書き、ロドリゴに転ぶよう奨める。
フェレイラ司祭の心の内は分からないが、一度裏切ったが故に立ち戻れない様が見える(『白い人・黄色い人』の神父の姿が重ねられる)。
一方、奉行の策略とフェレイラの誘惑によって転んだロドリゴは、裏切ったけれども、また違った形で神の愛を見つける。
自分は不遜にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ、私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙してたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。
映画のラストシーンにおいて、その遺体の手の内に、かつてモキチに託された十字架がそっと置かれているのは、原作とは異なる演出だが、語られたことは同じだったのではないか。
「転んだとしても、信仰は続く」
この態度はキチジローと同じであり、また、信仰にはそんな形が許されているのではないか。決して「強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」か?
しかし、キチジローは死ねない人間だった。
モキチやそのほかの信者は死んでしまった。それは殉教だった。特に塚本晋也演じるモキチの殉教は思わず涙してしまう辛さである。
殉教について考えていると、町田康の傑作小説『パンク侍、斬られて候』のことが思い浮かべられた。
この小説はその後の『告白』や『宿屋めぐり』といった大長編へと続く小説として、町田康文学を語るのに欠くことのできない傑作だとぼくは位置づけているのだが、そのことは置いておいて。
ストーリーは荒唐無稽。
江戸時代、牢人の掛十之進は雇ってくれる藩を探して放浪。呑気そうな黒和藩を見つけ、「腹ふり党」なる宗教が流行りそうだから、俺が退治してやると嘘八百をついて雇ってもらおうとする。実は腹ふり党はすでに壊滅した宗教なのだが、バレないだろうと適当こいたわけである。
藩内の様々な思惑の中、腹ふり党対策のプロとして召し抱えられるも、反対に腹ふり党が来ないことを責められてしまい、自作自演のために偽・腹ふり党を作ることに。元・腹ふり党の生き残り、茶山に話を持ちかけ、偽・腹ふり党を演出。しかし、その偽・腹ふり党が思いがけず民衆の心を掴んでしまって、退治どころの騒ぎではなくなり…、という話。
なぜこれを思い出したのかと言えば、この腹ふり党の世界観がおもしろいからだ。
元・腹ふり党の生き残りで、偽・腹ふり党の首謀者に祭り上げられた茶山という男による教義の説明を引用するが、にしても町田康の文章はグルーヴ感が凄まじい。
「あなたがたはいま苦しみを抱えていませんか。抱えていない人はこの場を去りなさい。しかしわたしはまさにあなたがたにいいます。この場を去る者はいないでしょう。なぜならあなたがたすべてがひとしく苦しみを抱えているからです。おほほ。おもろ。死にやがれクソ野郎が。ではなぜあなたがたが苦しみを抱えているのでしょうか。そのことについてこれから私はあなたがたに説明いたしましょう。そもそもあなた方は苦しみを味わうためにこの世にうまれてきた奴輩ではありません。あなたがたはむしろすべての快楽を味わい尽くす爆笑野郎として生まれてきたのです。ではなぜあなたが苦しみを抱えているか。それはこの世のなかがどのようにしてできあがったか、ということに関係しています」
この後、訳の分からない説明が続く。
恵愚母なる存在がこの世を鼻のような構造にしようとしたけれど、鈍鯔という男が邪魔して、さらに服オカという男や菌という男がさらに邪魔して、怒った恵愚母が条虫を虚空に放ち、虚妄の世界を丸のみにさせる。それがこの世界で、「そもそもが鈍鯔たちの誤った認識によって拵えられ、しかも条虫の腹のなかにのみ込まれることによって虚妄化したこの世界でぼくらが痛苦・迷妄を感じない方がおかしいじゃないかっ」ということになる、らしい。
なので、こんなどうしようもない世界から救われるためには、条虫の腹の中から飛び出るしかなく、あほなこと=腹ふりをして、周りに忌み嫌われ殺されたりしたら、それは「おへど聖者」になれた=条虫の腹の中から飛び出せた=素晴らしいので、さあ、めちゃくちゃやりましょう、というのが腹ふり党の教義である。
わけはわからない。
「おへど聖者」というのが宗教的概念=殉教である。
なぜ私たちは死を尊いものにしてしまうのだろうか。殉教だと持ち上げてしまうのだろうか。
『沈黙』において司祭は「踏み絵を踏めと言われたら、どうしたらよいのか」と聞かれ、「それを踏むよりこの足を切った方がましだ」と言った過去の司祭の話を思い出しながらも、「踏んでもいい」と答える。
あるいは、奉行につかまった百姓たちがあまりにも平気そうにしているので、思わず「みんな、このあと殺されてしまうかもしれないのに、平気なのか」と聞いてしまう。
それに対しての百姓の答えが、天国について誤解に満ちたものであったにもかかわらず、司祭はその夢を崩すことができないまま、「そうだよ」「あそこでは、私達は何も奪われることはないだろう」と答える(映画では実際に、原作では心の中で)。
「あっじょん、パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると石田さまは常々、申されとりました。あそこじゃ、年貢のきびしいとり立てもなかとね。飢餓も病の心配もなか。苦役もなか。もう働くだけ働かされて、わしら」彼女はため息をついた。「ほんと、この世は苦患ばかりじゃけねえ。パライソにはそげんものはなかとですかね、パードレ」
神に順じて絶望し、死ぬことの方が教義的には正しいとしても、現実に今生きている時には希望を感じ、今しばらく生きていたいと思うのが人である。
果たして何が正しいのだろうか、分からない。
イエス・キリストは十字架につけられ、天に召されたが、その生において病者を癒し、貧しい人々、寂しい人々に愛を与えた。
死ぬ時宜が、イエス・キリストには分かっていたが、私たち凡百には分からない…。
神は何を考えておられるのか?
なぜ地上にあふれる苦しみや艱難に救いの手を差し伸べられないのか?
映画中でも拷問のシーンが繰り返し出てくる。
「神なら救ってくれよ」と思わず叫びたくなる。イエス・キリストが十字架の上で叫んだ「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」という言葉を思い出してしまう。
あるいは、裏切り者のユダはなぜ裏切り者にならなくてはならなかったのか?
あるいはポンテオ・ピラトはなぜイエスを十字架刑にする役割を担わされたのか?
神はなぜ彼らを悪から救い出してはくれなかったのか?
背教者となる定めは定めとして、彼らは救われないまま存在なのか?
彼らをも救う神ではないのか。私たちは「主の祈り」において「われらを試みあわせず、悪より救い出したまえ」と祈る。あるいは、たとえば親鸞であれば「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と述べている…。
「ヨブ記」という物語は恐ろしい話だ。
正しく生きているがために神の恵みを受け、お金持ちのヨブさんを悪魔が見て、
「あれも今、恵まれているから神を敬っているんであって、財産をなくしたら神のことを呪うに違いない」
と言ったことがきっかけで家畜も子供も死に、自分も皮膚病にかかり、散々なことになる。
そこに友達が来て「お前、なんか悪いことやったんちゃうか」と諭すのだが、ヨブは「俺は何もしてない。因果の関係はない」と答え、神を呪うことはない。
最後に神が出てきて、ごちゃごちゃ言うなと一喝して終わる。
なんとも不思議極まりない話なのだが、確かに悪い人でも豊かな人はいるし、いい人が裕福になれるわけじゃない。倫理と実生活の豊かさに因果はない。
その上、ヨブ記のように神が恵み、苦しみの理由を直接語ってくれることもない。
この世にあふれている苦しみ、艱難がなくなることがないのは、私たちの考えのはるか及ばぬところに神の考えがある、ということそのものが『ヨブ記』では示されている。
わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。
知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。
お前は一生に一度でも朝に命令し
曙に役割を指示したことがあるか
お前はわたしが定めたことを否定し
自分を無罪とするために
わたしは有罪とさえするのか。
だから、ユダが救われないことを、それも神の考えと思えば、私たちは口を噤むより他ない。
私たちが神について考えることは、蟻が象の足を見て、その全体を思い浮かべるようなものだ。
圧倒的が故に人間にとっては不条理な神を、それでも/それだからこそ信じなければならない。信仰の困難、ここに極まる。
しかし、遠藤周作はイエスは愛の人であり、ユダをも含めて人間を愛してくれているはずだと考える。
それゆえ、『沈黙』において、背教者となった司祭もキチジローも、その信仰が絶えることはない。
この発想がいわゆる正統なキリスト教かと問われれば、違うかもしれないが、しかし神が何を考えているのか、それは誰にも分らない。
分からないからこそ、私たちは畏れながら生きていくしかない。
あなたたちの中で罪を犯したことのないものがまず石を投げよ…。
私たちは誤解に誤解を重ね、それでも何かを信じ、希望を見つけ、生きている。
『沈黙』において、日本人の基督教理解は誤解まみれのまがい物だと司祭フェレイラは言う。
日本人が信じる神はフェレイラやロドリゴの信じる神ではなく、「デウスと大日を混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめた」
ロドリゴ自身、日本での布教活動で感じてきた日本人に対する違和感だったのです。Ⅴ章の最初で司祭と一緒に捕らえられたモニカという信者が、パライソに行けば永遠の安楽を得られると石田という司祭から聞いたと答え、そこは年貢の取り立てや飢えや病に苦しむことはない、だから死ぬことは怖くない、という彼女の言葉にロドリゴは「天国とはお前の考えているような形で存在するのではない」と言おうとして思いとどまりました。
もし日本の百姓たちが強い信仰心からではなく苦役から逃れる方法としてパライソへ行き、死ぬことを選んでいたのであれば、彼らの布教活動は日本人への生きるための救いではなく、単なる命を犠牲とする逃げ道を与えただけということになります。
しかし、解釈は時代により移り変わる。
現実に、たとえば三位一体の考え方はイエスの生きている間に見出された考え方ではない。それは今、主流な考え方かもしれないが、ある種のトレンドでしかない。
そもそも、「神の国が近づいた」と宣べられてから、もう2000年が経つ。むろん、不信心ないちゃもんだが、「神のの国」の近づきは、人間の一生を遥か超えた時間軸ではないか。
「イエス・キリストは人類史上、最大の詐欺師だ」とは、中学生の時、友人のNくんの言葉だ。
しかし、イエス・キリスト以上に、これまでの数多の人間が、何もかもを捻じ曲げ、解釈してきたことは疑いようもない。
その時の主流の解釈に身を委ねられれば、どれほど信仰は楽だろうか。
しかし、で、あるからこそ、かように弱い人間一人一人に神が寄り添い、導いてくれるのではないか。
自分が敬虔な信者でない言い訳かもしれないが、ぼくは信仰を、神をそんな風に捉えている。
「私の今日までの人生があの人について語っていた。」ー『沈黙』のこの言葉がスタートラインのように感じられる。
まだ書き足りないのは、イッセー尾形演じる井上筑後守、通詞(通訳)の浅野忠信、彼らが言うように「日本は沼」なのか。
確かに、当初に述べたとおり、日本人の多くには「神がいない」。畏れを抱くような神はこの国に根付くことはなかった。
日本文化の中心は空、中空構造である。この空にあてはまるものは、神でもなく、恐怖でもなく、愛でもない。
「天皇」という人だ。
人を真ん中に据えることで、据えられた人は身動きが取れなくなることを思うと、つまり、天皇には人権がないことを思うと、ぼくはこの構造には無理があると感じてしまう。
イッセー尾形や浅野忠信らが誘惑に使う文句「形だけ踏めばよい」という言葉。
寛容に見えて不寛容な日本文化。
中空構造と不寛容さには、どことなくつながりがあり、日本文化を貫いているように思えてならない。
仁義なき日本の中空構造 - izumishiyou’s diary
長くなってしまった。
中学生の頃なら、上手に2000字でまとめられただろうが、今のぼくはこうやって取っ散らかっているのが、お似合いだ。
最後に、今朝の朝日新聞に遠藤周作の言葉が載っていたので引用する。
畏れると恐れるとのちがいを若い人は知っていない。
(折々のことば)656 畏(おそ)れると恐れるとの…:朝日新聞デジタル