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izumishiyou’s diary

いつも考えていること

忘れても残ってる

ブログを始めて一年が経った。

去年、新聞記事を読んでから雷に打たれたようにどうしても書きたくなった。
その最初の記事から継続的に何かしら書いているし、書きたくなる。
 
時折読み返して、よく書いたなあと嬉しくなる。
小学生の頃に自由帳10冊以上もマンガを書いたり、高校生の頃コクヨのノート20冊近くに詩や物語の断片を書き捨てたりしたのを思い出す。
それらは見返すと恥ずかしくなっちゃって、最近全部捨てた。

このブログもいつか削除しちゃうのか、どうだろうか、分からない。
今のところ見返して恥ずかしいことはそんなにないから、あのノート達とは少し性質が違うのだと思っているけれど。
 
たぶん、自分の内的な感情を発散させるのではなく、自分の考えを自分に見せるために、自分自身をなんとか噛み砕いて書いたもの、という感じ…?
 
会社の行き帰り、電車の中でTwitterやブログ、新聞、テレビ、様々な刺激を受けて、ふともやもやが現れる。
このもやもやは、自分の内から現れたものか、外的な、いわば社会に存在するもやもやを見つけたのか、何もまだ分からない。

時間が経って、気付くと、もやもやがもやもやから少し言葉に、といってもかなり漠然とした、曖昧な言葉に、なっている。
とりあえず、少し書いてみる。
書いてみると、思っていた言葉と違い始める。
自分はそういう風に考えていたのか、と発見する。
それは別のもやもやの出現、あるいははじめのもやもやの変奏である。
 
他の人のブログを読んだり、本を読んだり、官公庁の公開しているデータを見てみたり、手がかりを探す。
普段なら目に留めないことが飛び込んでくる。
知らなかったことを知る。
知っていることを思い出す。
 
もやもやが少しずつ言葉になる。
ちょっとずつ、言葉を進める。
進んだように見えて、戻っていたり、戻っているようで、進んでいたり。
 
そうこうしているうちに、もやもやが一つの塊になる。
小石を拾い上げて、ひとところに置いていたら、いつの間にか山になっていた、というような感じ。
 
そしてようやく、自分が何を考えていたのか、その断片を知ることができる。つまり、自分は何を知らなかったのか、そして何を知らないままなのか、がおぼろげに分かる。
はっきりとは分からない。
もやもやの隙間から、少しばかり光が差し込んだ、という程度。
もやもやがくっきり晴れるわけじゃない。
 
でも、考えていれば、もやもやの隙間から光が差し込むことをぼくは知ったので、怖くない、と自分に言い聞かせる。
一つの塊になっても、もやもやは続くので、ぼくはまた、小石を拾い始める。
 
 
考える、ってなんだろうか。
もやもやがあって、ぼくはそれを考える。
言葉にしよう、文章にしよう、一つの塊にして、誰かが読んでもいいようにしよう、いつか振り返って読んだ時、自分の思ったことを辿れるようにしよう、と目論みながら考える。
その一方で、仕事もする。日々の細々としたこともする。
日々のいろんなことが積み重なって、気がつくと、考えが一つの塊になっていく。
 
考えるとは何か、ならやっぱり野矢茂樹の出番だ。 

 

もし読んでいないなら、読んでほしいし、読まなくたって、きっとここに書いてあることをみんな知ってる。

考えるとはなんだろう。

「ずっと君のことを考えてたよ」
「トイレでも私のこと考えていたの? そんなの嫌よ」
 
野矢茂樹の凄さを、ぼくが語るのは差し出がましいが一つ言うと、「哲学航海日誌」という著書がある。
その本の問題設定の一つは「人は他人の痛みを分かるか」であった(と記憶する)。
限りなく言葉を積み重ね、積み重ねたその先に待ち受けていた結論は、
「ばっちり分かることはできないが、ちょっと分かるような気にはなれる」
という、身も蓋もないものだった(とぼくは思っている)。
中島らもは「哲学は真実の周りを言葉で埋め、それを空欄にすることで真実を暴く。哲学は真実そのものを言葉にできない。そして、詩は、真実を射抜く」と言ったが、まさにそれを地で行くのが、野矢茂樹という哲学者だとぼくは感じる。

 

哲学・航海日誌〈1〉 (中公文庫)

哲学・航海日誌〈1〉 (中公文庫)

 

 

 

哲学・航海日誌〈2〉 (中公文庫)

哲学・航海日誌〈2〉 (中公文庫)

 
話を戻して、考えるとは?
野矢茂樹はそれを「チューニングを合わせる」という言葉を使う。
「ずっと君のことを考えていたよ」
というのは、たとえばいつも歩く駅までの道のりでも、青空を見て君と行ったいつかのピクニックのことを思い出したり、登校する学生を見て君が学生だった頃はどんなだったのだろう、今度卒業アルバムでも見せてもらいたいなと思い、吊り革広告を見ても次のデートの行き先に思い巡らすような、全て目に映るものが君へと結びつく感覚。
恋愛に限定しない。好きなアイドルだって、好きなスポーツだって、好きな勉強だって、ずっと考えている時は、何を見てもそれらに結びついて、絡まる。
そうやって情報が、ひらめきが、詰め込まれ、たくさんになる。
たくさんになって、でも人間なのでどんどん忘れていく。
いつの間にか、空っぽになる。
でも、空っぽになっても、残っているものがある。
それが、「考えたこと」なのだ。
忘れない、残っているものが、必ずある。
 
だからさっきぼくは一つの塊になる、と言ったけれど、その塊というのは、実際は忘れられたものの総体だ。
小さな石一つ一つの存在は塊になると見えなくなる
でも塊になったからこそ分かるもの、一つ一つの小石について覚えていることがある。
ぼくが書くことは、つまり、塊になってもなお個別に残った「考えたこと」のこと、なわけである。
たぶん。
 
時折アクセス数を確認していると、今一位なのは、一番初めに書いたスワジランドの記事らしい。
どうやらリードダンスに行く際事故があったというニュースがあったらしい。
検索で「スワジランド リードダンス」と調べると、ぼくのページが上位に表示されるからみたいだ。
一年経って、それがアクセス数一位になっている不思議を思う。

ぼくの考えの、初めての塊がそこにあることを思う。
さらにその先、スワジランドの人々のこともちょっとまた思う。
ぼくは日本の東京にいて、考えている。
それでどんどん忘れて、たまに思い出す。
いつまでも、それを繰り返す。

忘れてしまつて

深い秋が訪れた!(春を含んで)
湖は陽にかがやいて光つてゐる
鳥はひろいひろい空を飛びながら
色どりのきれいな山の腹を峡の方に行く

葡萄も無花果も豊かに熟れた
もう穀物の収穫ははじまつてゐる
雲がひとつふたつながれて行くのは
草の上に眺めながら寝そべつてゐよう

私は ひとりに とりのこされた!
私の眼はもう凋落を見るにはあまりに明るい
しかしその眼は時の祝祭に耐へないちひささ!

このままで 暖かな冬がめぐらう
風が木の葉を播き散らす日にも――私は信じる
静かな音楽にかなふ和やかだけで と

(立原道造『萱草に寄す』より)