10月初旬の話題は、台風と月食、そしてノーベル賞の発表でした。
今年のノーベル賞をまとめると、
医学生理学賞=(10月6日)「脳内で空間感覚を担う神経細胞の発見」としてジョン・オキーフ(英ロンドン大学)、マイブリット・モーセル、エドバルト・モーセル(ともにノルウェー科学技術大学)。
物理学賞=(10月6日)「明るく省エネルギーな白色光を可能にした効率的な青色発光ダイオードの発明」として赤崎勇(名城大)、天野浩(名古屋大)、中村修二(米カリフォルニア大サンタバーバラ校)。
化学賞=(10月8日)「超解像蛍光顕微鏡の開発」としてエリック・ベッチグ(米ハワード・ヒューズ医学研究所)、シュテファン・ヘル(独マックス・プランク生物物理化学研究所)、ウィリアム・モーナー(米スタンフォード大)。
文学賞=(10月9日)「記憶を扱う芸術的手法によって、最もつかみがたい種類の人間の運命について思い起こさせ、占領下の生活、世界観を掘り起こした」としてパトリック・モディアノ。
平和賞=(10月10日)「子供や若者への抑圧と闘い、すべての子供の教育を受ける権利のために奮闘している」としてマララ・ユスフザイ、カイラシュ・サティヤルティ。
経済学賞=(10月13日)「市場の力や規制についての分析」としてジャン・ティロール(仏トゥールーズ第1大学)
となり、日本では特に物理学賞の受賞が大きく報道されました。
ノーベル賞は毎年話題になります。特に村上春樹はここ最近ずっと候補として挙げられており、それ以外でも「日本人は受賞するのか!?」という注目があります。今年からは憲法9条がノーベル平和賞候補になったというのもこれからずっと言われる続けることでしょう。
その「日本人が受賞するのか!?」という流れの中で、今回受賞した中村さんについて、アメリカ国籍を取得していた、というのがあって、新聞では「日本の3人」というなんだか「嘘はついてないけど本当じゃない?」みたいな見出しになっていました。
ノーベル物理学賞の受賞者は「日本人3人」? 中村修二氏の米国籍を無視する新聞報道の是非を問う | 牧野 洋の「メディア批評」 | 現代ビジネス [講談社]
二重国籍の実態:「ノーベル賞中村氏は日本人」とする安倍首相、「日本国籍を喪失」とする日本大使館 | うにうに
「日本人のノーベル賞受賞者」というウィキペディアの項目では、「受賞時点で日本国籍の受賞者」「日本国籍時の研究成果で受賞した元日本国籍の受賞者」「日本にゆかりのある受賞者」という分け方をしています。おもしろいですね。
ちなみに国別のノーベル賞受賞者もあります。こちらはノーベル財団が発表した時に一緒に出してる国籍別に並べたもので、出生地は名前の横に斜体で示されています。だから、中村さんはアメリカのところにあります。
ウィキペディアからの引用になってしまいますが、国籍がどうのこうのというのは受け手側の問題であるようです。オリンピックと違って国別対抗で何かを競っているわけじゃないのですが、しかし、受け手側は最近アジアで受賞者が出たから、そろそろアフリカからだ、みたいな予想を立てたりします。
ノーベルの遺言には「私の特に明示する希望は賞を授与するにあたって候補者の国籍は考慮せず、スカンジナビア人であろうとなかろうと最もふさわしい人物が賞を受け取るものとすることである。」という一文がある。公式サイトには部門別、女性の受賞者、受賞時の年齢順などのリストが掲載されているが、国籍別のリストはない。(国別のノーベル賞受賞者 - Wikipedia)
ノルウェイの森」「1Q84」などで知られる村上春樹氏(65)が、イギリスなどの複数の大手ブックメーカー(賭け屋)による予想で1番人気となるなど、今年も受賞の「本命」とされている。不安材料は「受賞者の地域バランス」という。(村上春樹氏が今年も本命か ノーベル文学賞、10月9日発表)
この国籍の問題、僕の趣味である相撲にも大いに関わっています。
ご存じのとおり、現在相撲は、様々な出身国の力士がいます。
最も多いのはモンゴル出身幕内力士で13人。幕内力士は42人いるので、3人いる横綱もモンゴル出身力士です。
横綱について言えば、64代曙が1993年に初めて外国出身力士として横綱になって以来、武蔵丸、朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜。
外国出身力士としてその前にもいたわけですが、初めての関取は高見山、アメリカ・ハワイ出身。1967年に新十両となり、68年入幕、72年に外国出身力士初の幕内優勝。
その後、87年、同じくハワイ出身の小錦が大関に昇進、外国出身力士初の大関になります。
2003年に貴乃花が引退後、11年にわたり相撲はモンゴル出身の朝青龍や白鵬といった力士たちに支えられ、最近ではだいぶその人気が復活してきました。
その間、2005年にブルガリア出身の琴欧洲、2010年にエストニア出身の把瑠都が大関になり、それぞれ2008年と2012年に優勝を果たしています。
ロシア出身の露鵬、白露山、若ノ鵬、阿覧らも独特の荒く力強い相撲を見せました。
グルジア出身には引退した黒海を始め、9月に十両全勝優勝(5人目の快挙)の栃ノ心や臥牙丸が活躍しています。
先日引退したチェコ出身の隆の山も、小柄ながら闘志あふれる相撲で、人気を博しました。
そしてエジプト出身、大砂嵐は遠藤や照ノ富士と並び、押しも押されぬ期待の若手です。
実に様々な国の出身力士がいるわけです。
ちなみに、九月場所の番付では、出身は以下の通りです。
【日本】
東北:3
関東:5
中部:1
近畿:4
中・四国:5
九州:7
【日本以外】
モンゴル:13
ブラジル、中国、エジプト、ブルガリア:各1
優勝について言えば、2006年1月に栃東が優勝して以来、日本出身の力士の優勝は8年以上ありません。
しかし、「日本人=日本国籍」と言うと、2012年の旭天鵬がいます。
旭天鵬は実にすごい力士で、来日は1992年。モンゴルからやって来た最初の入門者たちのうちの一人なのです。
98年に入幕し、2012年、37歳での優勝、この9月場所では40歳での勝ち越しを決めました。
この40歳での勝ち越しというのは、凄まじいことです。しかし、見ていると、そんなにすごいことには見えない身の軽さ、若さがあり、まだまだ元気に相撲を取ってくれるだろうという期待をしてしまいます。
そして、旭天鵬の本名は太田勝。日本国籍に、帰化しているのです。
その理由は「親方(=年寄)になるには日本国籍でなければならない」という規定があるからです。
スポーツの世界で引退後、後進の指導にあたりたいと考えることはかなり一般的なことと思います。力士も引退後は親方となり、自分の部屋を持ち、そこから関取、横綱を輩出したいと思うことは当然のことです。
しかしそのためには、日本国籍でないといけません。
結果、旭天鵬ばかりでなく、高見山も小錦も武蔵丸も、琴欧洲も、親方になるために日本国籍を取得しています。
では、他のモンゴル出身力士は、たとえば白鵬は、というと、もちろん親方になりたい旨は明言していますが、それに対し北の湖理事長は日本国籍の取得を絶対条件としているのです。
北の湖理事長、日本国籍ない白鵬の一代年寄授与を否定 - スポーツ - SANSPO.COM(サンスポ)
31回の優勝(大鵬に次ぐ2位)、全勝優勝10回(歴代1位)、双葉山に次ぐ63連勝、7年連続の年間最多勝、連続2桁勝利46場所、そして8年に渡る皆勤。
何をとっても申し分のない横綱の務めを果たす平成の大横綱に対し、日本国籍を理由としてその引退後、相撲協会に残らせないとする態度には、異様に強い意思を感じます。
このまま、日本国籍を取得せず、白鵬が引退した時の騒動はどのようなものになるのか、もしかすると、そうした問題を提起するために日本国籍を取得せず、黙々と土俵にあがり、圧倒的な強さを見せつけ続けているのでは、と勝手な想像をしてしまいます。
日本国籍、日本人。最近、テレビをつけると外国人から見た日本のすごさ、をテーマにした番組が多く見られます。
自分を日本人と思っている人が日本人とは何か、ということに対する答えを求めている気がします。
東京オリンピックや9条のノーベル賞、ヘイトスピーチ、全てひっくるめて、「日本人とは何か」へのそれぞれの答えのように思えます。
その答えは結局、「他とは違う(素晴らしい)我々」という「自分」について語らない虚しい論説に空回りしている感は拭えません。
自分とは何か、を問うた時に「日本人だ」ということをアイデンティティとしているのは、かなり危うい状態、自分に自信がなくなっている状態と思います(「日本人」を何人にしても同じことです。日本人だから危ういのではなく、そうした漠然とした大きな物語を自分の根拠とすることに危うさを感じます。同様に性別なんかも、危ういものと考えます)。
木村敏の「自分ということ」という本があります。
Amazon.co.jp: 自分ということ (ちくま学芸文庫): 木村 敏: 本
自分とは何か、という問いは自分を「もの」として捉え、そこに合致する対象が「ある」という認識です。
しかし、実際は自分という「もの」はなく、ただそこには自分という「こと」が展開されています。
私たちは「死というもの」を怖れることはないけれども、自分が「死ぬということ」はこの上なく恐ろしいことである。(略)このようにして、「もの」が私にとって中立的・無差別的な客観的対象であるのに対して、「こと」は私たちのそれに対する実践的関与をうながすはたらきをもっている。ものとしての机は一個の物体にすぎないが、机があったりなかったりするということは、私の実存にとって便利であったり不便であったりするという意味をもつ。(中略)つまり、「……ということ」という言いかたの中には、私自身の世界に対するかかわりかたが、あるいは私の生きかたが含まれている。いいかえれば、「……ということ」は「私があるということ」と表裏一体の事態としてのみ成立する。(p.52)
この「自分ということ」≠「もの」は「百万円と苦虫女」という映画で蒼井優が「自分探しってやつですか?」と問われた時の答えに重なります。
探したくないんです。どうやったって自分の行動で自分の行動で自分は生きていかなきゃいけないですから。探さなくたって、嫌でもここにいますから。
自分というのは「探さなくてもここにいて」、そこで世界と関わって実践しているそのことそのものなのです。
しかし、今時、自分探しなんて言葉もすでに流行っていません。自分探し言説のピークは僕が大学生だった2008年〜2010年くらいのことだったと感じます。
しかし自分探しという「もの」幻想がなくなったのではなく、今は当たり前に自分という「もの」を探さなければならなくなったと思います。
たとえば、就職活動なんか強制的自分探しの極北です。朝井リョウの直木賞受賞作「何者」という名作で、まさに自分とは何「もの」かについて問われる現代を鮮やかに、悪魔的に浮かび上がらせています。
果たして、日本人だの日本国籍だのいう「もの」の問題はいつまで続くのでしょうか。そんなものない、ということは、誰も言えないのでしょうか。
突然ですが、たぶんこの終わりに待っていることは「国家の消滅」なんだと僕は思っています。
国家という最大の「もの」幻想が終わらない限り、この「もの」幻想から抜け出すことはできないんじゃないかと思っています。
サラリーマン金太郎 3 - 本宮ひろ志 - Google ブックス
(↑「サラリーマン金太郎」という漫画について、読んだことはないのですが、友人にこういった「いつも考えていること」を話した時に「それこれに似てる」と見せられて「まったく同じこと言ってる!」となった部分)
いつの日か、「日本の3人」みたいな見出しや下記リンクのような訂正記事が出ない「もの」幻想の終焉を夢想しつつ(それはどんな形で現れるのか、分かりませんが、僕はその一つにアナルコ・キャピタリズムがあると考えています)、とりあえずここでいったん止めます。
「私」や「自己」を「こと」として理解するということは、私たちの意識にとらえられている世界を物理的・自然科学的な世界としてではなく、「おのずから」としての「自然」の相のもとに見るということである。そのとき、「私」も「世界」もともに一つの根源的な生命的躍動から生まれた分身として理解されることになる。(中略)「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」という西田幾多郎の言葉は、まさにこの境地を指している。この自己即世界、世界即自己の自覚をのぞいて措いて「私」ということもありえないのである。(p.66-67)