稀勢の里が優勝し、横綱になることを書かない、なんてことはあり得ない。
一相撲好きの感想。
稀勢の里は不思議な力士だ。左からの強烈なおっつけで鶴竜をなぎ倒したり、白鵬・日馬富士を圧倒したりしたかと思えば、得意の左四つで大関に上がりたてだった照ノ富士や、特段調子が良かったわけでもない栃ノ心に負ける。
中日までに下位の力士にポロポロ負けて不調かと思えば、後半、優勝争いをする力士に勝って「空気読めない」と呆れられたり、反対に中日まで順調にきたかと思えば、そこからポロポロ負けて期待を裏切ったり。
貶している、と思うのなら、あなたは稀勢の里のことを、相撲のことを知らない、と言いたい。
ここ数年、その恵まれた体躯と直向きな努力を、好角家連はいつか花咲く、いや、名大関としてはすでに花咲いている、と目を細めて愛していた。
そう、大関になるまでもすでに長きに渡り私たちは待った。
10代のうちに新入幕、三賞受賞、三役昇進を果たし、貴乃花の再来か、いや容貌は北の湖を思わせる、と騒いだのは随分と前のことだ(稀勢の里が三役に昇進したころ、ぼくは相撲を見始めた)。
上位にはけれん味のない相撲で、特に朝青龍相手に勝つこともしばしばあり、若手筆頭、次の大関と目されてはいたけれども、その割には星数が上がらなかった。
名小結などと、不名誉な肩書きも言われていた。
2010年、2日目、63連勝中の白鵬に勝ったことは、昨日のことのように思い出せる。土俵下で呆然とする白鵬といつもと変わらぬようで、少し驚いている様子がちらりと見える稀勢の里。
2011年。諸所の問題から大阪場所がなくなり、震災があり、5月は技量審査場所となったあの年。
一年間、琴奨菊に負け続け、西の関脇に甘んじ、あまつさえ琴奨菊の大関昇進を許し、そして自身の大関昇進は、その琴奨菊に負け、3場所33勝の内規を満たせなかった。
あの昇進は、稀勢の里に期待している人ほど落胆した昇進だった。後の照ノ富士が魅せたような鮮烈な昇進を求めていただけに、物足りなかった。
しかし、時すでに新入幕から7年。名にそぐわぬスロー出世。
大関としても常に物足りなさを感じさせられた。
数字で見ればなんら申し分のない成績、勝率は歴代大関でも抜きん出たものがあり、全休もなく、負け越し=カド番は一度だけ。なのに、なぜか物足りない。
足りていないのは、優勝だった。
13勝2敗と言えばよほど運が悪くなければ優勝、という成績に何度も達しつつ、にもかかわらず、白鵬、日馬富士、鶴竜らに一歩遅れ、優勝を掴めない。
運なのか、はたまたそれこそが実力なのかとやきもきさせられたのは、本人もだろう。
昨年一年にいたっては、ほぼ一年間綱取りを続け、優勝なしの年間最多勝という不可思議な偉業を成し遂げてしまった。
気づけば琴奨菊、豪栄道の優勝により、唯一優勝していない大関にもなってしまった。
2015年、2016年は安定した成績の割に何も掴めなかった点で、稀勢の里にとって辛い2年だったのではないだろうか。
そして、2017年初場所、前半のみならず後半も冴えた内容の取組はなかったと言わせてもらおう。
危うい相撲も数番あった。
しかし、勝った。勝ちを積み重ね、14勝1敗。
日馬富士、鶴竜の休場で下位との取組が増えたことはむしろ稀勢の里にとっては向かい風だっただろうが、取りこぼすことなく、白星を得た。
そして千秋楽の白鵬戦。ぼくは白鵬ファンであるから、白鵬の目線で「勝った!」と思った。「第一人者、日下開山の威厳を見せつけた!」と目を輝かせたが、土俵際、稀勢の里の体が弓なりになり、壁のような力強さを見せた。そんな相撲は見たことがなかった。
稀勢の里が上位に勝つ時、それはいつも攻勢の時だった。防戦から凌いだことはほとんどないのではないかと思う。
新しい稀勢の里か。いや、ようやく地力が、ぎっちりと根を張った地力が硬い硬い地面を割って、その姿を現したのだとぼくは感じる。
これだけかかった出世だからこそ、この先に大輪の花、いや朽ち果てぬ巨木を打ち立ててほしいと願う。
すべてはこれからだ。
稀勢の里のご尊父が「気の毒」とおっしゃっていたのには胸を打たれる。子を思う親の心を感じた。
相撲に求められた稀勢の里の人生。栄光はほとんどない。苦難に次ぐ苦難を、ぼくが親なら受け止められないだろう。
巷で放言されているようには、白鵬はまだまだ衰えていないとぼくは信じている。
これからの白鵬はがむしゃらに優勝を目指すのではなく、虎視眈々、自分の調子はもちろん、周りの調子が悪い時にこそ確実に優勝をさらう、そんな鵬として土俵を彩ってくれるのではないかと期待する。
それはつまり、長く、長く、2020年を超えて長く、君臨してほしいという願望だ。
むろん、白鵬一強を愉しんだのは過去のことかもしれない。
ああ、あの時は本当に楽しかった。来る日も来る日も白鵬が勝つ。そんな楽しみは確かに去った。
それでもなお君臨すること、これが白鵬の次なるステージだとぼくは勝手に思っている。
いつまでもその勇姿を見せていてください。
最後に。
横綱昇進の条件が緩かったことは確かだが、しかし、それについてはただ、稀勢の里が特別だった、というそれだけでいいとも思う。
稀勢の里ほど、相撲の神様、いや、相撲を愛する人々に愛された力士はいたのだろうか。
こんな特殊な例は後にも先にもないだろう。
ぼくは月曜日、なぜか職場で「おめでとう」と言われ、「ありがとうございました」と答えたが、ただ相撲好きを公言しているだけなので、なんら関係者ではないのだ。
しかし、稀勢の里の優勝、横綱昇進には、そんなすべての好角家に捧げられる祝福が似合っている。
特別に愛されることは規則とは相容れない。
しかし、それこそが相撲の本質のようにも思えるし、とはいえ時代の流れとしては、これから先、規則の遵守・明確化に取り組んでほしい。
その時にみんな笑いながら「稀勢の里は特別だったからね」と言い合えるのでは、とぼくは思うのだ。
ある種、日本人だのモンゴル人だのという国籍や人種の差別を超えた「稀勢の里」という優遇、特別さ、贔屓がここにはある。
(追記)
1/25、朝日新聞声欄、大学非常勤講師の投稿で、稀勢の里は直近3場所36勝9敗(優勝1回)だが、小錦が3場所通算38勝7敗(優勝2回)であったにもかかわらず昇進を見送られたことから、昇進基準を「2場所連続優勝、または直近3場所38勝以上かつ優勝1回」という私案を出されていた。確かにすっきりする基準だ。そして、もしもこの基準が採用されたとして、稀勢の里がそれに合致しなかったと過去に遡及して語られようとも、本文にあるとおり、それは稀勢の里が特別だからなのだ。