そういえば先月の日記でキングオブコントについて書くのを忘れていた。
犬のコントが素敵だった。パーソナルジムで出会った二人、お互い、相手を夢で見るほど愛しいと思っている関係性で、ふと唇が触れ合ったことをきっかけに情熱に火がついて…という内容。「どうしてあんな夢見たんだろう」と言うのには少し違和感があったのだが、自らの筋肉で相手によじ登って唇(=愛)を獲得する、という象徴的なラストは、映画のワンシーンのようだった。愛というものを筋肉で見せる、馬鹿馬鹿しいほどの力技に涙腺が緩むのを覚えた。なぜあんなに点数が低かったのか。
や団もよかった。ドッキリのためにいつまでも死んだふりをする人と死体処理に慣れてる人。予報を外した天気予報士と雨に濡れる人。狂気、異常と日常の接地点を鮮やかに見せる手腕の巧みさ。雨の中、ペットボトルの水を飲み干す男の怖さというのは、ああして目の前で見て初めて気がつく種類の怖さである。「傘させよ」で傘を刺しに行くという流れも見事ハマっていた。
期待していたかがやは惜しかった。順番もあったと思う。上司と部下の微妙な関係を、トイレという小道具を使って表した。現代的な要素を多々含んでいたところにらしさが垣間見えた。数分で終わってしまうのはもったいなくて、あのドラマだけで30分の番組になりそうだった。それにしても女装というか、あのジャケットとボウタイが似合っていて、街中ですれ違ったことがあるようなほどだ。
もう一組、期待していたのはネルソンズ。不発。女装のクオリティがイマイチだったのではないか、というのが個人的な感想。二次会の新婦の服にしては安っぽさが目立つ。また、奪いに来る男の雰囲気も、セリフで説明されるほどには優秀ではなさそうで、もっととんがった革靴なり、無駄に高そうなジャケットなりを着させるなど、小道具に拘ってリアリティを出した方が、和田まんじゅうの醸し出す自信のなさとの対比になって、笑いやすかったように思う。コントって細かいところに目がいってしまうものだと感じた。
M-1グランプリの3回戦を見ている。キングブルブリンの同窓会のネタが一番面白かった。小林が来るなら、とみんな主体性がない上に、小林が来ないのである。なんとか引き出した小林の条件も、絶対に行くと言っている権田のせいで破綻する。権田が来るなら来ない、という人の多さ。ゴドーを待ちながらみたいな不条理さに感心した。
金属バッドはこのままいくのだろうか。露悪さのバランスが絶妙なのだが、実際に決勝の舞台に立ったら極悪人に見えてしまう気がする。まだ三回戦ということもあってか、やや露悪的なネタが目につく。お笑い好きの間だけで流通しているようなネタ、たとえば宗教や薬やジェンダーのようなもの。うまく馬鹿にしているつもりで、馬鹿にされている人が現実に存在し、その人が傷つくことを想定していないようなものは、やっぱり悲しい。
その一方で、野球部をとことん馬鹿にするハイツ友の会は恐ろしく面白かったので、なかなか、一概に切ったり貼ったりできないものだが。まあ、ハイツ友の会は、馬鹿にしているというのが正しいのかはわからない。心底困っている、という表現の方が正しい気もする。
イチオシは阿佐ヶ谷姉妹。手を洗う、という何気ない日常から、踊り歌うまでの無限の広がり。新しくもあり、王道のエンターテイメント。勢いを保って決勝に行ってほしい。あと、注目しているのは、人間横丁。指レースという恐ろしくくだらないことを、奇想天外な展開で笑いへと導く手管。二人の朗らかさにも、どこか救われる気持ちがする。とうぜん、ヨネダ2000も。ぜんぶ、楽しみだ。
西永福に柴田聡子とPeridotsの共演を見に行く。バックバンドにPeridotsメンバーを従えるという変則的なバンド体制。同じように演奏しているのに、どことなく違っていて、それがとてもかっこよかった。ドラムとベースの違いが一番大きいのだろうか。普段のベースはさらりとした印象だったのが、今回はグググっと迫り出して、歌声と張り合っていたように思う。最後にダンシング・クイーンのカバー。これもすざまじくよかった。
その後、三井ホールでも柴田聡子を見る。新曲がたくさんあるようだった。次のアルバムが楽しみ。
翻訳家の斎藤真理子さんの講演を聞く。さまざまな小説が紹介されていたので、ぜひ読んでみようと思う。
ドラマ「エルピス」。前評判から気になっていたが、大変攻めている内容で、ワクワクする。冤罪、真実、責任、誠実。坂元裕二や野木亜希子がテーマとして描いてきたものを、新たな角度で描こうとしているように思う。ワクワクする。
ソーイング・ビーの新シリーズの放送が始まった。序盤に力量が見えてくるのが楽しい。どんどん感情移入していくから、脱落する日を思って悲しくなる。ちょっと悲観的すぎるか。
今年も六甲ミーツ・アートへ。11月に入ってからの平日、ということもあってか、わけもなく寂しい雰囲気。スタンプラリーに熱中しつつ、各地を巡る。食器の置かれたちゃぶ台に、ビニールがかけられていて、そこに空気が入ったり抜けたりする作品があって、って何言ってんだこいつって感じかもしれませんが、それがよかった。朧げに見える、という状態の宙ぶらりんな不思議さ。でも、日常の解像度って、これくらい低い気もするのだ。
中之島美術館と国立国際美術館で同時開催されている具体展もみに行く。みんな大好きな田中敦子の作品、ボタンを押すと40メートル先のベルが鳴るやつや、光る服、黄色い布などがお出迎えしてくれる。嬉しい。けたたましく鳴るベルの音が遠くへいって帰ってくる。最高。インタビュー映像で、具体という運動の成果と反省点が語られていて、とても面白かった。新しいことをやらなあかん、見る人を信頼せなあかん、という成果。アンファルメルとの接続によるキャンバスへの偏り、ピナコテカによる展示方法の制限、という反省。真摯なインタビューだった。元永定正の絵本を購入。めっちゃいい。
市谷の杜本と活字館へ行く。今年2回目。雑誌づくりの工程が見られて、実際の校正、赤ペンが見られたのが面白かった。写真に、これは消せとか、これはもっと色を出せとか、指示されており、あんな小さな、ちょっとしたところに情熱を注いで一冊ができているのだなと感心。帰りに、DNPプラザというのに寄った。本と、もっと仲良くなる仕掛け展というのをやっていて、ディスレクシア(文字が読みにくい人)のための「じぶんフォント」の開発が紹介されていた。一定程度、そういう人はいると思う。その人たちが読書人口から外されているのだとすれば、ある意味で大きな商機ではないだろうか。しらべてみると「みんなのフォント」というのもあった。たとえばある本がこのフォントで発売されて、ベストセラーになったとすれば、みたいなことを考えた。そんな遠い未来のことではないように思う。文字で格調を演出するより、中身を読んでもらえる工夫、なんてことを考えた。
立て続けに図書館の予約資料が到来。君嶋彼方『君の顔では泣けない』を読む。エモめの文体、青春小説、と枠にはめてしまい、読みながら「おじさんやから、こんなん、なんも思わんで」と意地を張っていたのだが、読後、思いがけず、この小説のことばかり考えてしまう。身体のままならなさ、性愛のままならなさ、生きることのままならなさ。それらが克明に記されている。男女入れ替えもの、という題材でこの小説を語ることはできない。むしろ、自分の生きていることに引きつけて、私もこの身体とともに死ぬのか、と愕然とさせられるのだ。この小説を読むまでは、体は私に所属するものであり、体と私は一つのものであると、頭から信じていたお馬鹿さんだった。もちろん、哲学書などで心身二元論などかじったつもりだったが、もっとリアルに、生活の中で、身体と私という人格とのギャップに気付かされた、という感じ。女性になった男性が、男性に告白されて「かわいい」と思うあたりのこと、遠距離恋愛のあたりのことなどが最も印象に残った。身体に従属する私もいる。この「も」が重要で、すべて身体に振り回されるわけではないのも確か。同年代の人に「読んでみてください!」と言いにくい題材なのだが、高校生の時に読んでもグッとこなかっただろうな、なんてことを思う。素晴らしい小説だったんだなあ……。しみじみ。
吉川トリコ『流れる星をつかまえに』も読む。これがまた現代的な優しく、かつ芯の強い小説。国籍、養子、同性愛、親子関係、といった様々なテーマを織り交ぜながら、さらり、からりと展開していく。問題を避けずに、かといって対峙するわけではなく、ぎゅっと抱きしめる。そして読み手に気づかせる。あなたのすぐそばにも、いろんな人がいるはずですよね、と。もしかして普段話すあの人だって、言わないだけで、いろんなバックグラウンドがあるよね、と。あたりまえなことを、静かに教えてくれる。物語の強さ、そんなものを感じた。
朝日新聞で演劇の評を読んで、それが大変気になったので、ムニ『ことばにない』を観る。20代後半の4人、4人を結びつける共通項は同じ高校の演劇部だったことで、今も1年に一度、舞台をやっている。年を経るにつれ、皆少しずつ行き先が違ってくるあたりには共感できる。たとえば朝美は結婚が決まり、子供のことも考え始めているが、ゆずは今も演劇を続けてバイト生活、父親が病に倒れて家のことが心配……というような。演劇部の顧問だった先生が亡くなり、その先生が残した戯曲が4人の手元に送られてくる。戯曲には先生がレズビアンであることが書かれており、先生の親戚である保守派の議員はその演劇をやらせないように画策する……。この劇は前半部分であり、来年後半が上演されるそうだ。前半である今回は4時間使ってたっぷりと4人の関係、それぞれの生活を丁寧に描き、また先生の親戚らの戸惑いと決意のぶつかり合いも見せてくれた。後半では先生の演劇を演じるために議員との対決があるだろうし、またそもそも4人の生活に潜むちょっとずつの軋みやずれもなんらかの決着がつけられていくのだろうと思う。自分は宝塚歌劇ばかり観てきた人間なので、こういった日常と地続きな演劇を見ると、ドキッとする。こんな感想が合っているとは思わないが、東京だ、とか思ってしまう。そして、ああ、こういう文化が身近にあれば、じぶんもやってみたかったかもしれない、と羨ましく思う。高校時代に、そんな演劇部があれば。いいや、やってないか。ははは。
ラグビー。10月、オールブラックスに7点差。4点差で終わっているのと7点差とでは、ずいぶん違う感じがするから、最後のPGはやられた、という感じがした。それにしても、良い試合だった。お互いに精度の高いエリア管理がなされていて、めちゃくちゃ気持ちよかった。11月、イングランド戦。一方こちらは大敗、完敗。攻防ともにイングランドが常にモメンタムを保ち圧倒。なんとか評価できるのは、ラインアウトからのモールディフェンスくらいのもので、それ以外の局面ではすべて負けた。早い出足のディフェンスに苦しんだのはオーストラリア戦でも同様だったように思う。とはいえ、局面では山沢や斎藤のくらいつくタックル、ライリーの孤軍奮闘など、見ていて楽しい場面も多く、あんまり日本代表の応援にばかり力を入れず、ラグビーそのものを楽しむべきではないだろうか。ましてや、チーム批判やHC批判まで飛び出すのは早計というか、日本代表っていつからそんな扱いなの?と思う。負けていいとは思わないが、この大敗だけで、これまでのチームを否定するのは疑問。4年というスパンの中で、W杯を戦うチームづくりをすることもまた目的。それを忘れて、一戦一戦での勝利を求めるのは、強豪国がかっちり固まっているラグビーの世界では負担が重いと思う。もちろん、トゥイッケナムで8万人を前に試合できる、こんな経験は選手にとっても多くない機会で、負けを前提に試合すべきなわけはない。ただ、やってみたら、負ける試合になることもあるでしょうよ、ということ。その1試合は、大きな経験値として日本代表に蓄積される。そういった経験を表しているのはキャップ数だから、そのバランスを考えながら、チームを運営していってもらえたらいい、というのが自分の意見だ。どうもTwitterで見かけた否定的な意見にカチンときており、長々書いてしまった。ほんと、先のW杯ではオールブラックスさえ粉砕したガン詰めディフェンスを、対策が甘いみたいな意見は無理筋でしょう。
相撲も始まってしまった。横綱休場、大関いまいち、という今年らしい九州場所だ。阿炎優勝の予想を立てているが、微妙か。二十代前半の力士らに注目して見ている。
一ヶ月あると、書くことがたくさんあるな。終わり。