Nu blog

いつも考えていること

日記

4月末から5月頭、寒い日が続く。こんな日が続いた挙句、いきなり暑くなるのだろう。何回もそんなことをやってる。

 

ダミアン・ハーストの桜を見た。正直なところ、何が何だかわからなかった。会場の親子連れやカップルらは「私はこれが好き」「一番色鮮やかだよね」みたいな会話をしてらっしゃった。なんだ、そのやりとり。皆さんがそーいう会話をされることには腹立たないのだが、そういう会話を誘発するように作っていることに腹が立つ。ハーストがこれを描いた、ということに価値が発生するような仕掛けがなされている中で、作品一つ一つを見比べて「私はこの色合いが好きだわ」と言わされることの無意味さというか、ナンセンスさというか、不気味さ。ハーストという冠なくあの桜の絵だけがなんの留保もなく飾られていたら、たとえ国立新美術館の一室をどかーんと占領していたとしても、無感動にスルーしていただろう。それほど、絵としての際立つものはなかった。しかし、ハーストが描いたのだ。会場を何周しようと、そこに価値がある。そこにしか価値がない。カップルや親子の無邪気さな会話と、ハーストの仕掛けるグロテスクさに身震いしながら帰路についた。

 

北海道に旅行した。寒かった。函館から札幌まで、白老経由で北上するプラン。

白老のウポポイがメインの目的地。函館の北方民族資料館も、見応えたっぷりだった。夜景もよかった。

このたびは色々物思うところのあるものだった。もみじのにしきかみのまにまにである。

民族について考える。民族とは、一つの幻想でしかない。個人単位、家単位、集落単位、地域単位でどこまでその幻想を共有したか。それがどこかで民族と括られたり、括ろうとしたりする。

大和民族なるものも、これまでの歴史でその範囲を広げたり狭めたり、大いに伸び縮みしてきた。

そこで私は何者かと自身に問うてみる。

果たして、何も出てこない。なぜだろうか。

 

アイヌに連なることを自覚せざるを得なかった人たちは、物心ついてから「私はアイヌなのだ」と同定するしかない出来事に遭遇することがあっただろうと思う。あらゆるマイノリティは、多数派から名指しされる。名指しされる瞬間の恐ろしさのことを思う。背筋が凍る。

一方私は、属する社会における多数派であり、すなわち無徴でいることができたので、「あなたはこれこれだ」と名指されることがなかった。それはとても特権的な立場にいるのである。これが私は何者か、への答えである。つまり、何者である必要なく、ただ自分であれた人である。

しかも、民族や祖先に連なることだけでなく、性別にしたって私は男だったので、男をやってきた、というような具合ではなく、自分をやってきたようなつもりでいる。

男の子らしくしなさいなどと言われるシーンはあったが、それはイコール自立を促すメッセージであって、劣位に置かれる言葉ではなかった。そのメッセージに従っておれば、面倒なことには遭遇しないという、通行手形みたいなものだった。

柴田聡子が「女らしくなったって言われてみても、男やってたつもりないけど」と歌っていたが、女と名指された者は女をやったり、男をやったりしなければならない。この「やる」とは漢字を当てれば「演る」である。

常に、自分の上に一枚、薄い皮を貼るような何かが求められる。そういう不自由さ、透明な膜が、「名指しされる者」にはある。

 

このたびは、そんなことを思って、言葉が出てこないことが多かった。

踊りや服装、様々な装飾品や、言語など、あらゆる知識が私に「お前に何が言えるか、分かるか」と訴えかけてくる。

何の言葉も出ない。

 

体験交流ホール、ウエカリチセで「シノッ」というプログラムを見た。歌や踊り、楽器の演奏を、没入感ある映像技術で紹介するというものだった。

映像とのリンクが見事で、ホール内にいながら、自然と共に暮らし、歌い、踊ってきただろうことを感じさせられた。

最後に演じられたイヨマンテの踊りでは、その背景で、1925年頃の白老のアイヌの人々が踊っていた白黒の映像が流されるシーンがあった。

白黒の粗い映像なのだが、今目の前で演じてくれているのと同じように輪になって踊る姿に、私は言い知れぬ感動を覚えた。

この地に実際に文化があり、その文化には血が通っていた。この文化はのちに奪われることになる(あるいはすでに奪われつつあったのだろうか)が、とにかくその日その時にはその文化があった。それを映像としてなんとか、誰かが残しておいてくれた。かろうじて。わずかながら。

この文化の外の人間である私が泣くのはおかしいだろうと思い、涙を抑えたが、喉の奥につっかえるものがあった。

あるいは、私は奪った側の人間の末裔であるのだろうとすれば、涙など流してはならない。今はただ「何と酷いことが……」と絶句するばかりである。

失われた文化を再現しようと、演じてくれている演者の皆さんにも敬意を表したいし、これからも何らかの形で、ささやかながら関わっていきたいと思う。

 

三月末に菊地信義さんが亡くなった。

五月頭、一ヶ月遅れで知った。

私が本というモノを愛するようになったのは、菊地さんの装丁に惹かれたからだ。本屋で気になる表紙のほとんどが菊地信義さんの手によるものだった……。

全く面識がない私がそんなことを書いてよいものかわからないが、しかし、菊地さんの死に対しては「ご冥福をお祈りします、ありがとうございました」と、わざわざ書きたいと思う……。