Nu blog

いつも考えていること

最近のこと

柴田聡子の「雑感」はすごい。初めに聞いた時は、くるくると話題の変わる歌詞だなあと感じていたのだが、何度も聞いているとそこに一つのつながりがあるような気がしてくる。実際にそれを言葉にするのは難しいのだが、その一行と次の一行につながりがあることが確かに感じられるのだ。特にすごいと思ったのは「霧が晴れたら紺色の空に点々と星粒」を見つけた後、不意に「給料から年金が天引」かれていることを思い出して腹を立てる終盤の歌詞。「天」空を見ながら「点々」と星があるから、年金が「天」引かれていることを思い出したのではないか。こういう細く、頼りないつながりが前編を通じて、ゆっくり車を運転するリズムで歌われていく。その心地よさたるや。「車よりバイクの方が絶対速い時があります」「片目で歩いているのを偉いって言われるのも妙です」「積み木を崩さないように見ていないとこで押さえている」「トイレの鏡に映る私は私を焚きつける、諦めない顔と目つきはかっこよくて痺れる」「行けるようになったから行きたいとこに来てみただけです」。こういった言葉に通底する、日々の暮らしへの不安や不満と、車を運転するように自分で自分をコントロールできるという自己肯定感と。そんななんやかやがない混ぜになっているところに感動する。

藤井風の「燃えよ」もいい。「もうええわ」とついになっているのがまずおしゃれ(Mo-e-yoとMo-e-waで一文字違いというわけだ)。クールなフリや強がりは必要ないよ、と。汗も恥もかいていこうよ、と。まったく、とっても生きていたくなる歌詞です。

井戸川射子「する、されるユートピア」を読んだ。「全ての言葉、もうどこかで使われていて手も出せない/ぼくの下に/川は平行にながれる」(熱帯鳥館、内部)とか「言葉、うまく話せれば楽しいだろうな/松は雌花と雄花がとなり合い、自分一本で増やし続ける」「子どもがワワワワ界に行く!と言い耳に手を当て小刻みに叩き、ワーと声出す/ぼくもそこ行ったことある、でも違う音がしてるだろうな、手のひら同じでないものな」(発声と変身)とか作品の端々から「言葉」や「詩」に対するスタンスが見え隠れするのが刺激的。信じてたり、信じてなかったり、川のように、大きな流れの中で私の言葉も流れていくことを感じたり。それぞれの視線で、少しずつ違って見えてしまう川です。「光る川はそのまま、それで、これは流していいんだっけ」は、母が病気になって、入院先が決まり、弟と三人で抱きあった日のこと、母の匂いやふと思い出したミニ四駆のことなども一緒に思い出す情景描写がグッとくる。母の死後、いなくなることの大きさを感じ、いつか行った廃線跡に弟と二人で行く。おぼろげな記憶、母の足にしがみついたこと、出口が見える、子供の頃と違う自分へ。すごく象徴的で、ハッとする詩だ。そして表題作「する、されるユートピア」では「文化のランナーとして進むことを、/わたしたちはわきまえている」という宣言があって、すごいなあと思う。「成長過程は、恥ずかしいから見ないでほしい」とか「自分が人類のはじまりだったら、大変だろうね」とかいうキラーワードも最高だ。「する、されるユートピア」とは文化の応酬を繰り返している現世のことか。はたまた。「待つ」という名前の何か。そんな可愛い子がこの世にいるのか。あと武庫川とか、西宮浜の貝類館とか、自分の地元が出たきたのは自分にとってはグッときました。

ギャラリーで見た阪本トクロウと東慎也という人の絵がとてもいい。阪本トクロウの描く不在感と存在感、東慎也の暴力性ととぼけた感じ、どちらも最高だ。オペラシティでやっている和田誠展と府中市美術館の動物の絵展もおすすめです。

M-1の3回戦の感想としてはパンプキンポテトフライがよかった。2回しかボケてないのに、すごくおもしろい。「ねづっちです、サー!」やあらへんで、ふざけすぎ。兵庫県の方らしく同郷。やっぱり波長が合うのかしらん。