Nu blog

いつも考えていること

三田三郎『鬼と踊る』感想

私たちはたくさんのことを見落としている。毎朝の通勤路、いつもすれ違う犬とその飼い主、同じ電車に乗った人たち、職場の窓の向こうに見える謎の鉄塔。汚れていくカーテン、へたれてゆく布団、少し傾いている本棚、テレビ台の裏に溜まる埃。ちょっとずつ疲れ、老いてゆく体、テレビや広告で見て一瞬でもやりたいと思って一生やらないこと(湖でSUPとかバンジージャンプ、青空麻雀とか)、惰性で見てしまうSNS、連続ログインボーナスのためだけのログイン。そんな日々を直視しないように気をつけながら生きている。直視したらしんどくなってしまうから。できる限り「なかったこと」にしたい。そして、私たちは割とそれに成功している。

しかし、文学はそれを許してくれない。三田三郎の短歌は、たった一行で「なかったこと」にしていたことを申し訳なさそうに提示してくる。

コンビニで靴下を買う大人にはなりたくなかった(なりたくなかった!)

1杯目を飲む決断は僕がした2杯目以降は別人がした

冷蔵庫の裏のホコリは見えないし見えないものは存在しない

ゴミ箱を探して街をさまよえばテロリストの歩幅になっている

ありがとうございますとは言いづらくその分すいませんを2回言う

なりたくなかった大人になり、別人として酒を飲む。たしかに私のことであるが、そんな些事、私はきちんと忘れて生きている。なのに、三田三郎はそんな些事をこそ作品にしてしまう。すいませんすいませんと繰り返しながら。

些事と言ってしまうと、まるでつまらないことをわざわざ短歌にしているように思われるかもしれないから訂正しておく。それらは、私たちによって見落とされてきた存在や忘れさられた事象である。そうした見落としや忘却の代言人として、「ここにいる/ここにいた」と知らせてくる三田三郎の作品は、報道写真のようでもある。記事による説明はなくとも、情景として「私たちの重大な見落とし」を提示してくれるのだ。

なぜここは歯医者ばかりになったのと母は焦土を歩くみたいに

パーティで失言をした大臣のその時はまだ楽しげな顔

国道をひとり歩けば激励のように空車のタクシーの群れ

合戦のように横断歩道上スーツ同士が肩ぶつけあう

歯医者ばかりになった町、空車タクシーの列、スーツ姿が行き交う横断歩道…。これらの情景に石田徹也の絵を想起したのは私だけではないだろう。石田徹也の絵が消費社会の疎外を不気味に、そしてどこかユーモラスに描いたように、三田三郎の短歌も不穏な陰をちらつかせながら、鮮やかに、ぽっかり穴の空いた現代を切り取る。

私たちはたくさんのことを見落としているし、積極的に見落とそうとする。ぽっかりと空いた穴を見ないようにして、脳がパンクしないよう、なるべくさっさとあらゆる物事を捨象し、安心して眠ろうとする。しかし、三田三郎は捨象する手前で短歌へと焼き付ける。ギリギリでキャッチするその手腕たるや。わざわざそんな頑張って忘れなくてもいいのに、と大忙しで忘却に逃げ込む私たちをつまらなさそうに見つめているようではないか。

ずっと神の救いを待ってるんですがちゃんとオーダー通ってますか

擦りむいた膝をしばらく撫でている 自然にできた傷はかわいい

布団だけ僕の帰りを待っていた 抜け出たときの姿のままで

放尿が終わってしまう寂しさに負けまいと覚えたての軍歌を

毎食後の薬を欠かさず飲むために朝昼晩のチキンラーメン

この魔術的な目と手に感嘆するのだ。

その上で時折、共感を拒むような暗さを垣間見せる作品群がある。

ゴミ箱がないんじゃなくてこの部屋がゴミ箱なんです どこでもどうぞ

わたくしは何ゴミですか? 「ビン・缶類」ではないことは分かるのですが

前作『もうちょっと生きる』ではこれらの暗い作品がメインだった。前作はほとんどオディロン・ルドンの版画のように暗かった。こうしたどこか拒絶的な作品を「ユーモアとペーソス」といった形容句にまとめてしまうことは避けたい。それよりも、図と地でいうところの地となっていると捉えるのがよいように思う。三田三郎の短歌を支える基調であり、油絵の下塗りのように欠かせないものなのだろう。通奏低音などと評してもいいかもしれない。どのような捉え方をするにせよ、今作はそうした暗さをメインとせず、低い彩度を保ちつつ、豊かな色相を得るにいたっていることに驚嘆したい。そういえば、本の装丁も、前作は白黒グレーだったが、今作はカラフルな黄と青で構成されているのは偶然か(スクールカラー?)。

前作から今作の間に、どのような変化があってそのような色彩を表現できるようになったのか、私は知らない。技術的な向上なのか、悟性の高まりによるものか。

しかも、このように素晴らしい一冊を上梓してなお、作者はまだまだ言葉を紡ぎ足りていないのではないのではないかとも思う。

公園で親子が遊ぶ日曜日(言うべきことは何ひとつない)

「言うべきことはない」と言ってしまう寡黙な饒舌さ。今後の活躍にも期待しています。