Nu blog

いつも考えていること

大塚英志『「暮し」のファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』

モーニングショーという番組をちゃんと見たことはないのだけれど仕事する直前などにテレビがついてて目にすることがある。いつもコロナのことを話題にしていて「政府しっかりやれ」「国民もみな危機感が足りない」「外国はすごい」というようなことを言っている印象で、議題によっては妥当なものもあるだろうが、総じてテンションが高い、という印象を持っている。

もうかなり前のことだが、イギリスで教授をしていた渋谷健司さんという医師の人が専門家としてスタジオで発言されていた。私は全く詳しくないがコメンテーターの玉川さんが「ロンドンの教授職は終身雇用なのに、国難だからとその職を辞して日本に戻って活躍されていて偉い」とベタ褒めしていた。

直観的に「怖っ」と思った。もちろんコメンテーター玉川さんの発言に、である。

渋谷さんという人を、偉くないとは思わない。でも偉いとも思わない。

だって、それはその人の判断、決断であって、状況がどうあれ、偉いも偉くないも他人がとやかく言うことではないから。じゃあ何か。医師免許を持っているが無職の人がいたらその人は偉くないどころか、最低最悪な人間なのか。そんなわきゃない。その人にはその人の事情があるし、その事情が納得できるものかどうかは他人には関係ない!

国難だろうがなんだろうが、知るかっ!と吐き捨てたい。この人を「偉い」と褒めそやすことで伝わってくるのは、「使える人間」と「使えない人間」を分かつことで、それが裏のメッセージになってしまっているのが問題だと思うのだ。

 

大塚英志の『「暮し」のファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』を読んだ。著者がコロナ禍以降ずーっと不快だったことが滲み出ている本である。行間に現状への違和感が溢れかえっている。

戦時下、第二次近衛内閣における「新体制運動」において日常や生活が枠組みの中に収められていくことを暴く様は、昨今の政治の言葉と大きく重なり、かなり怖い。

戦時について知る時、「欲しがりません勝つまでは」「一億総玉砕」的なプロパガンダに目が行きがちで、反対に当時の雑誌などに躍る「普通」の言葉を、私たちは額面通り読んでしまう。たとえば整理整頓みたいなことにこそ、「戦時」体制が埋められているのだ。

今、むしろ私たちは身をもって、「コロナ禍」を体感している。こんな時こそ楽しく暮らそう、家での時間を充実させよう、みたいな言葉こそが「コロナ禍」なのである。将来、それらの言葉をまるで「コロナ禍とはいえ日常は変わらなかった」とする言説に出会ったら、きっちり反論したい。

それと同様に、戦時下において人々は、苦しいながらも「工夫」して笑顔をたやさず生きてきた、という認識を改めなければならない。『この世界の片隅に』的戦時観はやはり違うのだ。

 

だからやっぱり、ワイドショーで不必要に国難を乗り切るための一致団結、みたいなことを言っているのには警戒したい。専門家が知恵を結集することを賛美し、私たち自身自らの生活を「楽しく」耐え忍ぶ。我慢しない人を非難し、「このご時世に」と人を諌める。そんな何気ない一つ一つの行動が「非常時」を「日常」にしていく。

とはいえ反対に「こんな感染症大したことない」「日本人にはXファクターがある」などと一蹴し、ワクチンの方が怖いなどと煽っているのにも警戒したい。その主張は反対に、「勝ってくるぞと勇ましい」言説に近くて、結局非日常を強引に日常化しているだけのように思う。

 

ここまでがたがたな世の中だと、どうしていれば平衡を保てるのかわからなくなる。しかし、私たちはもともとバランスを取って生きているわけではない。生まれてこの方ずっと、世界の中で存在してきた。月並みだが、生きることは難しいのである。

性急に考えず、遅く、ゆっくり、考えていく。