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いつも考えていること

デヴィット・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』感想

「異常空間Z!」(by 向井秀徳)と叫びたくなるこの頃である。しっかし、向井秀徳は何年経っても透明少女を迎えに行くのだから、偉いよなあと思う。ピュアという言葉でしか、僕には形容でき得ない。

 

さて、話題の書であるデビット・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』をようやく読みました。クソどうでもいい仕事がなくならないどころか、増殖して地球を覆っているのはなぜなのか、という直感的、体感的に頷きたくなるテーゼを打ち出したこと自体に、本書及びグレーバーの凄さを感じる。哲学とは問いである、良質な問いを立てればそれだけでほとんど目的を達したと言える、とはよく聞く言葉だが、至言である。

 

グレーバーは、「1930年、ケインズが20世紀末までにテクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろうと予測した」ことから話を起こす。

テクノロジーの観点からすれば、完全に達成可能なはずのことが、実現していない現実がここにある。テクノロジーはむしろ、私たちすべてをより一層働かせるための方法を考案するために活用されてきた。

私たちは労働時間を少なくするか、おもちゃと娯楽をもっと多くするかを選ぶにあたって後者を選んできた。

管理部門が膨張し、多数の人間が仕事をするために存在している職業が増えた(飼い犬のシャンプー業者とか、24時間営業のピザの宅配人、時間があれば自分でやるようなことの代理が仕事になっている!)。

効率化を目指し無駄をなくすはずの資本主義において、なぜ「不必要な仕事」が発生するのか? 市場はなぜこれを解決してくれないのか? 解雇と労働強化が降りかかるのは実際にモノを製造し、運送し、修理し、保守している人々に対してで、書類屋の数はなぜか増加する。

資本主義はブルーカラー部門における情け容赦ない効率化とリストラを敢行するが、無意味な経営職や管理職のポストを急増させる。まるで作業現場をスリム化しつつ浮いた余剰で企業上層に不必要な働き手を確保しているかのようである。社会主義がダミーのプロレタリア仕事を作り出すように、資本主義ではダミーのホワイトカラーの仕事が無数に作り出される。

 

教師や港湾労働者がいない世の中はトラブルだらけだし、SF作家やスカ・ミュージシャンのいない世界はつまらない。CEOやロビイスト、リーガル・コンサルタントが消え去ってもなんの影響もない。むしろ世の中が良くなる。

かつて労働争議の際にロンドンを麻痺させたとして地下鉄労働者への怒りを複数のタブロイド紙が煽り立てたことがあるらしい。「地下鉄労働者がロンドンを麻痺させることができる」という事実が、その仕事が実際に必要とされていることを示すとともに、「本物の仕事を持っている」ことに対して人々が反感を抱くことを示している。「本物の仕事を持っている上に、厚かましくも中産階級並みの年金や医療まで期待するのか!」というわけだ。

日本では、保育士の給料が低いのはなぜか、というような議論があり、ひとつの炎上した回答が「誰でもできるから」だったが、この回答の見えない前提に「本物の仕事への苛立ち」があったように思う。

ちなみに、ポイントレス・ジョブ(無意味な仕事)とバッド・ジョブ(割りに合わない仕事)は「シット・ジョブ(クソ仕事)」であって、「ブルシット・ジョブ」ではない。ブルシット・ジョブは実入りがよく、優良な労働条件のもとにあるが仕事に意味がない。シット・ジョブは一般的に誰かがなすべき仕事とか社会に益する仕事だが、その仕事をする労働者への報酬や処遇がぞんざいなものである。

まったく、考えれば考えるほど不思議なことだ…。

 

このほかにも、ある水道局の職員が6年職場に不在であったが誰も気づかず、その人はスピノザの専門家になるほど自らの人生にとって有意義なことに取り組んでいた、という事件や郵便物を配達しない郵便配達員(各国どこでも!)やヘルシンキにおいて徴税監査官がデスクに腰掛けたまま亡くなっていた(静かに仕事がしたいのだろうと誰も邪魔をしなかった)事件など、ブルシットジョブがたくさん挙げられるのだが、こういう話を聞くと、ある種の人は憤慨するのではないだろうか。だから水道局やら郵便局やら税務署みたいなところはダメだ! あいつらはサボっているのだ! と。

時間を盗まれていると感じて怒るのは雇い主だけではなく、なぜかそれを見た一般市民もまるで上司のように激怒する。この結果として、仕事の大半が「忙しそうに見せること」に終始してしまうのだから虚しい。

 

ブルシット・ジョブの「最終的な実用的定義」は「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化し難いほど完璧に無意味で不必要で有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている。」とされる。本人はそうではないと取り繕わなければならないように感じている、何度も口に出したい言葉です。

 

 主要な5類型の説明もまた面白い。たとえば「とりまき(フランキー)」は、誰かを偉そうに見せたり、誰かに偉そうな気分を味わわせるために存在している仕事のこと。上司から「このメールの内容を確認してくれ」というメールが転送されて「そのメールはどうでもいいものですよ」とか「スパムですよ」などと返信する仕事などがこれに当たる。なんだ、その仕事。つまり、「忙しくてそんな仕事をしている暇はない」と思わせるためだけの仕事ってこと。「貴族であることを証明するには手下や奴隷が必要」なのである。たしかに、部下がいなければ、経営者であっても「目上の者」になれない。

「尻拭い(ダクト・テーパー)」として紹介されるのは、デジタル化の購入は費用がかかるという理由でどうでもいい情報を日々複写させられる仕事(身に覚えあり)とか、グレーバーの体験談になるそうだが「本棚の修理を頼んだが、大学には一人しか大工がおらず極度に立て込んでいるため、全然来られないことについて、毎日大工の不在を謝罪に来る仕事」とか(どう考えてもそいつをクビにしてもう一人大工を雇えばいいのに!)。組織に欠陥が存在しているためにその仕事が存在しているに過ぎない雇われ人のことを指す。ちょっと声を出して笑っちゃいますけど、いますよね。 

コンサルタントなどに象徴される「脅し屋(グーン)」、デューデリジェンスなど報告書作りに精を出させられる「書類穴埋め人(ボックス・ティッカー)」、計画のための計画を作り続ける「タスクマスター」など、呆れ返りそうだが、案外身の回りにいる。かわいそうにと思いつつ、自分もその一部を形成しているし、お互いにねぎらい合いながらやっていたりする。

 

グレーバーは、いちおうベーシックインカムを提案する(具体的な政策提言より、実際に本当に自由な社会がどのようなものかの思考や議論に手とつけ始めることが目的だから、気乗りしない様子)。

ベーシックインカムが制度化されたら、生活と労働が切り離され、ブルシットジョブは減るはずなのだ。デメリットとして、下手くそな詩人とかイライラさせられるパントマイマーやいかれた化学理論の布教者で町が溢れるかもしれないが、今すでに一定層が馬鹿馬鹿しく、無駄な企てに無理やり加わさせられているのだから、今よりも非効率になることはありえない!

2020年5月のインタビューでグレーバーが語っていたことらしいが(翻訳者後書きより)、これまでGDPが1%減少しただけでも大惨事だと思い込んでいたのに、新型コロナウイルスによって経済が停止されて、みんな自宅でじっとしても経済活動の減少はたったの三分の一だった。誰もが自宅にいれば、GDPは80%くらい低下しそうなものなのに、そうはならなかった。この思いがけない示唆を無視しちゃうのはもったいないのだが、きっとこれまで通りのことをやろうとするのが人間なのだろう。

 

最後に。

同時期に東浩紀の『ゲンロン戦記』を読んだのだが、そこでの結論は「研究であろうが、芸術であろうが、それを書籍や作品という『商品』として流通させるにあたっては『事務』がしっかりしていないとダメ」「クリエイターや研究者が主で、事務が補助という発想をしているとしっぺ返しを食う」ということだった。

事務はブルシットジョブの典型であるから、ちょっと意外に思える結論だ。

しかし、東はそこに至るにあたって「本質的なことは本の執筆ではなく、会社経営としてお金を動かすこと」や「お金の流れを掴むためには、デジタルデータだけではだめで、印刷するなりなんなりファイリングして、オフィスの特定の場所を占めさせることが必要だし、このケーブルはどこにつながっていて、どんな意味があるのか、何をいくらくらいでどこの業者にまかせているのか、自分の会社について何を質問されても答えられる状態にならないといけない」ということを、経験を通じて血肉化する(させられる)。

全然「哲学」や「思想」っぽくない結論自体に笑いが溢れてしまうが、実際に、経営とはお金という数字が動くことであり、物を配置したり動かしたりすることである。

「リアル」あっての経営。とすれば、グレーバーはそれらを「クソどうでもいい仕事」とは言わない。 

言論人に限らず、一般に生活を営む我々も、ブルシットジョブから解放された時間においては生活を営む経営者である。洗濯機を買ったり、食料品の調達をしたり、保育園選びに奔走したり、使いもしない便利グッズを物置に放置したりする。家も買うし、貯金もする。理屈や理論も大事だけど、実際のことから考える。これまた当たり前のことを思うのでした。終わり。