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いつも考えていること

澤田知子『狐の嫁いり』@東京都写真美術館

澤田知子『狐の嫁いり』@東京都写真美術館を観た。

澤田知子を知ったのがいつだったのか覚えていない。2000年代に10代を過ごした者としては、たぶん何かの雑誌でその名を目にしたのだろうと思う。だから、東京都写真美術館で個展が開かれるのを目にした時、現在も存命で作品を作り続けているアーティストに対して失礼ではあるが、「懐かしさ」を覚えた。

本街中にある自動証明写真機で、400回変装し撮影した『ID400』という、デビュー作かつ代表作がある。この作品のことをどこかで目にしたのだと思う。曖昧な記憶が、強烈にこびりついているのが不思議だ。

本展では、この『ID400』のオリジナルバージョンが20年ぶりに公開されている。400人分の証明写真が並べられている様は圧巻だ。

どこにも同じ人はいないが、全て同じ人である。もしこの写真が履歴書に貼られていたら、私たちはそれぞれの人に対し勝手なことを感じるだろうことは間違いない。

一世代前の証明写真だからか4枚1組、白黒なのもおもしろい。4枚並ぶことで反復性、複写性が強調され、こちらに押し迫ってくる。そして、最近の美肌効果やら背景色の変更やらがなく、整えられていない荒々しさも迫力の一部ではないだろうか。1998年の製作だから、プリクラブーム前夜?

その作品を出発点とし、コギャルの格好をした「cover/Face」(2002)、眼鏡を用いた「glasses」(2006)、リクルートファッションをモチーフとし証明写真を使った「Recruit」(2006)、ロリータファッションに身を包んだ「Decoration/Face」(2008)、そして後ろ姿を写した「Reflection」(2020)など、さまざまな企みと試みを経て変奏された作品が展示されている。

「ブレのないフォーマットとモチーフ」を用意した上で、いかに差異を写し出すか。抑制された表現に苦心していることに感動を覚える。特に、キャバクラ嬢をモチーフにした「MASQUERADE」(2006)が私は素晴らしいと感じた。

メイクも髪型もドレスも全く異なるのに、あの照明が、光が飛んだ無機質な背景が、「キャバクラ嬢」という職業を表象する。

私たちは勝手に「この人はプライドが高そうだ」とか「この人は手を叩きながら大声で笑いそうだ」とか「優しく頷きながら愚痴を聞いてくれそうだ」などと妄想するのだ(キャバクラに行ったことないのに!)。

 

澤田知子の作品は、一貫して鑑賞者側に問いかけてくる。「写真として写し出された対象の中に情報が詰め込まれていて、それを鑑賞者が読み解く」のではなく、「読み解いた情報はすべて鑑賞者のあなた方の側にあるんだよ」と。

 

展示室の入り口に

私をフェミニストだと思う人がいる

私を自分探しをしていると思う人がいる

私をコンプレックスが強いと思う人がいる

私をナルシストだと思う人がいる

私を変装しているだけだと思う人がいる

私を社会批判していると思う人がいる

私の作品を見て泣く人も笑う人もいる

私の作品が嫌いな人も好きな人もいる

私が化かしているのか、

皆さんが化かされているのか

という言葉が掲げられている。

変装による作品を作り続けてきた作者が、「私が化かしているのか、皆さんが化かされているのか」と述べるわけだが、挑発的な意図はちっとも感じられず、困惑や独り言のように思える。

その上で、第一文目がわざわざ「フェミニスト」なのは興味深い。

写真とフェミニズムといえば、『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』である。澤田知子も取り上げられていたはずだが手元になく、どのように言及されていたか確認できないが、「女性写真家」として様々、毀誉褒貶されたのだろうか、とあまり知らない私は勝手なことを思った。

検索すると、2000年度の写真新世紀において『ID400』が優秀賞を受賞した際の横尾忠則の審査評が見られた。

「僕は男性だから、男性として驚いているのかもしれないけれども、やっぱり女性の方が表現が豊かですね。」とか「コンセプチュアルな方法を用いて撮りながら、直感的、感情的、生理的、そういったものを付け加えていて、そんなに堅苦しくなく見ることができる点が良かったと思います。」とか「この作品を、もし男性がやればこんな風にならないと思います。これを見るとやっぱり女性は圧倒的に元気ですよ。」などと評している。

冒頭の「この作品は、多面的な自己というものがすごくあって、それが複雑化し増殖化していくという、単純にそういう驚きみたいなものがあります」だけが純粋な作品評価で、それ以外は女性性への言及でしかない。

 

自分で「私は女性だから〜」なんて言ったことないのに、周囲は「女性だからああなんだこうなんだ」と勝手に言い出す不思議。そこに「自分探し」だの「コンプレックス」だの「ナルシスト」だの「変装しているだけ」だの「社会批判」だの、もっともらしい言葉がどんどん付け足されて、作品そのものの感覚が消えていく。

かつて変装作品だと知られていない時には、一つ一つの写真を見ながら「あれ? もしかしてこれ、全部同じ人!?」という驚きがあったはずなのである(同じ人だと気付かない人も少なくなかったとか)。 

セルフポートレートだからといって、「私」を見ようとしないでくれ、「作品」を見てくれ、そして作品を通じてあなたは「あなた」を見るんだよ、と展示入口の言葉から、そんな思いが滲んでいるように私は思った。

 

この展覧会を見た翌日、晴れているのに雨が降った。

狐の嫁入りだ。

私は慌てて、洗濯物を取り込んだ。