Nu blog

いつも考えていること

「勉強します」がいつも答え

2/25号「週刊新潮」、古市憲寿氏の連載「誰の味方でもありません」188回において、「自分が『古く』なってしまったら……」と題し、森喜朗元首相による女性差別発言について論述されていた。

論旨をまとめると、

「1980年代には時の中曽根首相が「出産と育児は女性の特別な使命」と発言しても問題ならなかったが、社会は変わった。これから女性の政治家も管理職も増え、選択的夫婦別姓同性婚も遠くない未来に実現する。しかし、自分が守旧派として取り残されたらどう振る舞うのだろうか。中国のような「幸福な監視社会」が注目を集める今、民主主義から中国型の統治が採用される未来もありうる。その時に民主主義や言論の自由を主張したら老人の妄言とされるだろう」というもの。

締めくくりは「森元首相の発言を擁護するつもりはないが、鬼の首を取ったように彼を批判する人も未来のことを考えておいた方がいいと思う。いつか自分が古くなってしまった時、どんな思想と言葉で新しい社会と折り合いをつけるのか。」という言葉で結ばれる。

批判したいことは二つ。

一つは、擁護する気はないとしつつも、批判を諌める論調になっていること。もう一つは、女性差別という事象と、民主主義以外の政治体制という比べられないものを並べていること。

一つ目は読んでそのまま。締めくくりに書かれた言葉が語るに落ちるで、「鬼の首を取ったように」などと無用な修飾をつけて、批判することそのものを無効化しようとしている。とはいえ、論考の序盤で「男の会議の方が根回しだななんだのと結果的に長いし、校長先生のお話のように権力を持った男の話は長い」と「擁護するわけではない」ことを示す記述もある。あくまでも「擁護するつもりはない」のだろうとは理解したいが、結果として批判を諌めようとしているのには気づいてほしいと思う。

二つ目。唐突に出てくる中国型の統治が採用されたとしたら、という仮定。いわゆる「リベラル・左翼ほどロックダウンを求めた」論から派生したものと推察する。ここで言っていることの前提を整理すると「新型コロナウイルス対策としてリベラル・左翼は中国でなされたようなロックダウンを求めた」「中国的な政治体制とは「幸福な監視社会」で、一部の人の自由を犠牲にした多数の幸福である」「民主主義は普遍的ではないので、中国型の統治体制が採用される可能性は十分ある」ということになり、この前提を踏まえた上で「将来、中国式の統治が採用されてから「民主主義や言論の自由は大事」と言ったとしたら、老人の妄言と言われるのではないか」「今、森元首相を批判している人も将来、古い人扱いされるかもよ」という前段のオチへとつながるものとなっている。

これを整理すれば、「私権制限を求めてたようなリベラル・左翼の奴らが今回も森発言批判をしてるんでしょ」「もしお前らの言う通りに私権制限したら、お前らはその時になって「あの頃はよかった」とか言い出すんでしょ」という二つの批判が見て取れる。

もちろん直接的にそれらが書かれているわけではない。もしかしたら、無意識のうちに、そういう捉えられ方をしようと思って書いているのかもしれないし、どこかに対して目配せ的に書きたくて、こういう遠回りをしているのかもしれない。

私としても、ロックダウンを求めていた人には違和感を持つ。ロックダウンどころか、緊急事態宣言だって眉唾ものだと思っている。そして、ロックダウンせよ的な主張をしていた人たちの多くが、リベラル・左翼っぽい人だったのは確かだ。とはいえ、すべてのリベラル・左翼的な人がそうだったわけではないとも思う。

しかしここの記述のもっともな問題点は「女性差別」と「政治体制」というかけ離れたものをあたかも並置して「もしお前らの言う通りになったら、その時になって文句言うんでしょ」あるいは「将来自分が置いてきぼりにされた時、攻撃される側になるのはお前らだぞ」というメッセージへとつなげていることだ。

たしかに中国型の監視社会になったら、その時に「政府は言論の自由を守れ!」と批判しだすだろう。それはまあそうだ。一方で「女性がわきまえない社会」になったとて、「女性はわきまえるべきだ!」などと主張するだろうか。いやいや、そんなことはないはずだ。もしかしたら「男女ともにわきまえるべきだ」と言いだす輩はいるかもしれないが。

古市氏の(たぶん)言いたいことはわかる。「女性差別と政治体制のどちらも、良いこととされて実現されるものなのに、どうせみんな実現された後にぶーぶー言い出すんでしょ?」という気持ち、勝手な推察かもしれないが、その気持ちは痛いほどわかる。学校でも会社でも、そして政治においても「決まったことに文句を言う奴」「そっちが良いと言っていたはずなのに、実際は協力しない奴」というのはいる。たくさんいる。そして政治においては大抵リベラル・左翼というタイプの人間は、選挙で結果が出ても「いや、自民党はおかしいんだ、選挙の仕組みそのものが自民党に有利なんだ、おかしいおかしい」と言い続けるわけで、それらがリベラル・左翼への不信感を生んでいることは間違いない(それも民主主義の一側面でしょ?とも思う)。

とはいうものの、女性差別発言をネタにそれを批判するのはどうなのか。はっきりいって関係ないことではないだろうか。

しかしながら、古市氏はそれを明確に書いているわけではないので、ここを批判してもしょうがないのかもしれない。

彼の書いたことは「自分が古い人になった時、どうするの?」でしかないのである。たしかに自分が年老いた時、たとえば子供や孫、あるいは社会から「それは古い考えですよ!」と糾弾されたらどうしたらいいのか。いや、これって年老いてなくても発生する問題じゃないだろうか。今だって、老いも若きも女性蔑視的な発言や発想をする人はするのだから。そして女性蔑視はダメだ!と気づく人もいればオレは女性蔑視なんかしてへん!と開き直る人もいる。

そもそも、批判されてすぐ「私は間違っていた!」と思える人って相当珍しいと思う。もしいたとしても、すでにそれを受け入れる土壌が何らかの形であって、最後の一押しがそれだった、というだけではないだろうか。時代はころころ移り変わるが、人はすぐには変わらない。目の前の一人を変えようとするよりも、時代そのものを変えていくことで、ルールを変え、強制的に目の前のその人にもルールを守らせる方が早かったりするのではないか、と最近は思っている。

というわけで、古市氏への私の回答は「勉強します」である。若かろうが、老いようが、それ以外に社会で生きていく術はない。