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いつも考えていること

小熊英二『日本社会のしくみ』

小熊英二の『日本社会のしくみ』を読んだ(特にきっかけがあるわけではないが、小熊英二の著作を集中的に読んでいるのである)。

上級職員、下級職員、現場労働者という三層構造はどこの社会にもある。日本における三層構造は明治期にはヨーロッパ的な身分制度だったが、1960年代に戦時中の総力戦と戦後の民主化、労組運動と高学歴化といった複数の要素が作用したことで消滅し、日本的雇用として定着した(p485)

その時に達成されたことは、社員の平等であった。つまり、一企業に所属する社員の平等が目指されたのであって、ホワイトカラーもブルーカラーも等しく昇級し、等しく査定され、等しく昇進の機会を与えられなければならない、という理念が日本的雇用の特徴になったわけである。

ヨーロッパやアメリカにあっては、そういった一企業内の平等が目指されたことはなく、ヨーロッパでは職種の平等が、アメリカでは職務の平等が目指された。つまり、どの企業にいてもその職種であれば、あるいはその職務であれば同じ待遇で、同じ給料がもらえますよ、という発想である。

これらの成立経緯は、中世的なギルド等に求められるものではなく、年金に端を発する、社会保障の単位によるものである。日本では一企業ごとに健康保険組合があり、労働組合がある。戦後占領軍の司令によって労働組合結成が奨励されてたくさんの労働組合が成立するのだが、戦時中から戦後にかけての配給制等において、人々の生活にとって重要な基盤として存在していたのが企業だったから、企業別の労働組合が結成されたのではないかと小熊は言う。戦時中から戦後間もなくにおいて、都会にとどまった人々というのは、農村に縁のない人々、帰るべき田舎のない人々だった。企業だけがその人たちの拠るべき場所だったから、企業が中心の社会が成立していったのではないか、という(p356-358)。

結果として、日本における三層構造は大企業型、地元型、残余型という形になっている。ホワイトカラー、ブルーカラーというような断面ではないことが特徴である。

このような日本社会のあり方は「企業のメンバーシップ」型社会と言うことができる。ヨーロッパ(ドイツ)は「職種のメンバーシップ」で、アメリカは「制度化された自由労働市場」とできる(p562)

このように企業中心社会であるため、社会、というか政府は、年功要素を企業に負担させてきたとも言える。いわゆる生活給というやつもそうで、住居手当や扶養手当など、ヨーロッパ型社会であれば政府がそうした基盤を用意しているから、企業がそんな負担をすることは考え難いのである。さらに、企業から溢れた人々、いわば余り部分をカバーするために国民健康保険生活保護があるわけで、例外的な扱いとしてきたことも日本社会の特徴なのである。

どのような形態のコミュニティによる支配が中心の社会か、ということが現在の社会のあり方を決める。その成立の経緯を見ていくことで、なぜ私たちが今このように暮らしているのか、初めて足元が見えてくる。

このまま企業中心社会でいきたいのか、別のあり方を探るのかは現代を生きる私たちの問題だ。いわゆる愛社精神的なものが消え去った今も、企業別の健康保険組合があり、労働組合があって、私たちの暮らしを実は支えている。企業中心社会を放棄する、ということは社会保障を別の形にすることであり、その新しいあり方をデザインしなければならないのである。

 

そういえばもう一つ面白いエピソードがあった。日本社会において、大学は企業に対し新卒採用者を紹介する役割を担っていた。大学がスクリーニングの役目を負っていたのである。しかし大学生が増加し、社会全体が高学歴化したため、実際的なその役割を大学は担えなくなる。経済界は高学歴化を抑えるために実業教育(工業高校の充実)を図ったが、戦前の親世代が抱いた夢(子供を高校、大学にやって自分より良い仕事に就かせたい!)という思いは止められなかった。

結局官庁や軍隊式の職能資格給の導入によって、その解決を図る。職能資格給とは、学歴を能力とみなし、かつその能力ごとに社内の等級を振り分けていく制度である。つまり全然違う仕事をしていようが、同じ学歴で同じ等級なら同じ給料だし、同じ仕事をしていようが大卒と高卒、あるいは等級に差があれば違う給料になる仕組みである。この仕組みが前述の通り企業における社員の平等の観点から、ブルーカラーにもホワイトカラーにも適用された。同じ仕事をさせるなら、大卒より高卒を雇った方が人件費が安いのである。不思議な現象だ。

学歴を能力と看做すのだが、それは専門的な能力を求めるのではなく「何にでも対応できる能力」を求めることとなる。だから企業は大学院卒を求めない。ので、日本社会のスタンダードは大卒なのである。

誠に不思議な社会である。

 

最後に、「スーパーで10年働く非正規雇用のシングルマザーはなぜ昨日入ってきた高校生(女性)と同じ時給なのか?」という問いが提起されていた。これは、2017年に労働問題の関係者の間で話題になった問いだという(p577)

その問いとして以下の3つが挙げられるのではないかと小熊は言う。

回答①→賃金は労働者の生活を支えるためのものだから、その状況はおかしい。全ての人が正社員になり、年齢と家族構成にあった賃金を得られる社会にすべし。

回答②→年齢性別人種国籍関係なく同一労働同一賃金は原則。その状況は何もおかしくない。資格や学位を取得し、高賃金の職務へのキャリアアップができる社会を目指すべし。

回答③→労使の問題ではなく、児童手当など社会保障政策で解決すべき問題であって、同じ仕事なら同じ賃金であることはおかしくない。最低賃金の引き上げや資格取得、職業訓練の機会提供が公的に保障される社会になるべき。 

戦後日本は①を選んだ。②と③は同じような正義を達成するが、②は別のかたちの格差拡大を引き起こし、③は税や保険料の増加を招く。

いずれにせよ、社会の合意でもって決まるものである。良いところのつまみ食いは達成されない。パッケージで取り組まなければ変わらない。はたしてこれからの社会はどのようにデザインされていくのか、当事者でありつつも、傍観者的なワクワクした気分になった。