オーストラリアがシーケンスの概念を確立、スクラムやラインアウトから選手が決められた通りに動くことで相手側ディフェンスを意図的に動かしスペースを作る技術が発展。ディフェンスの技術も、従来のマンマークディフェンス+ドリフトディフェンスという「点」のディフェンスから、 ブレイクダウンに入らないフォワードの存在=ピラーが内側からプレッシャーをかける「面」でのディフェンスシステムが作り上げられる。
それに呼応してニュージーランドにおいてグラウンドを縦に区切るレーン(チャンネル)の概念が登場し、そのレーンごとにポッドと呼ばれるユニット(バックスとフォワード数名のひとかたまり)の配置を決め、ブレイクダウンのリサイクルのスピードアップを達成。2秒以内にブレイクダウンリサイクルを行えば、ディフェンスのポジショニングは間に合わずチャンスが増える、という原則を確立する。
サッカーがグラウンドを横に区切ってポジション配置を決定しているものを縦にしたことをイメージすればよい。つまり、グラウンドを中央右、中央左、右端、左端の4つに区切り、それぞれ9番、10番、12番、15番という状況判断者を設定し、それらの周りにフォワードを配置するのである。 相手ディフェンスの状況を見て、どのレーンで勝負するのかを場面ごとに決定していく、というのがポッドの概念である。
ポッドとポッドの間を広くして、人がスペースに走り込むのではなく、ボールをスペースに動かすことが主流となるため、ディフェンスもそれに合わせてボールを追いかけず、ポッドに対してプレッシャーをかけるようになる。その時、反対にブレイクダウンすぐそばがガラ空きだったりするのだが、原理原則があるため、そこを攻撃できない、というような不可解な現象が起きたりもしたそうだ。
ポッドの概念があるから、日本代表で言えばリーチ・マイケル選手、ニュージーランドで言えばアーディー・サヴェア選手などがエッジ、つまり一番端に立っていて、スペースが空いたらボールを要求し、フィニッシャーとしてトライすることがあるわけである。これはミスマッチを狙っており、フィジカルの強い選手を相手ウィングに当てる、という発想である。
反対に稲垣選手のような真ん中のポッドに配置され常にブレイクダウンのリサイクルに従事する選手がトライすることは稀なわけである(だからRWCでのトライは感動的だったわけだ)。
さらにシェイプという概念が登場し、9番からのパスを受けるポッドを9シェイプ、10番からのパスを受けるポッドを10シェイプと称するらしい。ポッド間のリンゲージ、連結を図るための思想で、ポッドをレーンに固定せず、(主に順目に)移動することでボールを動かしていくのである。
シーケンスや面のディフェンス、チャンネルの概念は自分も理解していたが、ポッドやシェイプは知らなかった。知らなかっただけではなく、単純なポッドであれば見ていて気づくかもしれないが、シェイプのように動くこともあれば、可変ポッドと呼ばれるポッドの人数や形がフェイズごとに変化するシステムが主流となっているため、単に見ているだけではポッドという集団が掴めないのである。
こうした細かい技術を知らなくとも、少なくともプレイスタイルとプレイ原則は押さえておきたい。プレイスタイルとは、どういう形でゲームを進めたいのかという自分たちの勝ち方のことで、プレイ原則はその実現のためにどういった動きをするかという具体的な落とし込みのことである。プレイ原則はさらに準原則、準々原則というように細かく分割していき、それをチームに落とし込む必要がある。
南アフリカで言えば、セットプレイでプレッシャーをかけ、ボールを持たずに前進しトライを得ることがプレイスタイルであり、プレイ原則は、ハイパントによるテリトリーの獲得とボールの再獲得、ラッシュアップディフェンスとターンオーバーとなり、準原則は…という風に分解できる。
ニュージーランドのプレイスタイルはポゼッション重視、アンストラクチャーからボールをスペースに運ぶこと、原則はポッド配置によるダブル・スタンドオフシステム(モウンガ選手とバレット選手)、相手にキックを蹴らせるロングキック、防御はブレイクダウンに人数をかけず、シングルタックルで仕留める、というもの。
日本は可変式ポッドによる数的、位置的、質的優位を防御に合わせて意図的に作ることがプレイスタイル。ピストンアタック(ブレイクダウンを挟んで両サイドを交互に攻めることで相手ディフェンスをグルーピングすること)を使い、ポッド配置を変えていくのがプレイ原則である。
つまり、そのチームが何を意図して攻撃しているのかを読み解くのが、ラグビーを見る際の醍醐味なわけである。開始から10分もすれば、両チームの狙いは見えてくるはずだから、あとはどちらの戦術がより精緻で、相手ディフェンスの裏をかけるのか、反対に相手のオフェンスを粉砕できるのかを楽しみに見るより他ない。
かつての昭和的ラグビーの思想では、天才的なプレイヤーが味方のフォローを受けながらトライをもぎ取ることが一つの面白みであったが、そういう時代ではない。かといって、全員バックス、全員フォワード的な抽象的概念でもない。
複数の意思決定者が緊密にコミュニケーションを取り合い、かつ周囲のプレイヤーもその意思決定者の意図するところや状況を理解して行動することでトライを取る。
この近代的な主体性にラグビーの複雑な面白みが詰まっているわけである。
こういう勉強しながらラグビーしてたら、楽しかっただろうなあ、と自分の中学生時代を少し悔しく思う。大学生のコーチが「チャンネル」の概念を知った時に嬉々として我々に教えてくれたことを思い出す。「面」のディフェンスをしないとあかんのや、とつい最近までドリフトディフェンスを教えてたくせに言い出したのは忘れない。その時のコーチの気分は、この本を読んだ私の感覚そのものだったのだろう。
高校、大学とラグビーを続けてたら、こういう戦術を理解しながらラグビーをしていたのだろうか。とはいえ、プレイヤーとしてはそんな理屈めいたことはかったるいのかもしれない。ラグビーをする者の楽しみは、その肉体的躍動、痛み、グラウンドに滾る熱量そのものを純粋に味わいたいという、その一時に尽きることもあるのだ。
年末年始、高校、大学のラグビーが盛り上がった。週末はついに決勝戦だ。そしてトップリーグが始まる。海外のトッププレイヤーたちがたくさん来た。彼らから日本のプレイヤーはどんなことを盗み取れるだろうか。そして私たちにどんな素晴らしいプレイを見せてくれるだろうか。楽しみでならない。