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いつも考えていること

『官僚制のユートピア』感想

デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア』を読んだ。

今話題の『ブルシット・ジョブ』の前作に当たるもので、『ブルシット・ジョブ』は図書館で70人待ちのため粛々と待機しているところである(買えよと言われましても…)。

右翼が官僚制のプログラムを解体しようと訴え、支持を得ているのに、左翼は官僚を守り、大学教授の地位を保護しようと、官僚制を守ろうとするのは何故か。というのは現代日本の左派に伝わらない疑問かもしれない。必要な人に金を届けろと叫ぶ人や、学術会議がどうとかこうとか言ってた人にはなおさら伝わらないだろう。政府がそのとおりにすると、「必要な人」の判断や「学者」による「私たちが必要な千の理由」みたいなクソみたいな資料を作らせるだけである。もちろん、政府はそうでなくてもそういうクソみたいな資料の山々を作り、作らせているので、どちらにせよクソだが。

なんというか、左翼はかつて「すべての権力を想像力へ」をスローガンにかがけ、その本質は官僚制批判であるはずが、社会的福祉国家をひとつの到達点とみなし、現実主義的な路線として、官僚制を守る方向になっている。

クソみたいな書類の山、委員会のための委員会など、どう考えても官僚制はクソなんだから、何も擁護できる点はない。なにかすればするほど「本来の目的」の周縁に無用な付属物がぐるぐるぐるぐる巻きついて、巨大な構造物ができあがってしまう。

にもかかわらず、左派がそれを擁護するのはなぜか?

官僚制の魅力は、勝利を夢見させるゲームを構築するからとグレーバーは言う。その結果、恣意的な権力が恣意的な権力を生み出し、規制が存在を締め上げ、科学や創造性が抑制される状況が発生するのに!

たとえば、以下のような「専門職化」などはその典型だろう。

看護師から芸術講師、心理療法士から対外政策コンサルタントまで、どの領域でも、同じ筋書きをくり返すことができる。これまでは(実地に学ぶのが最良である)技能とみなされてきたほとんどすべての努力が、いまや、公式の専門訓練と修了証を必要としている。(…)こうした手段はーーすべての官僚制の手段とおなじようにーー、以前であれば内輪の知識とコネの支配した領域に、公平で非人格的な仕組みを打ち立てる方法と称賛されているが、その効果といえばしばしば逆である。大学に在籍した者なら知っているように、いわゆる[財政的]支援を確保すふための書類作成のコツを一番よく知っているのは、家族の資産により、もっとも財政的支援を必要としない人間、すなわち、知的専門-中間管理職階級の子息たちでかる。そんな境遇とは無縁の人間にとって、一年間の専門教育の主要な成果といえば、学生ローンによる膨大な借金でがんじがらめになったことである。たとえ職にありついたとしても、その後の収入のかなりの部分が、月ごとに、金融機関に吸い上げられる。なかにはこうしたあたらしい訓練の必要が完全なる詐欺としかみなしようのないものもある。(p32)

たしかに資料作成の楽しみは、ある意味迷路を歩く楽しみにも似ている。それを楽しいと思う人もいるが、迷路がなければまっすぐ歩くだけなのだ。

難民になったことがあったり、ロンドンの音楽学校の入学許可のために四〇頁にわたる申請書を作成したことのある人間ならだれしも、官僚制が合理性とむすびついてるとか、ましてや効率性とむすびついてるなどという考えは、お笑い種に聞こえるであろう。しかし、上からの目線で世界を眺めると、まさにそう[官僚制が合理的で効率的に]みえるのである。p56

 

引き合いに出すわけではないが、同時期に読んだ本である宇野常寛の『遅いインターネット』でも、現代の政治への対抗策のひとつとして「政治の役割を縮小すること」を挙げていた。リバタリアン的発想はもう当然の前提なのだろうと思う。グレーバーは縮小どころか「なくていい」というアナーキストであるが、まあ、方向性は概ね同じだろう。とにかく政治はいろいろやりすぎである。

ちなみに宇野氏が唱える後の二つは、一つがインターネットの活用(東浩紀の『一般意志2.0』とは違うオードリー・タン的活用がいいらしい。ほとんどいっしょでは…?)、もう一つがクローズドな空間でじっくりと考える場を一人一人が持つこと、である。

後者はなんの話なんだろうかと思って読み進めたら、つまり、自分のオンラインサロンへの入会を広告してるだけだった。思わず「くだらねえ…」とつぶやいてしまった。