Nu blog

いつも考えていること

人混みの価値

初めての人混みは多分小学生の時の三宮だった。きっと今でもある角の鞄屋さんのところで、母親か祖母に「はぐれたら、あんたんこと見つけられへんからな」と脅されて、かーっと胸が熱くなるように怖くなったことを覚えてる(こないだ海原やすよ・ともこが「関西のお母さんは子供を叱る時「しらんで」しか言わない」と言っていたが、それに似てる)。

河原や寺の境内でやってた夏のお祭りなんかでも、それなりに人混みを経験してたはずだが、それは「家に帰れる人混み」で、「家に帰れなくなるかもしれない人混み」はその時が初めてだった。

その後小学校まで電車通学をするようになって、満員電車に慣れると、人混みがどうとかこうとか思わなくなった。だから、梅田で驚いた、というような記憶はないし、東京に来た時も、街の大きさには驚いたけど、人混みには怯まなかった(つもり)。

 

そんなことを思ったのは、久々に人混みをまったく経験しない五日間を過ごしたからだ。

学芸員資格を取るための博物館実習で地方都市に泊まった。田舎というと、人によってイメージがばらつくだろう。

三階建て以上の建物がほとんどなく、空の広い町。駅前は閑散としているが、駅から離れた県道沿いに店が並んでいるようなところ。県道沿いに大きなマクドナルドや丸亀製麺があるようなところ。

研修先の博物館にはほとんどお客さんがおらず、毎夜通った近くのスーパー銭湯も常にガラガラだった。コンビニもスーパーも静かで、人影はまばら。コロナの影響なのかもともとなのかはわからない。

視界の中に十人以上の人が入らなかった、と言うと大袈裟かもしれないが、そんな感じ。

五日間を終えて東京に戻ると、人波で視界が埋め尽くされた。それで久々に三宮のことを思い出したのだった。

 

もしあの土地で暮らせと言われたら。いいスーパー銭湯だったから、毎日行くかもしれないな。会員になって、ポイントを貯めて。

それ以外の楽しみも、探せばいくつかあるだろう。山が近いから山登り、沢もあるだろうから釣りなんかを趣味にしたりするだろうか。

車で移動すれば果物狩りや、おしゃれな喫茶店巡りとか、そんなこともできるだろう。

東京にも四半期に一度くらい行くかもしれない。美術館や演劇を見に行くのだ。そんなに遠いとこじゃなかった。

いつしか視界に十人以上入らない生活に慣れる?

わからない。

 

その土地の何人かの人は、なぜか時折無性にイラついた様子を見せる時があった。何か焦ってるような、怒っているような。その原因はよくわからない。僕が悪いとか、そーいう話ではなさそうだった。

もしここに住んだら、僕もそうなる?

わからない。

僕に彼らがそう見えたのは、もしかしたら僕が田舎を馬鹿にしてるからかもしれない。何もないから苛立ってんだな、と偏見で見ているのかもしれない。あるいは田舎者なんだからのんびりしてんだろ、何イラついてんだよ、というような偏見の押し付け。

何かを変えたいのか、変えたくないのか、わからない。自分たちの居場所が確かなのか、わかってない。そんな気配。

 

大阪都構想が否決された時、日本は変化が受け入れられないんだ、と嘆く人を見た。

小泉政権後短命政権が続いた頃、「良くも悪くも小泉さんは色々ちゃんと変えたやん。おれはそれすごいと思うねん、後の人らは何もできてへんねんから」と評した友人がいた。

会社に入ってから、「今」に苛立ち、とにかく変えよう! と掛け声をかける人がたくさんいることに気づいた。

そういえばいつだったか父が「現状維持は衰退の始まり」と言っていた。

成長とか改革とか打破とか既得権益とかとかとか。向上心がない奴は馬鹿、とか…。

図書館に指定管理者制度を入れるなんて! と業界は大反対したけど、入れてみたらサービスが向上されて喜ばれてる、なんてことがそこら中で起きている。今まで九時五時だった開館時間が延びたりしてる。受託企業は非正規社員ばかりだからこの先どうなるかわからない、知識や技術が継承されない、なんて批判もあるらしいが、正社員ばかりでも利用時間が九時五時なら意味ないと思ってしまう。

 

突然の脱線をつなげると、人が集まらなければ価値は生まれない、ということ。人が集まると常に変化し続けるようになる、ということ。

都市はそこに価値がある。でも、迷子になったら家に帰ることはできない。

逆張りすれば、人が集まらない、というところに地方都市の価値があるのかもしれない。ちゃんとおうちに帰れる価値が。

しかし、田舎の夜の暗さは見くびらない方がいい。迷ったらやっぱり帰れなくなる、か。