Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(東京)

先生の話を聞くと、いつも「ああ、この人はこの場所が好きだと言いながら、東京で過ごしていた時のことを懐かしく、愛おしく思っているんだ」と明らかに思ってしまうのだった。

私も、私の両親も、東京から特急で二時間弱のこの町のことから離れて暮らしたことがない。特急で二時間弱だからいつでも行けると父は言うが、私はもう二十歳になるのに、一度だって東京に連れて行ってもらってはない。高校生の頃、母に連れられて宝塚歌劇を観に行った。私たちなりによそ行きの服を着てみたけれど、そこにいた誰もが私たちよりドレスアップして見えた。さらに舞台の上の人たちは私とはかけ離れたレベルできらきら輝いており、私は感動することさえできなかった。

片道四千円。時給にして約五時間。夜十八時から二十三時までのシフトが割り当てられている私にとって、それは一日分の給料。つまり、とても高い。そのお金を払って東京へ何しに行くの? わからないから、大学生になっても東京との距離は変わらない。

先生は、ここは星もよく見えるし、自然豊かで空気も綺麗で、せかせかしている人も少ないし、ごみごみしているところもないし、ここに来てから一度も怒鳴り声を聞いてない気がするよ、なんて言う。

てことは東京は、星は見えないし草木もなくて、空気は淀み、皆せかせかしていて、ごみごみしていて、ひっきりなしに怒鳴り声が飛び交っているの? と私が聞いたら、先生はそこまで極端じゃないけれど、と目線を逸らす。夜の研究室で一時熱くなった先生の体は急に冷え始める。そうだよね、だったら東京に住む人なんて一人もいないもんね、と私は笑ってみせるが、先生は何を思い出しているのか、上の空でそんなことはないんだよ、と返事になっていない返事をする。

東京のどこに住んでいたんでしたっけ。大井町ってとこに住んでたんだ、知らないだろ、東京の人でも知らない人は知らないよ。そんなこと言ったら、この町の人でも知っている人は知っていますよ。いや、この町の人は誰も大井町のことなんか知らない。

服装を整えながらそんな意味のない会話を始めて終える。私も一度は東京で暮らしてみたいな、と口に出すかどうか迷う。大井町、先生の住んでたところはまだあるかな。そこに住んでみようかな、とか。沈黙を埋めたくて、私はそれを口に出してしまう。先生はどうだろうね、君には東京はあんまり面白くないんじゃないかな、とさらりと言う。私は少し傷つく。先生は東京が楽しかったのに、私は東京を楽しめない。

先生はまだ残って事務作業をすると言うから、私は指導を受けていた学生のフリをして、ありがとうございましたと頭を下げて退室する。そんな学生、いるわけないのに。

誰ともすれ違わないように、こそこそ学校を出る。徒歩二十分で私は家まで帰る。真っ暗で、静かな道を歩く。東京も同じように夜の十時なのだろうか。東京は今朝の八時だったりしないのか。太陽が輝き、人々は目覚め、ガヤガヤと動き出したのではないだろうか。冷たい耳を手で押さえながら歩いた。