Nu blog

いつも考えていること

最近考えてること

長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』と綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の二冊を読んだ。

どちらもすごい本だと思った。

長島さんの本は、東京芸大美術館のトークイベントで上野千鶴子が、ゲンロンのトークイベントで三浦瑠麗が、それぞれ言及し、その言及され方的に評価が高いことがうかがえたし、実際に読むとタイトル通り、「僕ら」のものを「わたしたち」に取り返すその過程に興奮させられた。

長島さん自身が「女の子写真」と評価されてきたので、当然自分自身も取り上げて論じられるが、自分自身の語られ方を突き放して考察する。その研究者を貫いた姿勢にも、読みながらワクワクさせられた。

綿野さんはアイデンティティとシティズンシップという対立する二つの原理を導入し、現代のポリティカルコレクトネスによる炎上発生の構造を明らかにするもの。最終的に天皇制に踏み込んでいくあたりが最も共感できたポイントで、右翼的であれ左翼的であれ「迫害された!」「差別だ!」「ハラスメントだ!」と様々な問題提起をし、当事者に代わって主張し始めるのに、誰も天皇家が人権侵害されてることには疑いも抱かず、むしろ彼らの言動を自派の理屈に引き寄せようとする。

タイトルが天皇制に係る言葉だった、というところにこの本の肝があると思うわけで、書評などでもそれに触れられてないのを見ると、残念な気持ちになる。

 

さて、前出のとおり、言論のトークイベント、東浩紀と三浦瑠麗の対談を見た。東浩紀の三浦瑠麗擁護に面白みを感じて、である。

話の中心は三浦瑠麗主宰のシンクタンク・山猫総合研究所による2019年の日本人価値観調査の結果、である。

これ自体はネットで無料公開されており、たしか公開当初少し話題になって、私も一読したところである。

この調査では、価値観を四分割する。横軸に経済をとり、左側にいけば再分配志向、右側に行けば経済的自由主義志向。縦軸には社会政策をとり、下に行けば社会的自由主義志向、上に行けば保守志向となる。

整理すれば、以下の通り。

第一象限(左上)は経済的には再分配志向、社会的には保守志向のポピュリスト。

第二象限(右上)は経済的自由主義かつ社会的保守の保守派。

第三象限(左下)は経済的には再分配志向、社会的には自由主義のリベラル。

第四象限(右下)は経済的自由主義かつ社会的にも自由主義リバタリアン

アメリカにおいてこの分類を適用すると、左側の上から下に主たる層がプロットされ、かつポピュリストよりの保守が一定層存在するらしい。リバタリアンはそもそも4%とか。そうした分布の中で共和党民主党の支持が二つに割れるわけで、アメリカでは二大政党制らしく論点が明確なのだが、一方。

一方、日本ではこの四つの証言にほぼ均等に人が散らばり、そして自民支持者も均等にいて、民主党支持者というのは左下の一部なのである。対立軸になりうるのは憲法と安全保障だけ。そりゃ選挙しても自民党が勝つわ!というのが調査の結論である。

この調査の功績は日米の価値観に差異があることを示せたことにあると思う。加えて、日本の中にもこの四分割的な価値観が散らばって存在することを知れたのも、とても面白いことだと思う。

他方、対立軸を明白にした分割方法はないのか、という批判もできるかもしれない。しかし、恣意的なやり方はかえって調査の意味を失わせるだろう。

そのうえで、調査の結果において最も問題と思われるのは、自民党が満遍なく支持を得ているということで、つまり、自民党が経済的に再分配志向でもなければ、自由主義的でもないことである。

どういうことかといえば、つまり党として経済政策に対する一貫した制作パッケージはなく(すくなくともこの調査での二項対立的一貫性はなく)、情勢に応じた、あるいは個別事案に応じた「反応」しかないということである。悲劇だ。

三浦瑠麗も東浩紀菅内閣の支持率の高さについて、とりあえず日本人は長期的安定政権を望んでいるんだろうと分析していたし、そのとおりと思う。

しかし、経済的自由主義を望んでも個別政策的には分配に偏り、反対に分配を求めても個別事案においては自由主義的に振る舞う自民党を支持する神経とは?

自分らの意見が取り入れられなくても、たいして気にしない。日本人が政治、政党に大した期待をしていないことを表しているのではないかとも思う。

その点リベラルと位置付けられる人々の政治への期待は酷い。四月からの緊急事態宣言やロックアウトを求める声はリベラルから挙げられたものだった。はっきり言ってこの一事でいろいろ気づかされた。ありえない自己矛盾だし、絶対に賛同できない主張であった。そして、自分の思想としても生来アナルコ・キャピタリストであったことを思い出させてくれた主張だった。

ほんと、右翼でも左翼でもいいが、政治的一貫性について考えてほしい。実は主張の原理が「誰かに守ってほしい」ならそれはそれでいいから、ちゃんとそう言うべきで、「政治の役割とは〜」などと言うのは欺瞞ではないか(特定の誰かというわけではない)。