Nu blog

いつも考えていること

フィールド・ノート(第11話)

 ショーウィンドウの中にたくさんのサンドイッチが詰められている横をすっと通り過ぎて、聡子はフルーツサンドが好きだけど、自分はあんまり好きじゃないなとか考える。ちょっとずつ不安げな表情をした通勤者たちが行き交う朝の地下街で、フカミはシャツの袖をまくり上げるか思案しながら歩いていた。今日から袖をまくり上げたら、本格的な夏の時期にはどんな格好をすればいいのか、なんて思ったから。
 ゴールデンウィークが過ぎて、年明けから続いた浮ついた感じがようやく落ち着いた気がした。ようやく一年が始まったと感じられ始めたような、そんな気がする。
 
 家に帰ると聡子はまだ帰っておらず、リビングのカーテンを開けたら、三階のマンションの外には一軒家の屋根屋根と、その屋根の下に夕日が沈もうとしていた。長袖シャツとスウェットに着替えて、椅子に座る。しばらくの間、日が沈む方を見ていた。聡子からのメールで、帰宅まであと三十分くらいだと連絡があった。
 ハーマンカードンのスピーカーで、柴田聡子を流した。
 炊飯器をセットして、冷蔵庫からネギとキャベツとピーマンと豚バラを取り出し、回鍋肉を作った。時間が余ったので、だし巻き卵も作った。
 作り終えた頃には、夜になっていた。窓に自分の姿が映っていた。カーテンを閉めた。
 
 しのは港にある自社倉庫で、委託元である親会社社員の立ち合いのもと、検品作業を監督していた。親会社の社員と言ったって、つい先日まで一緒に働いていた皆さまで、知った顔ぶれなのに、ずいぶん堅苦しい雰囲気を醸していて、気軽な会話の一つもなかった。
 連休明けから、こうしてこの自社倉庫に行かされ始めた。大抵の契約書に、モニタリングすることが書かれているから、契約ごとに検品作業への立ち合いがある。一つしかない親会社の中で、それぞれの部署、それぞれの契約ごとにモニタリングをしに来るのだから、馬鹿らしい。
 現場の管理者が立ち会えばよいのだが、暇つぶしになるだろうとこうしてしのが行かされる。相変わらずのお客さま扱いなわけだ。
 やっと一か月、もう一か月。そんなことを考える。ぼんやりと、一秒ずつ人生が過ぎるのを感じる。過ごしている間は無限のように思え、過ぎてみればなかったことのように思える一秒、一時間、一日である。
 今日の晩ご飯はどうしよう、と冷蔵庫の中身を頭に思い浮かべながら。
 
 ダイキは役所にいた。図書館やハローワークは紙のにおい、かびのにおいで古ぼけた感じだが、役所も同じにおいがする。ただ、ここの役所は最近の施設みたいでこざっぱりとしている。全体に、新し気なパソコンを使っているし。なんてきょろきょろしながら、ふかふかのソファに座って順番を待つ。
 いろいろと調べた結果、ダイキを専業主婦として扶養控除に入れた方が、会社を作るより税金的には得っぽいと判断し、ダイキと絵美は婚姻届けを出して、結婚した。絵美は親と疎遠だったし、ダイキも別に言うほどのことじゃないと思って、親には言わずに結婚した。友人らにも特別言うほどのことでもないから、次に会った時に、言う必要があれば言おうと思った。あるいはお祝いの品が欲しいから、言おうかな。
 証人欄は、婚姻届けを書いた日に、ちょうど打ち合わせで会った取引先の人にお願いした。それまでにもうずいぶん顔なじみになっていたので、引き受けてくれた。山岸さんは「ぼくでいいんですか」とか「親には保証人にだけはなるなって言われてるんですけどね」(「保証人じゃなくて、証人なんで」と言った)とか「本籍!?」とか言われたが、どことなくウキウキした様子で、鞄からハンコを取り出したのが可愛らしかった。もう一人、山岸さんの部下の斉藤さんも戸惑いながら、「はあ、まあ」と言って、めちゃめちゃきれいな字で「齊藤」と書いた。普段「斉藤」とメールに書いていたので、ダイキが思わず「難しい方の齊藤なんですね」と言ったらやっぱり「はあ、まあ」とあいまいに肯かれた。斉藤さんは、かなり長い間鞄をごそごそと漁り、あれでもないこれでもないと中身を出しまくって、ようやくハンコを見つけ出した。
 その婚姻届けを出したのは十日前のことだった。今日は戸籍謄本と住民票をゲットしに来た。
 新しい、二人だけの名前が載った戸籍と住民票。絵美の名前があって、ダイキの名前が記載されている。二枚の紙を、クリアファイルに入れた。
 
 フトーはお墓にまつわるビジネスとか、介護・福祉関係とか、そういうことを考えていたが、なかなかアイデアも思いつかなかった。そういう業界に懇意なわけでもなく、ただぼんやりとそこらへんを夢想していた。
 夢想と居酒屋のアルバイトばっかりやっていてもしょうがないので、SNSを使って外国人に民泊を紹介したり観光案内したりしていたら、インターネット上で知らない人に、それはもぐりの旅行業になるからマジでだめだと言われてしまった。親切な人で、旅行業を営む資格等々いろいろ教えてくれた。資格は取るようにがんばるとしても、元手がかなりいるから、明日明後日でどうにかなるものではないとのことで、なんやかんやでその人の所属する旅行会社に登録して、一社員としてあっせん事業をさせてもらうことになった。そのあたりで薄々気づいたが、どうやらそうやって使えそうなやつをスカウトしている人だったわけだ。一社員と言っても、どちらかと言えば個人事業主の寄り集まりだから、それまでとやることは変わらず、ただ売り上げの一部をピンハネされるようになった。ま、お金が溜まったら独立して勝手気ままな旅行会社をやろう、と思い始めた。そういう人もいると言う。
 観光客を案内し終えて、フトーは道に落ちていた石ころを蹴って歩いた。何回かドリブルできたが、最後はあたりどころが悪くて溝に落ちてしまった。「ちぇーっ」とさほど悔しくもなかったが、悔しがっている言葉を出してみた。
 
 休日、フカミは相撲を観ながら額にできものがあるので、いじっていたら、血が出た。どうやら、ニキビを潰してしまった。
「痛そう」
 とキズパワーパッドを聡子が渡してくれたが、フカミはキズパワーパッドを使ったことがなかった。わざわざ説明書があったので読んだら、貼る前に手で包みあっためろと書いている。そんなことしないといけないんだと思い、
「なんか、貼る前にあっためるらしいよ」
 と聡子に言うと、
「そんなことしたことなかった。ほんまに?」
 なんて言う。説明書をよく読むと、そもそもニキビやそれをかきむしった傷には使うなとも書いてある。
「ニキビ潰したのには使ったらあかんねんて」
 とさらに聡子に話しかける。
「えー、そうなん。
 でも、傷の治り早いよー」
 と聡子は雑誌を読んでいる。
「うん。ま、貼ってみる」
 と言って貼ってみた。おでこがぷくっと白んだ。
 
 次の日、会社にも絆創膏を貼っつけていった。
 それを見て、
「どうしたんっすか?」
 と田中君が言う。
「ニキビ潰しちゃって」
 と言うと、
「若いっすねえ」
 と笑いながら言われた。
 フカミはなんだそれと思いながら、前髪を撫ででできる限り隠そうとした。