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いつも考えていること

フィールド・ノート(第8話)

 没入する感覚があって、人が通り過ぎると目の前のカチカチを押す、という流れに自分の能力が高まり、目と脳がセンサーとなり反応があれば手がカウントする機械になったような、自信みたいなものがみなぎってくる。見ているところと自分の存在以外は後景としてぼやけていて、あるようでないような感じだ。
 ダイキは交通量調査のアルバイトに従事していた。交差点の前でパイプ椅子に座り、カチカチを押していた。アルバイトをするのは、たぶん五、六年ぶりだ。交通量調査のアルバイトなんかじゃ、母親の言うこととは違うと分かっている。でも、こうやって「やっている」フリをして、母親の気を逸らし、自分の気を紛らわせている。
 みたいな雑念がふと入り込むと、さっきまで味わえていた没入する感覚に戻れない。
 日が翳って寒さを感じ始めた。ダイキのすぐわきにあるビルがすっぽり影になってダイキに覆い被さった。貧乏ゆすりして、カイロを揉んで、終わる時を待つけれど、待てば待つほど終わりが遠のいていく。
 
 桜が咲くや咲かないや、と考えるようになったから春だった。春は寒くて、鬱陶しいなあとフカミは思った。
 異動の内命が出る時期で、フカミには何の音沙汰もなかったが、四月からは部長と課長が変わることになった。係長と田中君は変わらない。実務メンバーは変わらないまま、上が変わる。面倒なパターンだ。
 
 係長が打ち合わせに出て席を空けたので、フカミはあからさまに気を抜いた。そんなフカミに気がついたのか、田中君がフカミに話しかけてきた。
「あの」
「どしたん」
 とフカミが
「この間の残業代、そんなに多くはなかったんですけど、明日の給料で入るんですよ」
「この間って何の話よ」
「あの、年明けにいろいろあった……」
「ああ、あれか。え、やっと?」
「あれ、一月末のことだったので、二月の給料に間に合わなくて、それで三月の明日に入るんです」
「そうなんや」
「ステーキ食いに行きましょう」
「ほんまに『いきなり! ステーキ』やん」
「そうですそうです」
「分かった。クリーニング出す直前にしたいから、金曜日にしよう」
「オッケーです」
 田中君は嬉しそうだったが、フカミは面倒だなあと思った。そのお金は子どものために使うべきでは、とも思ったが、田中君にそういうことを言っても仕方がない。田中君の細君は田中君のことをどう思っているのだろうか、ということにも興味が散ったが、知る由もない。聞く気も起きない。
 金曜日、田中君はヒレ三百グラムを、フカミはリブロース二百グラムを食った。
「美味いっす。一回行ってみたかったんですよね」
 と田中君は機嫌上々で、変な奴だと思いつつ、ステーキを食うと確かに機嫌上々にならざるを得ず、
「美味いな。ヤバい」
 と顔をほころばせてしまった。
 土曜日の朝、煙くさいスーツをクリーニングに出した。頼んでもいないのに、花粉ガード加工を施してくれた。
 
 聡子の妹は三月末に生まれたせいで、学校のある日に誕生日を迎えると、一人が「今日誕生日だよね、おめでとう」なんつって「え、そうなの? おめでとう!」とか連鎖し、即席でメッセージカードが作られたり、大切にしていたキャラクターものの消しゴムをもらったりすることになるのだけれど、学校のない日に誕生日がある人はそんなに祝ってもらえない。
 三月末のほかには七月末から八月の誕生日が夏休みに該当しちゃうが、夏休み期間は案外、反対にお誕生日パーティをしようなんて話が持ち上がって、学校でのささやかなお祝いよりも数倍にぎやかになることがある。
 年末年始に生まれた子なんかもあんまり祝われないんだけれども、あのあたりは全体におめでたいムードが漂っているから、いい(何がいいんだか分からないけど)。
 というわけで、年度が切り替わる三月末の誕生日は、学校もなく、お誕生日会を開くこともできず、おめでたさもない。最悪なタイミングだ、と小学生から中学生の頃の聡子の妹は主張してきた。今はもうそんなことは言わなくなったが、聡子は三月末になると必ずこれを思い出す。
 で、人事異動もなく、花粉症でもないフカミが、花粉症の聡子を慮る様子なく「桜を観に行こう」ばかり言うので、実家の近所の桜並木を見に行くついでに、実家に帰って妹の誕生日をお祝いすることにした。
 実家の近所の桜並木はかなり有名で、ガイドブックにも載るし、インターネットで「県名 桜」と打つとその地名がサジェストされる。
 そうやって検索に引っかかりやすくなったせいか、どんどん人が集まり始めて、年々大混雑、大騒動になっている、と母親が言う。商店街もショッピングモールもない住宅街としては、経済効果ゼロ、騒音とゴミをまき散らされるだけの、鬱陶しいイベントになっているらしいから可哀想だ。
 聡子の実家はその桜並木から十五分ほど歩いたところなので、何の被害も受けていないが、かつて一度だけ、聡子が大学一年生の時に、花見帰りと思われる男女を見かけたことがある。
 男性の方は、たぶん空き缶とかのゴミの入ったコンビニのビニール袋を手に持っていた。灰色のパーカーの上にデニムジャケット、チノパンという出で立ちを、聡子は大学構内で目にする男性の四割くらいと同じ格好だなと冷めた目で見た。
 女性は薄手のセーターにドット柄のフレアスカート、ピンクのトレンチコートを羽織っていたが寒いからストールをぐるぐるに巻いていた。この雰囲気もまた三千人くらい目にしてきた。
 聡子はバイトの帰りだったのでスウェットにジーパン、そしてどうせまだ寒いのだからとモッズコードを着ていたはずだ。ていうか、別にバイトだからとか関係なく、その頃は大体そういう体育会系の男子みたいな恰好をしていた。
 男女はつかず離れずの距離を保ち、照れながら親し気に「みっちー(クラスメート?)おもろすぎるよなー」「せやんなー」とか「あの授業やばいよなー」「ほんまなー」とか「一年生若くてビビるわー」「マジでやばいよねー」とか、くだらねー話がだらだら続いていたのを聡子はようく覚えている。
 聡子は心の中で「こんな住宅街を歩かずにさっさと三宮、いや新神戸の方に行って、どっかラブホ見つけて泊まれよ」と毒づきつつ面白がっていた。二人には端々から実家暮らしの雰囲気が漂っていて、どちらかが一人暮らししていたならすぐになだれ込むのに、という感じなのだった。
 そう、このあたりにはラブホテルが一つもない。市の条例と住民の反対が厳しく、まったくそういうものがなくて、聡子は大学に上がってもしばらくラブホテルを見たことがなかった。高校生の頃、国道沿いにあるキラキラした建物を目にして、母親に「あれって何なんやろ」と聞いて、ちゃんと答えてもらえなかったことがある。あれがラブホテルだったと知ったのは二十歳の頃で、思い出すと顔が熱くなる。
 なんにせよ花見の余韻でイチャイチャしやがる男女が、歩きまくってこの近所まで来たというのだから、あほらしい。滅多にない、花見の被害? である。
 しかし、フカミと付き合った初めての時、晩を食べ終えて、フカミが聡子をホテルに誘いたい素振りを出しつつ、切り出せずに十五分ほど繁華街を歩いたことを思い出せば、付き合い立てのカップルに良くあることなんだなとも思う。
 あんまり簡単に「ホテル行こか」と切り出されるのは、確かに嫌ですよね、うん。
 
 桜並木を歩きながら、フカミは大学生の頃付き合っていた彼女と行ったことを思い出した。聡子には「あー、大学生の頃行ったことあるわ」などとぼんやりしたことを言うだけだったが、頭の中でちょっと思い出したりした。
 といっても大したことは覚えてなくて、あの頃はずいぶんイキっていたので、知り合いに合わないかな、知り合いに彼女と桜を見に来ていることを自慢したいな、などとくだらないことを考えていたことを思い出す。なぜだか全然知り合いはおらず、微妙な知り合いに会って、自慢にもならず終わってしまった。
 その人とは一年くらい付き合った。自分を好いてくれたのに、イキっていたせいで、もっと可愛い子と付き合いたいと思って別れた。ひどいことだ。あの頃のイキりはどこに行ったのだろうと思うが、もしかすると自分では気づいていないだけで、まだイキっている自分が残っているかもしれないから気をつけたいね、などと適当に思い出としてまとめていたら、過去のことはどうでもよくなってきて、今、聡子と桜を見ることに集中していくのだった。
 
 他人の家は分からないところにある、と大きな道から三つも四つも小さな道を曲がる聡子の確かな足取りに着いて行くフカミは、今どこにいるのか分からなくなりながら思った。車が一台通れる道から、斜めに走る路地を歩くと、一軒家が右手に一つ、左手に二つあって、突き当りを左に曲がることはなんとなく記憶にあるが、しかし、左手にあった家は、玄関先にスコップや鍬、じょうろ、ホースがインテリアのように置かれていて、フカミの記憶では前までこんな家庭菜園に熱心な感じではなかったように思う。何回も来ている道なのでなんとなくは覚えているはずで、駅からなら一人で行くことができるはずだけど、今どこにいるのか、という全体的な感覚やこういう家々一軒の記憶がまったく欠如しているから、不安になる。
 自分の実家や今の家などは、たとえばわざと一本道を間違ったとしても、自分が地図上のどこにいるかだいたい分かっているから、すぐに復帰できるし、なんなら遠回りの別の道を編み出すこともできるし、ああ、あの家の裏側か、なんてこともすぐに分かる。
「この先をぐーっと真っ直ぐ行ったら、なっちゃんの家があって、小学校はその目の前にあるねん」
 と聡子が指した先にフカミは小学校の存在を描き出せない。
「そういう小学校の目の前に住んでる人っているよな」
なっちゃんは朝早くにもう教室にいて、水槽とか花瓶の水換えたりしてて偉かったな。
 中学と高校は十五分くらい歩かなあかんかって、なっちゃん、それが嫌やったらしくて、大学は神戸やのにわざわざ下宿して学校の前に住んでてん。
 今は一駅先にある信金に勤めてるんやけど、やっぱり目と鼻の先に暮らしてて、そうじゃないと落ち着かへんねんて」
「難儀やな。そんなに幼少期の頃の習慣が身に染みてしまった人もいるもんなんや」
「通勤時間短くしたい気持ちは分かるんやけどね」
 フカミは、通勤先と家が目と鼻の先なんて嫌だなあと思う。電車に乗ったり、駅から歩く時間が帰り道で、三十分くらいは欲しい。
 
 聡子が実家の扉をさっと開けたので、この家はやっぱり鍵をかけない、とフカミは思った。二人の家でも、聡子もたまに鍵を閉め忘れる。フカミがうるさく言うので、頻度は減ったが、それでもたまに閉めていない。
 フカミは、高校生くらいから自分の部屋の鍵も閉めていたし、フカミの父親も出かける時の鍵のチェックに異様に力を入れていたし、フカミの母親も割とうるさかったから、初めて聡子の実家に寄った時はたまたま閉め忘れたのだろうと自分を納得させたが、二回目以降も確実に鍵が開いていて、見間違えじゃないことがショックだった。
 ごくまれに鍵がかけられていたら「なんで鍵かかってるん」と聡子や妹さんからクレームが出るのだから、文化の違いを感じる。
 その日の晩ご飯は、すき焼きとお寿司とロールキャベツだった。
 ロールキャベツはトマトで煮込まれたもので、フカミの家はコンソメだけだったから、名前の同じ全く別のものを食べたようだった。おいしかったが、どう反応すればいいのか分からず、初めてコンビニのおでんを食べた時と同じような感じだと思った。
 聡子が懐かしいと顔をほころばせていた。妹さんは量が多いと呆れていた。油断するとお父さんにビールを注がれる。お父さんは下戸なので、飲まないから注ぎ返せない。お母さんはずっと動き回っている。
 自分だけ時間が積み重なっていないことを感じる。時間が積み重なっていないと、存在の重み、存在の価値が軽くて吹き飛ばされそうになる。床暖房の温かさだけが、自分とこの家を結び付けてくれているような感じさえする。
 
 その日の夜中にフトーから「ご無沙汰してました、帰りました。ちょっと遠くに行ってまして。飲みましょう。来週あたりどうですか?」というLINEが来ていた。フカミは朝起きてから気づいたが、しのとダイキが「いつでもどうぞ」と返していたので、フカミもすぐに「大丈夫です」と返信した。
 
 しのは子会社への出向を命じられた。四十代以上の子会社出向は片道切符のことも多いが、三十代までならまだそういう意味は含まれていないものの、自分だけの働き方改革が影響しちゃったかもという疑念は拭えない。二月中盤以降、振ってくる仕事が減っていることをそんなの気にしない、そんなの気にしないっと言い聞かせていたが、やっぱりか、という気持ち。勤務先は今より少し離れて、通勤時間が十五分くらい多くなる。港の近くの、割ときれいなオフィスだと聞く。
 しのの他には異動のなかった同期が、壮行会を開いてくれた。
 気心の知れた十五人の同期たちも、数人が転職して去り、三人の女性が産休、そして育休を取っていた。子どものいる男性の数人も参加できず、結果壮行会は、飲む場にいつもだいたいいる六人が集まった。
 他の五人は、しのが本社から出られたことを羨ましがった。
「この代は永遠に異動ないのかもと思ってた。しのは最初に出られたから、さっさと本社に戻って、一番乗りで係長やな」
 と経営企画部の安田に言われたが、しのは謙遜でも何でもなく「そんなことないよ。なかなか戻ってこられへんと思う。さらにどっか行かされるかもしれんし」と答えた。
 職場の女性の品評会が始まって、しのはぼやんと酒を飲んだ。日本酒二合を何度も頼み、酒に弱い奴が眠りだして解散となった。
 電車の中で手すりにもたれて、酔いを自覚する。日本酒の香りが喉をせり上がって鼻を衝く。吐き気がして、止まった駅のトイレに駆け込むが、まったく吐けなかった。
 
 不思議と二日酔いの全くなかった土曜の朝、改めてカナと異動のことを話していて、通勤や勤務時間のことをいくつか質問されたけど、今時点ではっきりしていることはそんなにない。
「出張が増えたりするかもやけど、何するかもはっきりしてないし分からんわ。
 昨日同期とも、どうなんやろうって話したけど、先輩らもてんでばらばらみたいで、どうなるか余計分からんくなった」
「配属されてからじゃないと分からんよね。しんどくないといいんやけど」
「うん。不安やけど、がんばるわ」
 しのはやっぱり、どこか内臓が重たく感じられて、変な二日酔いやなと思った。
「そういえば今度、フカミとダイキとフトーの四人で飲むねん。なんやかんや四人で飲むのは久々やから、楽しみやわ。
 あ、そうや。いっつもフカミと聡子さんと三人で飲む時、カナのことも話題になるねん。だから、今度フカミと聡子さんと飲む時、一緒に来えへん?」
 フカミはカロリーが欲しいと思ってチョコパイを食べながら言った。
「うーん」
 台所で何かを切っていたカナが、気の進まない返事をした。
「あ、いや、嫌やったら無理にとは言わんよ。ただ、二人ともカナのこと好きやから、会って話してみたら、盛り上がるかなあと」
 カナは包丁を置いて、ちょっと考えてから口を開いた。
「なんて言ったらいいか分からんけど、自分のことを普通と思ってくれる人と話したい。なんていうか、いつも話を聞くとフカミさんも聡子さんも、あんまり私のことを普通と思ってない感じがするから」
 しのはよく分からんなと思った。
「二人とも、カナのことキレイな人やって、素敵な人やって思ってるよ」
「それが、『普通じゃない』って思われてる感じやねん。
 私の家族とか、しのくんとか、ずっと前からの友達とか、私のこと見ていちいちキレイとか素敵とか言わんやん。むしろ、いろんな側面を知ってくれてるから、素敵じゃないって知ってるし。
 でも、初対面というか、あんまり付き合ってない人らは外見で、キレイとか素敵とか特別に思ってくるから、怖い。外見なんて、何にも表してないのに。損も得もしてないし、しようともしてないのに、得してると思われたり、損がないか探ってきたりする」
「あー」
 カナの目を見たら、いつものとおりのカナで、確かにしのはいちいち何も思っちゃいなかった。いつものカナが、そこにいる。