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いつも考えていること

フィールド・ノート(第6話)

 日曜日の十二時半頃、フカミと聡子は椅子S席西側六列目三十七番三十八番に座り、ゴーゴーイチの蓬莱の豚まんじゅうを食べていた。フカミは聡子に対して何度も、四横綱土俵入りが観られなかったこと、冥途の土産に観たいこと、観たからと言って大したことはないだろうことを話した。聡子は四回も土俵入り観られたら大変だねとか、すごいよねとか、かっこいいよねとか、適当な相槌を打ってくれた。
 相撲人気は、低迷しては復調しを繰り返す。この頃は連日満員御礼、時間帯の割には人がたくさんいた。特に入待ちの人混みはすでになかなかのもので、まだまだ寒さ残る中、十両力士をお出迎えする人がたくさんいるのには驚く。
 フカミが相撲を好きになったのは、低迷しては復調しの低迷の時期だったから、その頃の入り待ちはもう少し余裕のあるものだったし、この時間帯に席に座って幕下を見ている熱心党など、ごくごくわずかだった。
 人気が出ることは嬉しいけれど、チケットが取りにくくなって、勘弁してほしい。この日のチケットも、先行予約とかをいろいろなサイトで登録して、ようやく取った。インターネットでチケットを確保し、コンビニ等で発券するのがあまりにも当たり前になったことで、何につけてもチケットの争奪戦が発生して面倒なことこの上ない。小さな自分が、母親がピアノの上に置かれた電話でどこかにかけている姿を見ていたこと、それは松任谷由実のシャングリラのチケットを取っていたこと、を思い出す。
 
 力士の名を叫ぶ声が会場に響く。両人、仕切り線に手を下ろすと同時に動き出し、ゴツンと頭と頭が当たる音が鈍く鳴る。片方の圧力が優り、右下手を差し込むとそのまま寄り切りと相成った。数秒のことだったが、見ごたえのある立ち合いにぱらぱらぱらと拍手が送られる。
 
 聡子は特段に相撲好きでもなかったが、フカミにお付き合いしているうちに幕内力士の顔と名前が一致するようになっていたし、何人か好きな力士もできてしまった。
「あ、まずい」
 などと贔屓の力士が下手を取られると声を漏らすくらいには慣れた。
 
 遠くに見える土俵は、照らされてそこだけ浮かんでいるようだ。
 吊り屋根の内側にはたくさんの照明があって、それが土俵と力士と行司さんを浮かびあがらせている、ってNHKの中継で紹介されていたから知った。観客は土俵を取り囲み、力士を見つめる。
 地球が土俵のように、吊り屋根たる太陽に照らされて、観客が周囲を囲んでいる、なんて妄想をしてみて、一人一人の人生は相撲同様に一瞬なのでしょうね、なんてそれっぽいことを思う。こういうそれっぽいことを思うのはやっぱり楽しい。人に話してみたら、少し笑い話になったり、ちょっとロマンチストと思われたりする。
 
 聡子はそんなフカミの妄想を何個か聞いたことがあるから、フカミのことをかなりロマンチストだと思っている。唐突に宇宙とか、地球とか、人生とか、神様とかと普段の何気ないこととを結び付けがち。
 可愛らしいと思える。
 頭の中身を一回かき回してあげたい。もっと、たくさんのこととたくさんのことを結び付けられるように。
 
 ダイキはイヤフォンをし、四十二インチのテレビを使ってゲームをしていた。耳元をBGMや爆発音、警戒音が鳴り響いている。今、ダイキは戦場で一兵士として戦っている。という状況に気持ちは没頭しない。指先だけで、反射だけで、ゲームオーバーにならないように動かしているだけで、楽しいとか面白いとか、何の気持ちにもなってはいない。むしろ四十二インチの四十二という数字が、中学受験の番号と同じだとか、十の位と一の位を足し算したら六だとか、掛け算したら八だとか、そんなことを考えている。
 ゲームは好きだが、いつからか考えずに、ゲームをするという行為にすっと入り込めるようになって、ゲームの世界に入り込めなくなってしまった気がする。これはどうしたらいいんだろうとか、深く、強く思わない。まあ、そんなこともあるか、と場当たり的に感じながら、あまりにも面倒だとインターネットを検索して答えを探してしまったりする。
 小学四年生の時、牧場を経営するゲームにはまった時のことを思い出すと懐かしく、あの気持ちをもう一度ほしく思う。自分は牧場主で、本当に収穫して、本当に動物の世話をしていた日々。明日は何をしようと思いながらベッドに入っているのはゲームの中のことで、現実の自分はいつまでも起きているのに、実際に一度眠ったような気持になって、何年もの時をそこで過ごせた。幸せ、か。
 気配を感じて振り返ると、寝間着にフリースを羽織った母親がいた。イヤフォンのせいでノックの音が聞えなかった。
「どしたん?」
 とダイキが聞いたら、
「音がしたから、まだ起きてるんかなって見に来てん」
 と訳の分からないことを言う。
「うるさかったんやったらごめん、もうやめるわ」
 とダイキはさっとコントローラーを操作し、スリープモードにした。
「ううん、音、そんな響いてるわけちゃうけど。
 ただ……。それ、いつまでするん?」
 母親の顔が鈍く照らされていた。ダイキは、あ、俺、この人がいつまでも生きてると思ってる、と思った。いつか死ぬなんて、いなくなるなんて想像したこともなかった、と切実さなく思った。
「分からん。眠くなるまで」
 ダイキは一時停止された画面と母親を交互に見て、ぶっきらぼうに答えた。
「ダイちゃん、なんかもっといろいろやりたいんちゃう?」
 すかさず、母親が意を決したように言ったので、遂にその時が来たのか、とダイキは思った。その時にはきちんと向き合おうといつも思っていたのに、ふてくされた気持ちが広がっていた。
「いや。そんなことない」
「そんなことないことないよ。大ちゃん、今から何でもできるよ」
 母親は穏やかな口調でダイキの言ったことを否定し、ダイキを肯定した。何でもできる? 何でもできるは何にもできない。マザー・グースーにでも書かれていそうなことが頭に浮かんだが、根拠も典拠もなかった。
「分かった。ちょっと考えさせて」
 ふてくされていてはだめだと思って、前向きな回答をしてみたら、
「今まで考えてなかったん?」
 と素朴な答えがすぐに打ち返された。ダイキはさっと頭に血が上って、怒鳴ろうかと思ったが、抑えた。
「ごめん」
 とダイキは母親の足もとを見ながら言った。裸足で、寒そうだ。母親はついっと部屋を出て行った。
 しばらく宙を見ていた。何にも考えないようにした。
 それからスマホを操作して、エロ動画を見始めた。エロ動画を見ていると落ち着く気がした。
 
 しのはくるりを聴きながら、春を感じていた。なんだか分からんが、今俺は生きてるなあと思えられたので、それだけで今日一日がとてもいい、などと思ったりした。
「気持ちいい日やなあ」
 とカナに声をかけると、カナは「ほんまになあ」と洗濯物を干し終えた。
「買い物行きたい」
「うん。どこ行こか」
「どこってのもないけど……、とりあえず三宮」
「帰りに、洋食の藤寄りたいなあ。久々に」
「いいやん、それ。もう、絶対やで」
 寒いかもしれないけれど、しのはあえて少し薄着で出かけることにした。カナは化粧をしている。出かけるのは、きっとあと三十分後くらいだ。夫人のピアノを聴くマネのように、ソファにどっさりともたれた。
 
 何も買う気はなかったのに、気がつけば両手に紙袋。しのは春らしいパーカーを買ってしまったし、カナは靴とワンピースを買った。
 眺めて、試着して、悩んで、眺めて、店に戻り、また試着してみたり、給料や貯金額を頭の中に浮かべたり、頭をふってそれらを忘れてみたり、ほしいかどうか胸に尋ね直したり、最近着ていない服をメルカリで売ることを思って、それを割引額として計上してみたり。
 ぐっすり疲れてしまった。足がだるい。お腹が減った。
 起きている時間、着実に疲労が溜まっていくのは不快だが、いつの頃からかもう絶対にそうなのだと分かった。一日に動ける時間が縮まっていくのが、メーターが短くなっていくのが、しっかり分かる。
「なんでフルタイム労働って八時間なんやろ」
 頼んだヒレカツを待ちながら、しのはカナに言った。
「一日の三分の一的な?」
「あー、三分の一は労働、三分の一は睡眠、三分の一は家事とか趣味とかって、なんか聞いたことあったわ。
 にしても、八時間も働くのって長くない?」
 カナは「確かに長いなあ」と頬杖をついた。油裂音が聞こえる。
「今日の買い物も、四時間くらい歩き回ってこのお疲れっぷりでさ。
 楽しかったけど、人間が元気よく動き回れるのって四時間から六時間くらいなんじゃなかろうか、って」
「四時間で今のお給料だったら、超嬉しい」
「今の二倍人を雇わないといけないから、働く側からしたら失業してる暇もないよね」
「クビになっても絶対どこか働き口があるやん。ええやん。しよしよ」
「ね、しよしよ」
 八時に会社に行って、十二時に帰る。その帰り道はきっと、木々がきらきら輝いている。保育園から子どものはしゃぐ声が聞こえて、ぶらんこや鉄棒のある公園に風が吹いている。太陽が怠そうに下り坂に入る。晩ご飯にシチューや豚の角煮を作ったりする。
 あるいは、十二時から働いて四時に帰る日もある。カラスの鳴いている夕暮れ。スーパーに寄って帰る。どこかの家で魚を焼いているにおいがして。帰り道の小学生とすれ違う。ランドセルがちゃんと閉まってなくてぱたぱたと音が鳴る。部活が始まって、気合の入った声が校庭から遠くまで聞こえてくる。コーチが「たらたらすんな!」と怒鳴る声なんかも聞こえる。
「いっぺんさ、東京に出張に行った時に、夕方に住宅街を歩いてたら、学校があってさ。校庭を横切った時に『たらたらしてたらダメだよ!』って、たぶん叱っている声なんやけど、めっちゃ優しい声で叱っててん。
 あれ、面白かったなあ。『ダメだよ!』って人生で初めて聞いた言葉やったから、感動した」
 としのは自分の考えていたことの延長線上のエピソードをなんとなく話した。
「自分らの時の部活の先生って、めっちゃ怖かったもんね。『なにとろとろしとんねん!』『声出せ、声!』みたいな」
「そうそう。『声出さんかい!』やもんね。
 東京は『声出していこうよ!』とかやろ。逆に出されへん」
 ヒレカツをしゃくしゃくと食べて、きっと今晩、しのは胃もたれする。おいしいのに、胃もたれする。おいしいから、胃もたれする。
 
 金曜の夜九時にしのからLINEが来た。
「さて、問題です。以下はある小説の書き出しです。作品名と作者名を答えよ(調べるの禁止)。
『隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。』」
 ちょうど見ていたテレビ番組の問題が「夢よりもはかなき世の中をなげきつつ明かし暮らすほどに、はかなくて四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく」の作品名および作者名は何かというものだったので、どうやらこれを見ていたらしい。
 
 しのは、カナが作ってくれたシチューを食べていた。
 しのが一人暮らししていた家からずっと使っている小さなテレビを観ていると、この書き出しの作品名と作者名を答えよ、という問題が出た。
「フカミがこういうの得意やってん」
 としのはソファで横に腰かけるカナに言ったら、
「へー、そうなんや。でも、これなんなん。全然知らんわ」
「うん、全然知らん。『月日は百代の過客にして』しか知らん」
「いやいや、『つれづれなるままに』があるやん」
「やったら『祇園精舎の鐘の音』も知ってる」
「『祇園精舎の鐘の声』ちゃう?」
「ま、一緒やろ」
 などと話していたら正解は『和泉式部日記』だと言う。二人揃って「知らんがな」と言い「よっしゃ、フカミになんか問題出してみよ」とLINEした次第。
 
「なんやっけ、なんか聞いたことある」
 とフカミは聡子に読み上げてみた。ちなみに最初の「隴西」は読めなかったので、素知らぬ顔で「李徴」以降から読んだ。これはさすがに「りちょう」でしょうと思ったので。
「えーと、偉そうなやつってことやろ。偉そうなやつ、偉そうなやつ、誰かおったけどなあ」
「知り合い?」
 聡子は思い当たる節なしという感じ。
「あ、虎になるやつ。ほら、教科書で読んだやん。虎になる話、詩人目指してたら虎になって、友達に再会する話」
「うーん、分からん」
 というので、フカミはしのに「虎になる話やろ、中島なんやら的な。出てこない!」と送った。
 
 ブラックホールの半径を求めよ、という意味不明な問題が出題されていた。しのもカナも「そんなこと言われても分からん」と計算する人らを眺めるばかりで退屈だった。
「ワイプに映ってる芸能人らも、暇やろね」
 としのが言うと、
「『すごーい』って言わなきゃいけないって分かりながら『すごーい』って言うのはしんどいよね」
 とカナが言う。
 しのは「それは俺の仕事のことを言っているのか」と思いカナを見たが、特にそういう皮肉や慰めを込めた言葉ではないようだった。
幇間太鼓持ち、いわゆる男芸者というやつでして、これはなかなかむつかしいしごとだったそうでございますな」
 としのは落語の口調で適当に言ってみたが、カナは何を言っているのか分からなかったようで、スルーした。フカミから返信があった。
「『虎になる話やろ、中島なんやら的な。出てこない!』やって」
「惜しいやん、よう覚えてるねえ」
「すごいやん」
 で、しのは
中島敦の『山月記』でした!
 あらすじ思い出せるだけでもすごいわ。
 いきなりクイズでした。お付き合いありがとうございました~」
 と適当な返信をしたら、すぐに既読。
 
 フカミは返信を見て、「あー」と脱力した声を出した。
「どないしたん?」
「『山月記』やって。言われたら思い出したわ。残念」
「言われても思い出さないさっちゃんでした」
 と言うと聡子は、「歯磨きしよー」と歌うように言い、洗面所へ行った。
 
 クイズをした頃、ようやく梅を観に行ったが、見ごろは過ぎてしまっていた。でも、今年も梅を見られてよかったな、と毎年のことを思った。
 
 ダッフルコートに身を包み、もうこのダッフルコートにも飽きた、あったかくなってきたしそろそろ脱がなあかんと思いながら、交差点でなかなか変わらない信号を待っていると、後ろから肩を叩かれ、フカミは過剰に驚いてしまった。
 肩を叩いたのは同期の大谷ちゃんだった。
「あ、ごめん。驚かしちゃった」
 と丸っとした顔で丸く謝った。
「や、なんかごめん。
 めっちゃビクッて反応してもうた」
 とフカミも詫びた。
 大谷ちゃんは入社当初入れられた独身寮にずっと住んでいる。フカミはもちろん、その他何人かいた同期の半分は結婚し、残りの半分は嫌気がさして引っ越し、残りの半分は転職等して、あの独身寮に残っているのは大谷ちゃんだけだった。一つ上の先輩も、一つ下の後輩も同じ独身寮に詰められたが同様に大抵のものは出て行ったと聞くから、大谷ちゃんのお尻の重さは異様である。
「社宅は相変わらず?」
「うん。先週の土日も引っ越し業者が来てたから、また誰か出て行ったんやと思うけど、もう、誰がおるんか知らんしなあ」
「今度懐かしがりに遊びに行こかな」
「おいで、おいで。あの妙に美味いイタリアン、食べに行こうや」
 大谷ちゃんは何も苦にしないような、朗らかさで言う。
 もう信号が変わったかな、と信号に目を向けなおしたが、メーターは半分も進んでおらず、そのくせ車はまばらにしか通らなかった。
 大谷ちゃんを振り返ると、何も苦にしないような福々しい丸顔で突っ立っていた。