Nu blog

いつも考えていること

青森の思い出

七月の四連休、青森を訪れた。

六月中旬くらいのお出かけ解禁感のある頃に予約していたし、あんな直前にキャンセル料がどうのこうのと騒がれても、困る。

ゴートゥーがどうとかこうとか言う前に「出かけたいし出かけよう」と思っていたので、世上や賢明な人ならこうすべしとかいった規範はもう無視することにした。

などとつらつら言い訳を書くのもバカらしい。まあ、とにかく青森へ行った。

六、七年ぶりではないかと思う。前は十和田市現代美術館青森県立美術館に行っただけで、奥入瀬にも行きたかったなあと思っていたので、今回は奥入瀬へ行った。

下流から上流へ、三時間ほど歩いた。私は山登りの時とほぼ同じ格好をしたのだが、周囲は白いスニーカーだったり、半袖半ズボンだったりしたのでハラハラした。中にはヒールやロングスカートを履いてる女性もいて驚いた。いくら奥入瀬が車でアクセスしやすいとは言え、かなりの大自然なので、それなりの用意をされたし。

水の流れが、時に激しく、時に緩やかに、まとまったり、ちぎれたり、ささやいたり、うなったりする。水の流れで地が削れ、木が倒れていたりする。この大木の倒れる音を誰か聞いたのか。誰も聞かなかったとすれば、音は鳴らなかったのだろうか。しかし、私は今その時を想像し、激しい音を聞いている…。

などとちょっと哲学めいたことを考えてみる。

滝から放たれる霧が気持ちいい。これで奥入瀬渓流に美しい苔が生えたという。様々な形をした苔が石や木にまとわりついている。愛らしく戯れているようにも見える。その字の通り木や草花の土台になっているものもある。ぴょんと伸びた草木はまるで自分一人で育ったかのような表情をしているが、苔のおかげでそこには生えていることを知らない。

子供の名前は苔にしようかと思うが、「こけにする」というような慣用句もあるのでよしておくべきか。漢字が違うし、子供の予定はないけれど。

そのようにして奥入瀬を堪能し、海のような十和田湖を臨んで星野リゾートに泊まった。岡本太郎による「森の神話」という暖炉がある。奇怪な妖精らの笑みが可愛らしい。これは苔のことかもしれぬ、などと勝手に思う。

翌日も奥入瀬渓流を歩こうかと思ったが思いの外疲れたし、存分に堪能したので、バスに乗って十和田市現代美術館へ行った。「目」の作品があるというのも決め手だった。

目は昨年の千葉市美術館での展覧会が話題となったが、ここでも秀逸な一作品を町中に出現させていた。

いたって平凡な民家をえぐるようにホワイトキューブを埋め込む、というどこか暴力的な、あるいはあくまでもグロテスクな作品だった。その違和感は美術、美術館というパッケージそのものへの批評性を帯びて余りあった。あなたたちが崇め奉る美術は、このような不自然さでもって作られた「神話」なのだと、鑑賞者の無邪気な「草間彌生とか、お花のお馬とか、飾ってあって、町が活気付くね!」みたいな気持ちに本当にそうなのか?と疑問を提示して突きつけていた。

久々に見た「FAT HOUSE」がよかった。これはアートなのか、太った家なんてあるのか、太っている人もアートなのか、といった家の独り言が可愛い。

三日目、前回見向きもしなかった三内丸山遺跡も訪れた。学芸員の勉強を始めたので、タブレットの貸出みたいなちょっとしたことが興味深く感じられた。勾玉を作ったが、あんまり綺麗にできなかった。

青森県立美術館では、斎藤義重高松次郎の作品が紹介されていた。高松次郎の「影」という作品があって、モノをかける「フック」がキャンバスにくっつけられていて、その影が描かれた作品なのだ。つまり、偽物の影である。裂け目、合間、そんなことを感じさせるユーモラスで、かつ真面目な作品だと思った。

前回も泊まった青森屋にも泊まった。以前来た時よりも、より祭り感が強まっているような気がした。そもそも、ねぶた・ねぷたというのが過剰性の塊なので、輪をかけて過剰になってお腹いっぱいなんである。

ハレとケという概念があるけれど、どうもハレが過剰になっている感がある。星野リゾートの非日常演出はディズニーランドに通ずるものがあって、あからさまに非日常なのである。ブルーインパルスを飛ばすなんて政策が通用しちゃうのもハレの過剰な拡大だったのだろう。非日常があってはならないとは言わないが、日常と地続きの穏やかさがどこかに潜んでいてほしい。完全虚構は悲しい。そんな気持ちになった。

四日間、不思議なことにほとんど雨に降られなかった。