Nu blog

いつも考えていること

フィールド・ノート(第3話)

「明日の午後から大雪となるでしょう」
 と天気予報士氏が様々な注意喚起を述べていたら、本当に午後から雪が降りすさみ、当たり一面真っ白になった。
 満員混雑の電車をようやく通り抜けて家路へ歩いていると、子どもや犬がはしゃいでいた。なるべく誰も踏んでいない場所を踏もうと、子どもが右へ左へ飛ぶ。犬はずっと下を向いていて、鼻先で雪を感じると、冷たさに鼻を引っ込める。雪の感触を確かめるようにゆっくりと足を踏み出す。しばらくするとまた雪に鼻をつけて、引っ込める。そんなことを繰り返していた。
 木々に積もった雪を見て、フカミは円山応挙の『雪松図屏風』を思い出した。
「家に欲しいなあ」
 と小さな声でひとり言を言った。円山応挙の絵が家にあったら人生が豊かになるのでは、と思った。ちゃんと手入れできないな、とも思った。
 
 しのの会社は雪の影響で配送が遅れ、対処しなくちゃならなかった。
 関係各所に電話をかけ、ドライバーに無理なことはさせられない、物が届かないと仕事に取り掛かれない、という方々の文句をひとつひとつ説得して回った。
 唯一の救いは、部長も課長も取引先のえらいさんも早く帰りたいからと接待がキャンセルになったことだが、あまりにもちっぽけなことである。
「あー、もうダメだよ。どの駅も入場規制だって。今帰ろうが、夜帰ろうが、一緒なんじゃない?」
 方々とのケンカが一通り終わって、先輩がスマホ片手に伸びをする。
「ま、電話番してますんで、全然」
 しのが応えると、先輩は「やね。俺も付き合うわ。もう一山、ありそうな気がするし」と地面を蹴って、椅子を一周させた。先輩の向こうにがらんとしたオフィスが広がっていた。もうみんな、帰ってしまったのだ。
 
 フトーの居酒屋は避難客でいっぱいになってしまった。
「熱燗!」
 と騒ぐおじさんらのせいで、日本酒の徳利が足らなくなって、慌てて飲み終えた徳利を回収しては洗いたてで温める。
 そんなに酔っぱらってしまったら、足下が危なくて無事に帰られないんじゃないかと心配になるが、今年に入って一番の賑わいに気持ちが高揚する。
「おーい!」
「はい!」
 お客さんからの呼び声で、考えていたことは一瞬で消えてとにかく駆けてゆく。
 
 窓が白く曇って外が見えなくなった家の中で、ダイキはソファに腰かけてじっとしていた。
 テレビはNHKをつけていて、相撲の取組が進んでいく中、画面の上部と左端に大雪情報が流れ、電車の遅延やら交通渋滞、怪我人の情報なんかが伝えられていた。ダイキは相撲中継も、大雪情報もどちらも大して興味なく、ただソファに腰かけているだけ。
 いつもより早い時間に母親が雪にまみれて帰宅した。
「寒い、寒い」
 とダウンジャケットをタオルで拭うので、ダイキは玄関を振り返った。
「おつかれさま」
「すごい雪よ、ほんまに。積もってしまうから、ちょっと雪掻きしてくるわ」
 と拭ったばかりのダウンジャケットをまた羽織って、ゴム長靴に履き替えて出た。
 誰かが誰かに負けたか勝ったかして、国技館が沸いているようだが、ダイキには何がどうしたのか分からなかった。
 
 風呂上り、ベランダに出て外を見やればまだ雪は降っていた。いつもの景色が真っ白で、電灯に照らされた白い地面はスポットライトに照らされた舞台のようだった。
 聡子とフカミは「きれいだね」と言い合ったが、ちょっとすると寒くなったので先を争って炬燵に戻った。
「あー、そっちの部屋電気消してないー」
「えー、後でええやん」
「せやね、後でええよね」
「あかんー、消してきてー!」
 と騒ぐ二人。結局、じゃんけんをしてフカミが勝ったが、聡子があまりにも駄々をこねたので、フカミが消しに立ち上がった。
 
 しのは会社の椅子にもたれ、スマートフォンを眺めていた。先輩は机に突っ伏して眠ってしまった。
 カナに「今日は会社に止まります。カナは大丈夫ですか?」と送り、その返信が「おつかれさま、大変やね。ちょっとでも横になって寝てくださいね。私は早めに仕事を切り上げることになったので、十五時には家に帰れました」とあって、それからふと過去のやり取りを見直し始めてしまったのだ。
「遅くなります、先に寝ててね」
「明日も出勤しないといけなくなりました……」
「急遽出張が入りました」
 しのからの業務連絡メールが続く。きっと五年前くらいにさかのぼれば、付き合っていた頃のやり取りが出てくるはずだが、そこまでさかのぼることは難しい。明日は何時にどこ集合とか、今度はどこそこに行きたいなとか、そういうことを交わしていたはずで、見返したいけれど。
 電話の音がけたたましく鳴り響いて、しのはさっと受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。住本商事……、あ、おつかれさまです。いや、もう帰れませんし、皆さんに動いてもらってるのに、こっちが帰ってもうたら、そんなん……。
 や、もちろん、みなさんも無理したらあきませんけど……。
 ちょっとそうですね、明日の状況見ながらですかね。ただ、まったくどうにもならんというのは避けたいんで。
 ええ、ええ、ええ。いや、分かってます。もう、頭上がりませんよ。こっちはお願いするばっかりで。
 ええ、ええ、ええ。そうですね、あちらさんにはこちらから連絡して、ええ、ええ、おきますんで。とりあえず、今日のところは。
 そうですよね。はい、はい、はい。ありがとうございます。
 よろしくお……、はい、失礼しますー」
「寝てた、ごめん。仮眠室行くから、二時間後に交代しよ」
 先輩は電話の途中から起きていて、そう言うと仮眠室に行くために立ち上がった。
「もう、あとはあっちに電話して、一旦終わりかね。むしろ明日五時半くらいから動き出した方がいいよね」
 と半分しか空いていない目で言う。
「そうですね。とりあえずいったん終わりで、明日の朝からまたスタートです。
 部長らが来るまでに形つけな怒られるんで、明日の朝はちょっと怖いですね」
「確かに。ま、とりあえず半分寝ながらでいいから電話番頼む。三時半くらいに戻るから、そっから二時間仮眠室で寝ていいから」
 と言って、のそのそ歩いて行った。
 椅子に深くもたれて、息を大きく吐く。机に放り投げたスマホの画面を見ると、手が当たったのか地図が開いており、現在地が「自宅」と表示されていた。
「勝手に自宅にすんなよ……」
 と笑いかけて、家にいるよりここにいる時間が長いからアプリが勘違いしたことに気づいた。
「あほらし」
 と腹の上で手を組み、机に足を乗せてみた。
 そのかっこいい姿勢はすぐにしんどくなってしまった。他にもいろいろな姿勢を試してごそごそ動いたが、良い姿勢は見つからなかった。
 
 夜中の道をフトーは慎重に歩いた。いつもなら十五分で帰れる道を三十分かけて帰る。でも、なんだか楽しい。
 真っ暗な道を、積もった雪が照らしている。ぽろぽろと降る雪が、暗闇に白い線を引く。どこか知らないところに来てしまったみたいだ。
 歩くたびにシャクシャク音が鳴る。
 息が白い。
 フトーはとにかく楽しくて、ニヤニヤを隠せないまま歩いた。
 
 夜中になってもダイキはテレビを前に座っていた。そういう地獄があるのかな、と思うくらいずっと同じ姿勢のまま、日をまたいでしまった。両親は雪掻きをいったん終えて、風呂に入り、眠った。
 時折強い風が吹いて窓ガラスがぱたぱたぱたと音を立てる。ダイキはうとうとし始めた、姿勢はそのままで。そういう地獄があるのかな、と思うくらいずっとそのままで。
 
 七時半に起きて、腕立て、腹筋、スクワット等筋トレを汗だくになるほどやっつける。さっとシャワーを浴びて、朝ごはんを食べるとハローワークに行き、やりたいと思える仕事がないかチェックして(もちろんないのだけれど、万が一に期待して)、それから図書館で様々なハウツー本を片端から読み漁る。昨日は降雪に気後れしてできなかったいつものことを、今日はいつものとおりにやっていった。雲一つない晴れだった。空気がいつもにまして冷たかった。道に積もった雪が、空気を冷やしているのだろうと思った。おじいさん、おばあさんが積もった雪を道の端に寄せようと働いていた。
 図書館はいつもより空いていた。本棚から本を集めて、隣に誰も座っていないところに座った。
 痩せ方、モテ方、出世の仕方、金の貯め方、モノの捨て方、子どもの育て方、親との付き合い方、家の買い方、株の買い方、税金の払い方、死に方、生き方。とにかく字が大きくて、重要(?)なところは朱書き、太字になっているが、身になることは一つもない。時折、主張にまつわる著者の体験談がつづられるが、大抵文末に「(笑)」が入っていて、講演会であればここでどっかんどっかん笑いが起きるのかと思うと、それはそれは笑える状況ですね、とダイキは唇の端を吊り上げて笑う。
 どんなハウツー本も一冊あたり十五分あれば読めてしまう。専門的なことは読み飛ばしてしまうし、そもそも大して興味がないので、あまり深く考えない。けれど、一日に何冊読もうとハウツー本はなくならない。本棚に行けばハウツー本がある、ある、ある。こんな本に千五百円かけている人がいるのかと思うと、お金持ちってのはたくさんいるんだな、とダイキは感心する。あるいはこの図書館で何百冊のハウツー本を読んだのだから、いくら浮いたのだろうかとも思う。
 飽きたら家に帰って、飯を食って眠る。
 ダイキの父親は仕事から帰ってきたら、スポーツだけを配信するインターネットテレビで野球かアメフトかボクシングを見続ける。土日も同様だ。贔屓もこだわりもなく、ただ見ている。いいプレーに声を上げることもない。もしかすると、どういうプレーがいいプレーか分かっていないのかもしれない。場内の歓声やため息が聞こえても、父親は固まったままで、居間の空気は微動だにしない。
 母親はスーパーのレジ打ち一筋、もう二十年だ。同じパートを二十年続けていることよりも、そのスーパーが二十年続いていることの方がすごい、とは父親の談だが、ダイキも確かにそう思う。そこ以外のスーパーは二十年の間に頻繁に入れ替わり立ち替わっているのだから。
 母親は料理上手だが、父親の帰宅は遅いので、各自ばらばらのタイミングで食べる。もう十年以上、食卓に三人がそろったことはない。年末年始でさえ、両親は双方の実家に変わりばんこに帰省しているが、ダイキだけ家にこもってしまうから、やっぱりそろわないのである。
 一度も、この状況をちゃんと怒られてはいない。両親ともに「どないすんのか知らんけど、まあ今は余裕もあるし、別にええよ」と言う。ダイキとしては、怒られたって困るので、怒られないのはありがたいが、いつか突然「別にええ」じゃなくなったらどうしようと、それは不安なことだった。
 昼間見たハローワークの求人を思い出そうとしても、一つの職業も思い出せない。やりたいことは一つもない。やりたくないことも特にない。生きている意味にも興味はないし、知りたいことが本当にない。あまりに眠れない夜はインターネットの百科事典を、リンクからリンクへと飛んで、全然知らないミュージシャンとかよく分からない地質時代とかどっかの国の言語の特徴とかを読むが、それらも読んだ傍からすべて忘れてしまう。あるいは、青空文庫海野十三吉川英治を読み漁ってみるけど、これもまたすべて頭から抜け落ちて、脳みそがぱさぱさする。子どもの頃読んだ江戸川乱歩の方なら思い出せる。床の間の脇の書院窓がすっと開いて、黒い手がニューッと突き出される情景とか……。
 
 実家までは電車で三十分プラス駅から家まで十五分、計一時間かからずに行けるけど、帰るのは二、三か月に一度なのは、別に両親との関係が悪いわけではなく、昔からずっとそんな感じ、ちょっと遠いまたはそんなに近くもない関係だからだ、と聡子は車窓の景色を眺める。山が続く。一軒家が建ち並ぶ。あ、なんとなくだけど、このあたりのお家、建て直されてるよね、なんだかキレイというか、新しい感じ。屋根に太陽光発電のがついてるし。そういえば、電車もキレイというか新しくなった。液晶がついて、山口に行こうとか京都に行こうとか、宣伝が流れている。
 実家もキレイに、というか新しくなった。古くなったので建て直したのだ。床とか壁とか、当然ことだけれど、ピカピカに新しくなった。でも、「キレイ!」って楽しくなれる要素はない。なんだろう。感動しないっていうか、うわ、ダサいな、それ。
 十三歳の時にららぽーとができた時はなぜか「キレイ!」って驚いたりした。何の用事もないのに何周もしたり、友人らは皆そこらへんでアルバイトしていた。デートも上の映画館で。スタバでフラペチーノ飲んで。福袋買って、セールに飛び込んで、思い切って買った服を大切にし過ぎて全然着なかったりして。
 今行ったら、ただ店がいっぱい入っている、中高生の暇つぶしの箱にしか思えない……、あ、中高生の時に自分が暇つぶしに使っていたんだ……。
 この電車での三十分を、大学に通うため、そして就職してからは会社に通うため、結婚するまで、ずっと通った。「つらいこともあるけどがんばった先に楽しみがあるんだよ」っていうような歌を何度もリピートしていた。それを聴かなきゃ途中の駅で降りて反対方面の電車に乗って須磨で泳いでしまうかもしれなくて。
 何にも楽しくなかったから、大学も会社も、終業後すぐに飛び出した。ああ、そういえばその頃は家近くのららぽーとじゃなくて、わざわざ三宮駅で降りて、ミントという商業施設によく行った。ららぽーとにあるブランドよりもお高いブランドを見て回る。買えるものはほとんどないし、セールになっても高いし、福袋の値段もおかしいし、本当にまったく買わなかったのだけれど。
 あそこはその時でもう十年以上経っていたから、床も壁も新しくなかったけど、その時は「キレイ!」だと思って、毎日毎日ちょろちょろ歩いて楽しかった。
 今はそんな風に行きたいところがなくて、だいぶ長い間「キレイ!」とか思っていないヤバい。あ、でも自分でアレンジしたお家は大好きだ。ごちゃごちゃとたくさんのモノであふれかえってるけど、自分の大事なものはすべてすぐに手に取れる。体を預けられるソファもある。家で何も気にせずだらだらしているのが一番楽しい。適当な掃除しかしていないけど、自分にとって快適な「キレイ!」さがある。
 
 駅前まで迎えてくれたお父さんの車に乗って、建て直されて見慣れない実家に戻る。もう一週間近く経つのに、まだ雪は解け切らずに道の端に積もっている。
 数年前の自分と同じく実家から仕事に行く日々を過ごす妹の紗子が、今日は休日だからとソファに伸びていた。
「あれ、フカミさんは?」
「今日は一人、なんとなく」
「嫌がられたん?」
「フカミくんは別に嫌とか言わへんよ。なんとなく、一人で帰ってきただけ。それに私は明日有給休暇やから、この家に泊まれるけど、フカミくんは仕事やし」
「ふーん」
 と姉妹で会話を交わしていると、
「すき焼きしようと思てんねん」
 と台所に立ったお母さんが言うから、
「いつもの晩ご飯でええのに」
 とあきれた声を出してしまう。いつも帰ってくると寿司、すき焼き、蟹、刺身と妙にごちそうで、聡子としてはロールキャベツとか餃子とかそういうのが食べたい。
「え、すき焼きあかん?」
 聡子がコートをかけたり、手洗いうがいをしてリビングに戻ると、糸こんにゃくやお麩や春菊(菊菜)を用意しながら母親が聞いてきたので、
「いや、あかんことないっていうか、もう準備しちゃってるやん」
「あ、うん、そやけど」
「すき焼き、いいねんよ。でも、お母さんのいつもの料理食べたいな、ってこと」
「ああ、はいはい。いつものねえ。なんやろね」
「絶対、次もごちそうだよー。私は嬉しいけどね」
 紗子がソファから体を起こし、うっしっしと笑う。
 リビングの扉が開いて、
「はい、お寿司」
 と父親が袋を差し出す。
「合わせ技って……。もう三十歳の娘がそんな食べられへんよ!」
 紗子はもう笑っていないで、
「お父さんお母さんももうそんな食べへんのに、何貫あるん、これ。半端ないなあ。めっちゃおもろいわ」
「ま、残ったらまた明日、紗子食べて」
「はーい、こちら残飯処理班でーす。今日はすき焼きメインでいくから、お寿司はお姉ちゃん、できるかぎり食べてよ」
「はいはい。ほんま、私らも三十歳で、お父さんら七十歳やねんから、合計ここ二百歳やで。食べる量考えてよ」
「いやいや、ええと」
 と父親が指を折り、
「まだ百八十から九十くらいちゃうか」
「正確なところはええねん」
「少なくとも私はまだ三十路じゃありませーん」
「誤差の範囲や」
 聡子は好きなネタをさっさと取りながら、以前はこんなに会話はなかったな、と思う。
 きっと聡子が帰れば、紗子と両親の間はこんな会話はないに違いない。静かな家だった。テレビの音だけが響くような。娘二人はさっさと二階に上がってしまうような。でも、父親も母親も特段文句を言うでもなく、放っておいてくれた。フカミのことも「あっそ」って感じだったし。フカミが一緒に帰ってきても今と同じ感じだし。いい両親だと思う。好きだな、と思う。
 
 フカミはスマートフォンでエロ動画を買うか悩んでいた。何度もサンプル動画を見直して、全編見たい気もするし、もはやこのサンプル動画で満足できる気もした。いろいろと終わってから、こんな不毛な時間ないよな、と思った。
 
 その朝、しのは須磨にいて、海を見ていた。スーツにコート、革靴、真っ黒な姿は浜辺に似つかわしくなかった。映画学校の生徒が作った映画のワンシーンみたいで、ダサかった。
 海に来るはずじゃなかった。こんなところ来とうなかった。そんな言葉が頭に思い浮かんで、しのは割と混乱している自分に気づいた。疲れてるな、と思い浮かぶ言葉、思考、感情の断片を集約して思った。
 いつも通りの朝だった。なのに、しのは会社にいるべき時間に会社にいなかった。
 冬の青空は遠くに見えた。海辺は寒かった。しのは寒さに身を縮めた。
「ミスったな」
 と声に出してしまうと、大変なミスをしたような気になった。