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いつも考えていること

フィールド・ノート(第1話)

 キッチンに冬の柔らかな日が差し込んでいた。築半世紀を越えようとする社宅は、日当たりは抜群だったから、晴れた冬の午後は暖房も要らない。けれどフカミがとっくり、スウェット、さらにフリースを着ていたのは、つい数時間前までこの部屋が外と同じ程度に冷えていたからだ。日差しが傾けば、また部屋は凍える。フカミは四畳程度のキッチンに置いた小さな二人掛けのテーブルに肘を置き、コーヒーを飲み終え、うつらうつらしていた。ハーマンカードンのスピーカーでベルアンドセバスチャンを流すと部屋中に音が満ちてカフェっぽくなる。あと三十分したら、シチューを作ろうとフカミは考える。聡子は六時頃に帰ってくるから、四時過ぎまでに晩ご飯を作って、そこから一時間くらいお風呂に入ってやろう、と思って。
 ぶつっと音をさせてハーマンカードンのバッテリが切れて、部屋は静かになった。気がつけば、思ってから一時間近くが立っていた。スマホを眺めたり、タブレットで雑誌を読んでいただけで。丸みを帯びた背もたれにもたれていただけで。
 椅子をずらないように少し持ち上げて一歩先の冷蔵庫に向ける。椅子をずっちゃダメって、小学校で言われたことが身に染みているんだな、と思ってみたりする。
 冷蔵庫の一番下の野菜室からじゃがいも、にんじん、たまねぎを、上の部屋から鶏肉を取り出す。椅子をずらないように冷蔵庫の横に置いた棚に向ける。手を伸ばしてまな板、包丁、ピーラー、お皿、ビニール袋を取る。それで皮を剥いたり、切ったり、鍋に放り込んだりする。とても手際がいいわけじゃないけど、まあまあ手際よく料理ができているな、とフカミは自分を評価した。ビニール袋にごみを放り込む。
 フカミの父親は休日だろうが、料理なんてしなかった。フカミの母親は台所で立って料理していた。自分は休日、椅子に座って料理する次世代の人間なのである、と心の中でけけけっと笑う。
 シチューの素の裏側に書いている説明通りに焼いたり、煮込んだり、溶かしたりしていたら日が翳ってきた。一日が終わる。料理を作っただけで終わる。座りながら料理をしていた人を思い出した。母方の祖母だ。がんを告知されて、ショックというより嫌気がさしたらしく、さっさと自殺してしまった祖母。あまりにもあっけらかんとした自殺に、悲しむよりも何よりも、みんなあの人らしいね、なんて困った顔で参列していた。
 とろみが出たので、鍋の火を止めた。味見をしてみたら、ちゃんとハウス食品のシチューの味がした。母の味と同じだ、とフカミは嬉しかった。
 
 古びた玄関が大きな音を立てた。誰が開けても大きな音を立てる玄関だ。
 聡子が外の空気をまとって帰ってきた。迎えに出ようとしたフカミの脇をすり抜け暖房で暖まったリビングに逃げ込む。電気カーペットの上でただいま、おかえりとハグ、キスをする。
 聡子の髪の毛からは冬の外のにおいがする。
 乾いた、冷たいにおいだ。
「あ、お風呂上り」
 と、聡子がフカミの首筋をかいで言う。
「そ、お風呂上り」
 フカミも冬の外のにおいがする、聡子のうなじに鼻をすり寄せた。
 
 シチューを食べながら、聡子は友達とカラオケに行った話をする。
モー娘。とかみんなで歌うと楽しいねん」
「共通して分かるって、そういう、ちょっと前のになっちゃうよな」
 椅子を動かして座ったままシチューを取ろうとしたが、鍋の中身が見えなかったのでフカミは立ち上がった。にんじん、じゃがいも、鶏肉をひとつずつすくう。
「聡子はお代わりいる?」
 と手を伸ばすと「ほい」と聡子が皿を差し出した。
 
「帰りたーい、帰りたーい、あったかい我が家が待っているー」
 朝のテレビで見たコマーシャルを小さな声で口ずさみながら、フカミは駅へ続く坂を歩く。家を出る前から、家を出た後から、会社についてから、お昼にうたた寝しながら、終業時間間際も、残業中も、春でも夏でも、いつもこのコマーシャルの気持ちだ。
 前の部署の後輩に「家、好きですよね」と不思議がられたことを思い出した。遅い時間まで会社で働き、土日は外で遊ぶのが好きなあの後輩の方が、フカミには不思議だった。
 スーツ姿ではない、なんというか競馬に行く人っぽい格好をしたおじさんが、プラットホームで待つ人の列が動かないことに腹を立てたようで、前にいる人にぶつかりながら、電車に乗った。ホームに残されたいつもの通勤者たちが、車内の手すりにつかまるおじさんのことを一瞬見て、目をそらす。
 ここは始発駅だから、一つ電車を逃せば必ず座れる。わざわざ無理に乗る必要はない。プラットホームで整列する誰しもにその同じ認識があるので、時折こうして現れる「外の人」にフカミもみんなも驚いてしまう。
 電車の出発を告げるアナウンスは、数秒程度のことなのに、ホームを睨みつけるおじさんの存在がくっきりとしていたから、五分とか十分くらいの長さに感じられた。一分とか二分とか、それくらいのことに感じたのかもしれない。電車が滑るように走り出してしまえば、おじさんはもうどこにもいなくて、フカミの感じたこともなくなってしまった。
 まっさらな電車が来て、フカミは与えられた席に座る。窓の外、整列する人たちをちらっとうかがうと、手元のスマートフォンに目を向けている人たちが見えた。首の角度が九十度に折れ曲がっている人もいる。おじさんは今頃、次の駅や次の次の駅でぎゅうぎゅうに押し込まれているのではないだろうか、と束の間心配する。
 そっと目を閉じて、気がついたら最寄り駅まで眠っている。
 
「田中の奴、残業つけてへんみたいやねん」
 係長に個室へと呼び出されて、面倒な仕事が降ってくるのかと観念していたフカミにとって、部下の田中くんが残業を申請していないという話は笑い話のように聞こえた。
「残業してるけど、申請してないってことですか?」
「そういうこと。勤怠管理システムにちゃんと入力してへんねん。
 部屋の出入り時間をたまに抜き出してチェックせなあかんのやけど、その時間が合ってない日があって」
 係長は椅子にもたれ、参った感じを漂わせていた。
 セルフサービス残業、という訳の分からない日本語が思い浮かんだが、言うのは止した。もしかして、フカミが田中君に「残業をつけるな」とプレッシャーをかけた犯人だと思われているのかもしれないから、まずは疑惑を晴らさないといけないのではないか。
「残業つけたらあかんなんて誰も言ってないですけど、なんでつけへんのでしょう。課長も係長も、やった分はちゃんと申請しろって、なんて言うか、寛容じゃないっすか」
「せやろ。わけわからんやろ。
 うちの会社、いや、まあ他所の部署は知らんけど、少なくともうちは残業した分、つけたらいいねん。残業時間が増えたことで部長とかから怒られたって、俺も課長も別にええんやから。分かってるやろ?」
「分かってます」
 フカミは調子を合わせて、へこへこ頷いた。この係長とももう二年付き合っているから、おだて方にも慣れた。わざとらしくやりすぎると不機嫌になる、その匙加減にも、そこそこ気づけるようになったつもりだ。
 個室の隅に置いてある段ボールの側面に「1999年 十年保存」と書いてあるのが目に入った。もう二十一世紀に入って二十年が経とうとしているのに、この段ボールは何をどうして生き残っているのだろう。
 係長が両腕を天井に上げ、大きな欠伸をして、
「で。お前から聞いてほしいねん」
 と、目元に欠伸の後の涙を溜めて言った
「えっ? 私からですか?」
 そういうのは自分でも係長でもなく、課長、つまり管理監督者の仕事やろ、とフカミはあからさまに不満な顔をしたが、係長はちょっと目線をそらして素知らぬ顔をする。こういう時は、もうダメだ。フカミがやらなくちゃならない。
 くたびれたスーツに、くたびれたおっさんが二人、個室で向かい合ってどぶさらいみたいな仕事を押しつけ合っている。高校生の頃はこんなことするなんて夢にも思ってなかった、と思うと、フカミはおかしくてたまらなくなった。
 
 田中君は今年からフカミの下に来た新人だが、地方の営業所で三年やっているから、何も知らないペーペーではない。
 フカミがやってほしい仕事を説明すると、えらく察しのいい雰囲気を出すのだが、アウトプットされたものはやってほしいこととてんで違うことが何度もあって、フカミはずいぶん悩まされた。ここ数か月、フカミも係長も、田中君には仕事に大きな影響のない雑用しか頼んでいない。
 なので、大した仕事は抱えていないはずだが、いつもせわしなくキーボードを叩いている。しかし、フカミが一か月前に「暇な時にやっといて」と頼んだグループメールの整理に手をつける気はないらしい。グループメール宛てにメールを送ると、去年の年度末に退職した人にもメールが送信されてしまって「宛先がありません」エラーが来てしまうのだけれど。
 横目で田中君を見ていると、始終ぱちぱちキーボードを鳴らしている。何をそんなに打つことがあるのか、フカミはもちろん係長も課長も仕事を頼んでいないのに。
 
 西洋絵画に囲まれたレストランことサイゼリヤで、白ワインをちびちび飲みつつ、ダイキ相手に相撲の話をしていたフカミだったが、どうしても田中君のことがひっかかったので、思いつくまま話してみた。
「そういえば、田中君はよう残業してる。ぼくは帰りたい人やから、仕事終わらせたらささっと帰るねんけど、思い返せば田中君に対して『お先に』って言うことの方が多いねん。でも、彼には何の仕事もないはずやねんけどね。不思議や」
「そうかあ? 地方におったんやろ? 地方やと下っ端は仕事なくても最後まで残ってるんちゃうん?」
 ダイキに事もなげに看破されて、フカミは「こいつ、働いたことないくせに」と内心むむっと思いつつも、いつも自分は勘が悪いから、とも思う。
「そういうあれか、悪習か」
「そうそう。本社もそうやと思って、特に何もなくてもなんかあるふりして残って、で、実際は何もしてないから残業つけたらあかんと思って申請せんかった、という理屈」
「アホやん。はよ帰って子供の面倒みろよ」
「子どもおるん? てか結婚してるんや」
「三人おる、してる」
 ダイキは眉間に皺を寄せて、怪訝そうな顔をする時にする怪訝そうな顔をしたので、フカミも負けじと眉間に皺を寄せて、
「不可解ですな」
「うん、不可解」
 と腕を組んで首を傾げ合った。二人の他に、客のいないサイゼリヤだった。
 
「そういえば、あいつ、フトー。帰ってきたらしいで」
「フトー! 懐かしい!」
 フカミは、大学の部室にふらっと現れた時の、汚い金髪に胡散臭く高い鼻、かさついた手の甲、といったフトーの印象を頭に描いて懐かしくなった。
「元気してるかな。どこ行ってたんやっけ。アメリカのどっか、なんやろ」
「そうそう、アメリカの……、どっか」
 ダイキは「はははっ」と目にかかった髪の毛を揺らしながら、その見た目の鬱陶しさとは正反対の、からっとした笑い声をあげた。このギャップを、俺はすぐ忘れてしまうだろうとフカミは思った。
 
 帰りに聡子へメールしたら、聡子も今電車に乗っているところ、と返事があった。一本後の電車に乗っているようだったので、フカミはホームで聡子を待った。
「よ」
 と手を挙げて聡子を迎え、手をつなぐ。
 ホームから上がり下がりして、改札を抜ける。
 この人と一緒に暮らしているんだなあ、と聡子の横顔、細い眼鏡の線を見る。やってやるぞとも思わないし、面倒だなあとも思わない。仕事も生活も面倒ではあるけれど、聡子がいることは今、面倒じゃない。
 一生こんなのらりくらりとした時間が続けばいいのに。一生ってのは、永遠と同義みたい。誰だっけ、「死ぬのはいつも他人ばかり」とかって言った人、その感覚、よく分かるよって言ったげたい。
 ずっと前から同じことをもう何度も考えていて、また考えているようだ。
「来週、しのと飲むけど、聡子も来る?」
 とそれまで考えていたこととは別に、思い出したことを聞いた。
「行く!」
 と聡子は元気のいい返事をした。
「しのくん、元気なん?」
「うーん、あいつやたら忙しいからなあ。接待も多いらしいし、ぼくはようせん」
 しのの大きな体を思い出す。持ったペットボトルが小さく見える、大きな手。
 大きな犬を散歩している人とすれ違った。夜なのに、サングラスをかけていた。エレガントなダウンコートの女性。ふさふさした毛並みのゴールデンレトリーバー。細い路地がいつも以上に狭かった。
 
 係長の目線が厳しくなって、観念して、フカミは田中君に話しかけた。
「ちょっと話、いい?」
「はい!」
 田中君は返事が元気だ。「こうしてほしいねん」と言うと「あー、はい。うん、うん」とか、分かった感じに相槌を打つから、伝わってるよなと思ってしまうし。というか、この会社で返事がいい奴に仕事ができる奴はいない、不思議なことに。態度の悪い人の方が、仕事としてはちゃんとしている。変な会社だ。いつか潰れる、とフカミはよく思う。
 個室に移って田中君と向き合うと、気の重さが半端じゃない。
「単刀直入に言うけど、これ見て。
 こっちが君の残業申請で、こっちが出入り時間な。で、この日。申請では残業してないことになってるけど、出入り時間は夜の八時に帰ってる。
 なんで残業申請してへんの」
 田中君は紙を見比べた後、じっと固まって何も言わない。言い訳を考えていることがもろに分かる空気に、フカミは一層気が滅入った。
「や、世間ではさ、サービス残業を強制する企業もあるわけでさ、最近、っていうかもうだいぶ前から新聞でよく取り上げられるのは知ってるやろ。新聞とか読んでる?」
「新聞は取ってません」
 フカミはそこは即答するんかい、と困惑した。新聞を取らない人が増えているのは知っていたが、それを即答できる文化があるとは思ってもみなかった。
「ま、あの、テレビでもネットニュースでも、たまにやってるやん。あの大手の広告会社の事件とか知ってるやろ?」
 田中君はきょとんと効果音でも出そうなほど眉を下げて、知らないことを表情で示す。感情表現の豊かさに、フカミは笑いかけたがなんとか堪えた。
「や、まあ、ええねん、そんなことはどうでもよくて。
 とにかく、サービス残業はあかんわけ。それは会社側が強制するのはもちろん、社員が勝手に忖度してやるんもあかん。というか、外の人から見たら、会社が強制しているように見えるんやから、残業はちゃんとつけなあかん。
 分かる?」
「はい」
 話の途中でもこくこく頷いて、分かった感じを出してくる。
「これ、どないすんの」
「え?」
「や、残業してたんやろ? 残業代、払わなあかんやん」
「はい……」
 フカミの雰囲気に合わせて深刻そうな返答を繕っているが、きっとあんまりよく分かっていないことがひしひしと感じられて、フカミはいらいらしてきた。
「これは誰のミスなん?」
「あ、あの、実際はその日は会社には残ってたんですけど、そんな何もしてなくて、忘年会の準備ですとか、そういうことをしていて」
「や、ええねん。何しててもええねん。会社にいたら全部残業やから。それは会社のルール上そうなってるから」
「あの、そういう意味では、私が入力しなかったので……」
「うん。でもな、君が入力してへんのを見つけてへんかった課長の責任にもなるやん。それはどうするん?」
「え?」
 またかよ、とフカミは思う。こいつは自分で考えることを完全に放棄しとる。こっちが話を進めてくれると完全に舐め切ってる。面倒だ。
「え、ちゃうやん。どうするん」
「どうする、と言うと…」
「残業代払うにあたっての諸々の処理、課長が私のミスでしたって頭下げて回らなあかんやん。でも、君のミスが発端なんやったら、田中君が課長にお願いしに行かなあかんのちゃうん?
 もちろん課長が悪いところもあると思うで。本来こんなんチェックするんが管理者の仕事やし。
 でも、まず個々人でしっかりやっていきましょうって、信頼されてのルールやから、自分がしっかりやってなかったら、あかんやんな?」
「はい…」
 田中君はうな垂れて顔を下に向けている。
「この間の、締切当日に分厚いもん持ってきて、『確認お願いします』って言ってきた時も言うたけど、今、何が問題か分かってる? ちょっと言うてみ?」
「あれは、締め切りの当日にですね……」
「そっちちゃう。今のこと」
 田中君は顔を上げて、ちょっと考えてから、
「残業代をつけていなかったこと、ですよね」
 と間違っていないぞ、と気合の入った声で言ったので、フカミは溺れたか部屋の酸素がすべて抜かれたかした時のような、死にそうな気持になった。
「ちゃうちゃう。課長にどう言うねん、ってことやろ、今、話してるのは」
「課長には、私から言います」
「はあ。そうか。分かった。任せたわ」
「え、あの、どう言えば」
「自分で言う言うてんからどう言うかも自分で考え」
「あ、え、はい」
 田中君の困った表情は、やっぱり表現力があって、それはとても良いことだとフカミは思った。
 その後、田中君はおもむろに課長に話しかけ、「私のミスでご迷惑をおかけすることになってしまって云々……」と結局何が言いたいのか分からない、意図不明瞭なことを話し始めた。フカミは席に座る間もなく、その光景を眺めていた。係長もいぶかしげに耳をそばだてていたが、きっとこの話だとは認識できていないだろう。
 田中君は、さっきまでフカミといた個室に課長と二人で入り、一時間半出てこなかった。係長がフカミに「言うたん?」と聞くので「言いましたけど……」と答えた。「ま、あとはあっちの話やな」と係長はあえて関心のない態度になった。
 閉じられた個室の扉を見ながら、残業代をつけなかったことでそんな怒られる会社ってのも良い会社だ、とフカミは思った。
 
 夜中三時を過ぎた頃にしのが家に帰ったのは、その一週間で三回あって、そのうち二回は接待で飲んだ後、飲み直しと称して上司に三軒目に連れて行かれたからだった。家に帰って、しわのよったスーツとシャツを脱ぎ捨てる。脱ぎ捨ててから、ハンガーにかけるために持ち上げるのが怠い。でも、そこらへんに放っておいてはいけない。シャワーを浴びても何もリフレッシュしない。気絶から覚めたようなくらくらした頭で、朝を迎えることになる。
 仕事は山ほどあるので、明日も土曜日だけれど会社に行く。というか、平日は上司や取引先と雑談しているだけで、作業はすべて土日にやっているようなものだ。
 飲み過ぎたら胃腸薬を飲むものだと気づいたのは、二十七歳の時。飲み代と薬代で給料の結構な割合が消えていることにもやっとする。
 十一時に事務室に入るといつもの先客がいる。人の出入りに構うことなく、パソコンの青白い光と相対し続けている。平日なら、部室に入る一年生みたいに元気な声であいさつするが、土日にそんなことをする人はいない。しのも最短距離で席に着き、パーテーションに顔をうずめる。黒いパソコンの画面に自分の顔が映る。事務室の扉を開けた時からではなく、家を出た時からたぶんずっと無表情だった。
 いつもの癖で窓側のひな壇をちらっと伺いながらキーボードを叩く。今日は、気を遣うべき相手は一人もいないのだけれど。