Nu blog

いつも考えていること

雪を眺めてた

新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴い文化芸術が壊滅的な打撃を受けている。文化芸術だけでなく一般企業も大なり小なりダメージを受けて、中には倒産など立ち行かなくなったケースもあるようだ。きっと廃業やむなしの若き芸術家もいるだろう。

感染症による死亡より、その影響による経済的理由からの死の方が多くなる、という話もある。

平時、何の気なしに働き、楽しみを享受してきたことの有難さを感じる一方で、なぜここまで追い詰められにゃいかんのか、と怒りも覚える。

 

怒りには二つの方向性がある。

一つは私たちの政府があくまで平時の対応を崩そうとしないことだ。政府からの自粛要請には何の強制力がないにもかかわらず従わなければならない。この「雰囲気支配」とでもいうのか、まるで戦時中の隣組のような見張り合う空気がまず不愉快だ。ロックダウンだのなんだの説明しているようで説明していない会見により人々の行動に制限をかけた感じ、つまり行政の仕事を果たした雰囲気を醸すのはやめてほしい。制限と保障を一体としてもう少し中身あるメッセージを出してくれ。

もう一つの怒りは、人々が政府に強権発動を求めていること。先に書いた「制限と保障を同時に指示せよ」という希望は、いわば「私の自由を奪う権利が政府にはある」と述べているようなものだ。金をくれたら家にいてやろうと言う指示待ちの姿勢を明らかにする智者ぶって振る舞うツイッター上の人々にも腹が立つ。

この二つの怒り、苛立ち、不愉快さは相反している。じゃあお前はどうしたいのかと問われるのは必定。

 

二つに共通しているのは、行動の制限(政府による指示か要請か、また保障の有無は別)が嫌だ、ということ。

だから椎名林檎のライブもK-1開催も、それに自粛を要請し続けた行政や感染拡大を憂慮する人々の憤り、あるいは保障がないからだと政府を批判する声など、さまざまな向きを巻いた矢印、波紋を冷笑的に見ていたことは隠せない。

この新型コロナウイルスへの対応への反応はまったく日本社会のさまざまな立ち位置をよく見せてくれたなと思ったからだ。

日本社会に潜む「限定的な独裁志向」。橋下徹が政治家として辣腕を振るっていた2008年以降、なんの衒いもなしにどうやら多くの人がある種納得しているこの発想。言葉としては「リーダーシップ」や「決断力」などどうとでも言い換えられるけれど、言ってしまえば「誰か決めてくれ」というお任せ民主主義の成れの果てだ。

日本の左と呼ばれる人ほど実はその傾向が強いように思える。日本の左はリベラルではないとはよく言われることだが、良い言い方をすれば大きな政府志向、悪く言えばエリート独裁主義である。だから、「保障と一体なら自粛も受け入れる」などと戦時中の文人らのようなことを躊躇いなく言う。

一方、日本の右は、結局のところ経済団体でしかなく、政府を利権組織への利益還元装置としてしか見てない。 和牛券だの魚券だので透けて見えた陳情文化を支える層だ。行政を「自粛要請」で留まらせているのは、経済団体による「我々への支援以外は税金使うな」圧力なのかもしれない。目に見える形ではない圧力、あるいはもはや政府の根に染み込んだ思想なのかもしれないが…。

簡単に左右と括って、取りこぼしが多いけれど、なんだかこのような滑稽な様を、私は冷笑的に見ていたのである。

そして、そんな冷笑的な態度の最たるものは、ネオリベ的恵まれた個人主義者たちである。「いざという時さえ機能しない政府、だから平時から要らない、自助努力が全て」層のことだ。最も鼻持ちならない奴らで、たまたま今星回りが良いだけなのに0から己が努力のみで立身出世したかのように、語る人間のこと。

 

市場原理に馴染まない医療や文化芸術と経済の安定的推移を保障する統合的組織としての政府、国家(的なもの)は要る。

であるから、現状において「政府は要らない」は極論。また経済団体主導の小さな政府志向は止まるべき。かといって大きな政府を無制限には許せないから、文化芸術、インフラ(医療、交通、通信、エネルギー、教育、介護、他は?)にきっちり資金、資材を投入する。先々から災害など危機管理を見越した整備をおこない、平時の範囲を拡大しておく。無駄があるように見えても簡単にカットしない。

また、危機緊急事態に際して、一方的な命令や指示、あるいは曖昧なお願いや要請をするのではなく、私たちが私たちの頭で考え判断できるような材料を与えること。

 

そうした絶妙なバランスを夢見ながら、家から雪を眺めてた。