母の葬儀からの帰り道、私は少し陽気に子供の頃のエピソードを妻に語ったりした。
「自転車から落っこちて、頬っぺたを擦っちゃったことがあってね。けっこう血が出てさ。浅い傷だったけど派手な怪我だった。それ見て、母親はさ、女の子じゃなくてよかったってずっと言うんだけど、なんだそれって思ったなあ。」
「ハリウッド映画の、話題の映画みたいなのが好きで、観に行くんだけど、いっつも途中で飽きるらしくて。中盤ちょっとダレたりすると寝るんだよね。また、寝てるわって。でもまあ、そこ観てなくても筋はわかるから、すごい自信満々におもしろかったって言うんだよ。」
「テレビ嫌いだったな。うん。バラエティ番組見てるとうるさいとかって、音量下げられたもん。そんな毎日面白いことあるわけでもないのに、テレビは毎日笑い事ばっかりして馬鹿みたいって。年に一回だけ、あんたの夢を叶えたろかだけは見てたけど、それ以外はほとんどニュースか通販だった。そうそう、通販番組も好きだったな。でも絶対買わないの…。」
私は悲しい気持ちではなかった。もう随分前に悲しい気持ちは一通りやってしまったように思った。その時私は、怖いなあ、嫌だなあとばかり思った。いなくなったら、いないもんなあと。
駅からの十五分。妻と並んで歩いた。妻は私を心配してくれているだろう。優しいと思う。離れていたから、嫁姑問題みたいなことはほとんどなかった。せいぜい二週間に一回くらいラインが来るのに対応するのが手間だったくらいか。貰い物送ったので使ってくださいとか、花粉症にはなになにという薬がよく効くと聞いたから試してみたらどうかとか、鎌倉の紫陽花は綺麗なのか私も死ぬまでに一度は行ってみたいとか。いつも母親から送らせるのも悪いと思って、時には妻から、寒くなってきたので電気カーペットを出しましたとか、ヘリコプターが飛んでいるので何事かと思ったら芸能人が逮捕された事件の関係で拘置所から出た車を追跡しているようですとか、先ほどケンミンショーで地元の銘菓が映っていて懐かしい気持ちになりましたとか、そんなことを送ってくれていた。
生暖かい夜だった。電灯の光がぬめぬめと辺りを照らして、私の足取りを重くさせているようだった。母は死んだと改めて思った。死んじゃったか、まいったなと小さな声で呟いたらちょっとおかしくて面白い気持ちになった。
家に着いたら腹が減ったのでカップ麺を食った。妻はお茶漬けを食べた。
布団に入って電気を消すと、怖い気がした。豆電をつけるか悩んだが、目が慣れてきたのでやめた。目が慣れると慣れるでやっぱり怖い気は消えなかった。少し膨らんだ感じさえした。
妻の手が私の布団の中に入ってきた。私はその手を握った。妻は私の右側で眠っており、左手を伸ばしてきた。それに対し、私も左手で応じてみた。なぜか右手は嫌だった。
妻に連れられて、どこかへ引っ張られているようだった。闇の淵から救われているのかなと思ったが、そうではないとも思った。私は生きているし、妻も生きていて、闇の淵にいるわけじゃない。明日からも日常が続き、朝は目やにがついているし、寝起きの口は臭い。朝ごはんを優雅にすることもないし、劇的に仕事ができるようになったりもしない。飲みに行ったら酔っ払うし、牡蠣を食って当たることもある。どこか旅行に行ったりしよう。でも一生オーロラを見ることはないかもしれない。なぜか地方のお城に登ったりするかもしれない。
とんでもなく寂しい気がした。手のひらの感触だけが確かだった。