Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(病気)

扁桃腺が腫れた。

医者にかかると、「これはね、よくある病気ですよ。だからあまり心配しないで大丈夫。たとえばね、電車や映画館なんかであなたの両隣に人が座るでしょう? その両隣の二人のうち一人はかかるんだから。そんなくらいありふれた病気ですよ。いや、でも待てよ。あなたがこの病気にかかってるわけだから、両隣の二人はこの病気にかからないってことか。参ったな。」

「あ、そうだ。あなたの職場は何人くらいいるの? 二十四人。いいですね。え? 自分を含めれば二十五人? うーん。それじゃ困る。私はね、三人に一人がなるってことが言いたいのだから、三で割れる数字が嬉しいんですよ。あなた含めて二十五人ってんじゃあ、ちょっとねえ。まあ、いいか。あなた含めて三十人ってことにしましょう。キリもいい。この三十人のうち十人はそれにかかるわけです。つまりね、あなた以外の九人もその病気にかかるって寸法ですよ。どうですか?」

「しかしまあ、これは物の例えです。あまりにもわかりやすくしすぎたかもしれませんな。実際は生涯罹患率、つまり一生のうちにその病気にかかる確率なわけですから、実際にあなた以外の九人が、ええと、二十五人とすれば七・三三三…人が今この時点でその病気にかかっているわけではないのですから、そのことにはご留意願いたいもんですな。確率というものを悪用して、そのように捉えて殊更に恐怖心を煽り、不要な検査やワクチン接種を勧めて儲ける輩は古今東西枚挙にいとまがないわけです。」

と言われた。それで、処方箋を書いてもらった。

薬剤師へ処方箋を渡すと「あちらの病院にかかられたんですか。かかりつけ医? 違う。そうですよねえ。あの病院、というか高谷先生、この病気好きなんですよ。好きなんて言うと語弊があるかもしれませんが。とりあえずこの病気だってことにするんです。そりゃね、少なくない人がこの病気にかかりますよ。でもね、グリグリ扁桃腺押しただけでなんでそれだなんて断定できますかね。薬飲んで治ったなんてみんな思ってるけど、薬飲まなくたって治ってたかもしれないですよ。時間経てば腫れたもんは引っ込むんだから、たいていね。特にその病気なんて薬飲まないと治らないわけでもないし。」

「もう一週間も腫れてるんです? 一週間くらいなら経過観察でしょ。言っちゃ悪いですけど、あなたにとってこの一週間は永遠みたいに長かったんでしょうけど、論文やらなんやらだとたった一週間扱いで、二週間、いや一ヶ月くらい腫れてなきゃ病気だと認定されません。一ヶ月もすりゃみんな治るんです。そうです。そうなんですよ。あなただって腫れがなくなりゃ、この一週間のことを忘れるか、覚えてても一瞬のことのように記憶しますよ。請け負いますね。まったく。」

「とはいえね、薬を飲んでなるべく安静にする。どちらかといえば、だから安静にすることですよ。みんな体が休まってないんです。そうでなくたって心臓はバクバク動いてるし、何か食べれば熱心に消化するし、暑い寒いというだけで体温を調節するし、数えきれないような細菌と戦い続けているんですよ。その上さらに酒飲んだらタバコ吸ったり、重い物運んだり、脳みそ使ったり、怒られたりしてストレス感じたり、厄介ごとを持ち込まないでほしいですね。さあ、お大事になさってください!」

と言われた。薬をもらった。

今日くらいは仕事を休もうと、上司に電話をすると「ああ、大変だな。ゆっくり休んでください。明日は打ち合わせがあるから出社する? まあ、どっちでもいいよ。」

と言われた。家に帰り、布団に潜り込んだ。妻は夕方までパート、小学二年生の子どもはいつも何時頃に帰ってくるのか知らない。眠れるわけでもないから、テレビを点けておいた。少しくらい音があった方が眠れるものだ。ワイドショーで、昔俳優をやっていた司会者が大口を開けて「いや、我々の若い頃言うたらね、そんなことでいちいち休んだりできませんでしたよ。ぼくなんか俳優ですから、ちょっとのことで休んだら仕事なくなりますからね。でも、テレビ局のADさんなんかもね、今はディレクターやプロデューサーって偉くなってるけどね、昔は顔真っ赤にして、鼻水垂らして、咳して、充血した目でやってましたよ。体調のこと聞かれても、そこで風邪ですなんて答えたらじゃあ休めってなるから、聞かれても今日は調子がいいですね、なんて言ってたもんね。実際、もしかしたら風邪じゃなくて二日酔いだったのかもしれないけどね。」

「反対にね、しょっちゅう休む人もいるのよ。一回風邪で休んでみたら、別に電話一本で休めるし、休んでも仕事が止まって大迷惑ってことはないし、それで味しめちゃって、重要な時になると決まって休む、みたいな人が今もいるだろうけど昔もいたよ。割食うのはさっき言ったような、体調悪くても働いてる人でさ、でも割食った分、今は偉そうにしてるもんね。当時は「Sさん、おはようございます!」「差し入れ、ありがとうございます!」だったのが、今はもう「Sちゃん、最近どうよー。数字取れてる?」とか「あれ、差し入れないんじゃないの。ちょっとちょっと、ギャラへの抗議かよー。参ったなあ、あ、君。ここの社員だよね? 申し訳ないけどさ、ほら地下鉄の前にあるマネケンとかビアードパパでいいから、これで適当に数買って賑やかしといて? 領収書、忘れずにね」とか言って、なんもせずに帰っちゃうもんね。悪口の方が長くなっちゃった、あはは。」

「でもね、ぼくは、こういうこと言うと休んじゃいけないのかとかパワハラだとか言われるのは知ってるんです。実は反対のことが言いたいんです。つまりね、あなたがいないと困るんですよ、ってことが言いたいんです。休んだ時に、誰かが代わりをやってくれるんですけど、それでも本当はあなたにやってほしかったって、そう思われてるんですよって。一回休んで味をしめる人って、あ、俺はそんなに必要じゃないんだなって思っちゃったわけでしょう。でも、そうじゃないんです。本当は必要だった、ちゃんとあなたに全うしてほしい。そう思われてるんですよ。だから、簡単に休むばかりじゃダメですよ、ってそう言いたい。ね、ここまで含めてネットニュースにしてほしいなあ。もう、散々ハラスメントおじさんって呼ばれてるんだから、私。はい、一旦CM入りまーす。CMの後はお、お、ず、もう。大相撲問題、でーす。相撲協会の対応に注目が集まってます。」

と話していた。いつのまにか私は眠っていたようで、それが本当に、Sの話していたことか、まったく確証が持てなかった。

扉の開く音がして、妻が帰ってきた。玄関に私の靴があることに気づいたのか、まっすぐ寝室へとやってきて「どうしたの? え、ああ、その病気。聞いたことある。たしか高校の時、ミッチーもなってた。ミッチーってのがいたの。あんまり友達じゃなかったから、どうなったのか知らない。えーと、体だるい? だるくないんだ。本当に腫れてるだけで、なにがあるってわけじゃないんだ。ふーん。仕事は、休むのは今日だけ? わかった。無理せずにね。とはいえ、休みすぎると会社行きたくなくなっちゃうかもしれないしね。とりあえず今日はお皿洗いも風呂掃除もしなくていいから。明日まとめてやってくれたらいいよ。うん。」

「うーん。ほんと、今みんななにしてるんだろ。ううん。ミッチーのことはどうでもよくて、やっぱりヨシエちゃんとかトモヨちゃんのことが気になるなあ。なんとなく連絡取りづらいんだよね。いきなり連絡したら、宗教とかマルチの勧誘と思われそうじゃん。むしろ私だったらそう思うね。だからさ、友達は一生ものっていうけど、それはちゃんと連絡取り続けなさいよ、頻繁に会いなさいよってことなんだろうなあ。なんか、悲しいなあ。今私友達いないなあ。昔はいつものグループで遊んでたのに。ママ友? 全然友達じゃないよ。あなただって会社の同僚とどれだけ仲よくても友達じゃないでしょ? 同期とかは友達か。あ、そ。まあ、それなら、ママ友ってのは取引先とかとおんなじなの。頻繁にメールするかもしれないけど、話題は一つなんだよ。それ以外の情報は、この間長野にある旦那の実家に行ってきたとかそういう断片的なものだけ。とかいっても、もうこの年から友達どうやって作ればいいかわかんないねえ。」

「気づけば四十代目前だねえ。お互い年取ったし、健康に気をつけないと。ローンもあと三十年残ってるし。奏音の教育費はこれからが本番だし。倒れないでよ。あ、収入保障保険とか入ってた方がいいのかな。この間CMでやってたの。入院とかした時に保障してくれる保険。要らない? どうせ掛けた額より下回る? そうなんだ。知らなかった。得しないの、ああいうのって。保険って難しいんだねえ。そうだ、来年からは人間ドッグ行きなよ。ドッグ。胃カメラとかバリウムとか。私もしたいなあ。会社だと補助が出るでしょ。出ないの? ちょっとあるんだ。え、そんな高いの? うーん。五年に一回とかそんくらいで行くのがいいかもね。うん。あ、電話だ。じゃあさ、しっかり寝ときなよ。私、いろいろやってるから、なんかあったら呼んで。はい。」

と話した。妻はリビングへ戻り、扉を隔ててリビングから、テレビの音と、時折料理の音が聞こえた。

私はその包丁がまな板に当たるトントントンという音を子守唄に、うつらうつらとし始めた。冬の日はもう夕暮れだった。太陽が傾き始めていた。とつぜん、太陽に登る人の姿が見えた。彼はほぼ垂直に立てたはしごの先端に足をかけ、身を乗り出して次のはしごを継ぎ足していた。そうやって継ぎ足して継ぎ足して太陽まで行こうとしているのだ。私は思わず「おつかれさま。あとどのくらいでたどり着きますか」と聞いたら、彼は「ああ、どうもこんばんは。日が落ちかけているこの時間は、こんにちはが正しいようにも思えますが…。私のことより、なんです、君。良い大人がこんな時間に縮こまってパジャマを着て布団に入っている。体調が悪いんですか。であれば、お騒がせして申し訳ない。私は調子がいいよ。ここ四半世紀、風邪はもちろん、快食快便快眠でね。おかげさまで何一つ嫌なことのない毎日だよ。そうだね、このはしごが太陽にたどり着くまではもう二、三十日ってところだな。むろん、夕日だけだよ。日中の太陽には暑くて近づけないからね。案外みんな知らないけれど、朝日にもなかなか近づけないんですよ。いや、温度じゃない。速度が速いのさ。」

「なかなかね、太陽に登る人というのも多くないけれど。しかし、登山が趣味とか魚釣りが趣味という人と同じくらい太陽に登ったことがある人というのは一定いてね。稲垣足穂? 彼の頃はずいぶん装備やらなんやら違っただろうけれど、要はそういうことだね。モンベルやらノースフェイスやら、装備はとてもよくなったよ。私はあまり人にやれやれと勧めたりしないタチなんだけども、一週間近くこうやっている中で、清々しい気持ちにはなっているから、聞かれればやってみてもいいと思う、と答えたい。悪くない。必要だとかまでは言わないけど、そんなこと言い出したら必要なことなんてなにもない。」

「まずは病気を治すことだよ。まるでなかったかのようにね…」

と言って、継ぎ足したはしごの先が雲に入り、見えなくなった。

子どもが帰ってきた。いつの間にか日が暮れていて、夢を見ていたことに気がついた。扉の外で子どもが「ただいま」という声がする。妻が何か答えている。手洗いうがいをしている。妻が「お父さんが寝てるから、静かに…」と言っているのがわかる。私はすっかり目が冴えて、体が怠い。起き上がるかどうか、迷っていると妻が静かに扉を開けた。「晩ご飯、どうする?」と聞かれて、私はなんとなく病人のふりをして(病人ではあるのだけれど)、「うん、どうしようかな」などともったいぶってみた。妻がおかゆを作ったので、そこで食べれば良いと皿を運んでくれたから、私は体を起こしてそれを食った。おかゆなんて、何年振りだろうと思った。妻と子どもが晩ご飯を食べている音が聞こえた。子どもが学校であったことをしゃべっていた。何を言っているのかは分からなかった。

晩ご飯を食べ終えた子どもが寝室にやってきて、おかゆの皿を下げた。それからまた戻ってきて、枕元に椅子を引き寄せ私の顔を覗き込み、「お父さん? 起きてる? しんどい? 大丈夫? お父さんが風邪引いてるところ初めて見た。風邪じゃないの? 会社って休めるんだね。怒られたりするの? そうでもないんだ。学校休むと、ズル休みは怒られる。風邪で休んだら怒られないけど、勉強についてけなくなる。前に休んだ時はすごく焦った。でもあとで教えてもらったから今は大丈夫。お父さんは会社でついてけなくならない? 大丈夫なんだ。よかった。分からないことがあればちゃんと周囲の人に聞くことが大事なんだね。分からないって恥ずかしくない? わかったふりしてやり過ごせたらすっごく嬉しいんだよなあ。きくはいっときのはじ? しらぬはいっしょうのはじ? なにそれ? ふーん。ことわざかあ。あの辞典に載ってたかな、調べてみよう。」

「そういえばさ、今日は授業で当てられたんだよ。でも答えられたんだ。うん? 算数。文章題で、黒板で計算したの。最初は上の方、ここらへんから書き始めたんだけどいつのまにか下がっちゃったから、それだけがなあ。こころのこり? って言うんだ。うん。それだと思う。でもね、途中の式も答えもあってたんだよ。でしょ。すごいんだよ。テストはいつあるんだあろう。あんまり知らない。うん。お父さんはテストあるの? ないんだ。え、毎日がテストなの。よくわかんないけど、大変なんだねえ、お仕事って。」

「体調よくなったらさ、恐竜の化石、見に行きたいんだ。メグちゃんが言ってたんだけど、大きな恐竜の化石があるんだって。どこだったか知らない。わかった。聞いとく。かっこいいんだって。。虫とか魚もいっぱいいて、ずらーっと展示されてるんだって。うん。約束だよ。早く治してね。はーい。じゃ、おやすみなさい。宿題しないと怒られちゃうから。」

と言って母親に呼ばれ、出ていった。

すっかり夜になっていた。窓の暗闇に自分の輪郭が写っていた。私の輪郭に、屋根屋根とその向こうの山々が重なって見えた。しばらくすると、月明かりが煌々と照っているのが見え始めた。そして、コツン、コツンと音がしていた。屋根に座り、月に向かって石を投げている人がいた。彼は私がみているのに気がつくと、石を投げるのをやめて「こんばんは。うるさかったかい? 月は良い音を響かせるからね。うん、そう。この音だよ(振りかぶって投げた石が月に当たり、コツンと儚げな音を鳴らす。私は良い音ともなんとも思わない。鐘に石を当てたような音ならば、良い音だと思っただろうが…)。今日みたいな月の大きな日でもないと、投げたって当たりゃしないからね。むろん三日月だろうが新月だろうが、月が丸いのは承知しているよ。ただね、影になったところに当てても音は鳴りゃしないんだよ。ぼくは物理に疎いから、その辺りの詳しいことは知らないが、実際そうなんだから仕方がない。」

「それにね、ぼくにも仕事があってね。見ての通り夜型だから、深夜の警備員をしているのだけれど、仕事がある日は投げられないんだよ。なかなかね、真面目なんだ。そうなると、この趣味も二、三ヶ月に一回の特別なことになっちまう。だから夜通しやってやるんだ。月が登って降りてくるまで飽きずにね。」

「そういうことってあるだろう? みんな言ってしまえばよく飽きずに生きてるもんだよ。偉いよね。君もそうだろう? 飽きてなんかいないとは言わせない。でもね、飽きずに最後までやりきることも大事だよ。人生の場合は死ぬまでってことだね。ぼくの場合は朝が来るまでってことさ。最後、月が見えなくなるまで石を投げるよ。時折外す。当たっても端っこだから音がしないこともある。ああ、そうなんだよ。端に当たると音がしない。そんなことはどうだって良いじゃないか。なにせぼくは最後まで石を投げる。君も最後までやりなさいよ、ってことでさ。うん。もう遅いよ。おやすみ。また明日。それじゃあね、また見かけたら声をかけてくれ。」

朝目が覚めると、扁桃腺はまだ少し腫れていたが、随分マシになったようだった。私はいつもの朝のように歯を磨き、パンをかじって、髭を剃り、スーツに着替えて家を出た。

電車に揺られ、うつらうつらした。

一日ぶりのオフィスは、知らない場所のようにも、見慣れた家のようにも思えた。すでに出社していた部下に「昨日は悪かったね」「何かトラブルはなかった?」などと声をかけた。

「いえいえ」「何も」と答えた後、「俺が休んでも大したことないのか、なんて思わないでくださいよ。たまたま昨日は何かの締め切りや督促や問い合わせがなくて、あったとしてもNさんがいないのなら明日にすると言ってくれたので(それについては誰からお電話があったかメモしています)、だから何もありませんでしたとお伝えできたのであって、他意はありませんからね。もちろん、締め切りがないこともあって、Nさんも安心してお休みされたのでしょうけど。」

「今日は打ち合わせもありますし、来週の会議資料も出さなきゃなりませんから、その点において昨日進められていない分を取り戻さなくちゃなりませんよ。私も昨日のうちにいろいろやったつもりではあるのですが…。それにしたってこういう企画や事務の仕事っていうのは、どうしても属人的になりますから、そう軽々に手を出せませんからね。それは覚えがあるでしょう。営業もそうじゃないですか。昨日あいつが言ってたことと違う、なんて言われちゃ立場がないってことですよ。なので、昨日のうちに色々やったというのは、自分の範囲のことはしっかり進めましたということであって、申し訳ありませんが、Nさんの資料作りを進めたということではないんです。ですが、そういう意味では本日ご指示いただければ、それに対応する余裕も少しはある、という所存ですから、メールチェック等々済みましたらお声がけください。」

「あ、あと先ほどSさんから電話がありまして、お子さんが熱を出したので、本日お休みされるとのことです。休暇処理、よろしくお願いします。人の事なんで知りたいわけじゃありませんが、Sさん、おやすみ残ってるんですか。突発、多いっすよね。照会対応引き継がれてなかったりするし、参るんだよなあ。」

と言った。私は礼を言ってから、大量の未読が溢れるメールボックスをチェックした。

しばらくして上司がやってきたので「昨日はおやすみありがとうございました」と伝えた。

「おお。」と彼は言った。十時から打ち合わせである。まだまだ未読がたくさんある。

それから何日かして、いつのまにか扁桃腺の腫れはなくなった。腫れがなくなってしまうと、まるで腫れていたことなんてなかったかのようであった。