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いつも考えていること

スケッチ(二十代)

 春すぎて日差しあったかめちゃ眠い洗濯もん干すおかんを見てる、というアホ丸出しの歌が頭に思い浮かんだ時のことを覚えている。ベランダに面したリビングには、春のゆったりとした日が差していて、大学生だったフカミは飼い犬のロンと一緒に日向ぼっこをしていた。だらけることに熱心だった日々。めっちゃ春。
 冬が破れて春になる、突然な一日が毎年やってくる。毎年その日が来ると、アホな歌を思い出す。春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山。
 その駄歌を作ったのは、もう十余年前。もう十回以上も、春になるたび、このことを思い出してきた。フカミと妻の聡子はすることもなく、手持無沙汰にテレビを眺めていた。勝手に録画されていた映画を観たり、観ているうちに眠っていたり。
 少しばかりの責任を負いつつも胃に穴が空くほどではない。この十年で、それらしい表やグラフを作り、それらしい言葉を散りばめ、それらしい説明ができる程度のスキルと知恵を身につけた。問題を先延ばしにするために、とりあえずその場の人間関係をうまく回すこともできるようになった。フカミの所属する会社において、総合職なる職種はそんなものである。二十代前半のフカミは、当初それを上手くやっていける自信がなかったのだが、十年もそんなことばかりやっていたら、いつのまにか慣れ、それしかできなくなっていた。こんなつまらない仕事もない。家に帰って資格を取ろうと勉強することもないし、やる気も起きない。子どもがいれば慌ただしいだろうけど、子どもはいないし。
 それでテレビをぼーっと見たり、長風呂したりしている。
 きっとこれは人生の絶頂期だ。暇であれるなら、暇であれ。
 夜、冷えたビールを飲みながら、宮本輝の短編小説集を読んでいたら、会社に入って一年目、その年の年末に出席した新條の母親のお通夜のことを考え始めた。今のところ、妙典に行ったのは、その日が最初で最後だ。道のりも何も、もう覚えてはない。ただ、唇を真一文字に結んだ新條の横顔がチラつく。無宗教だったから、とお焼香などはなかった。BGMも、サザンオールスターズのオルゴールアレンジだった。列に並び、思い思いに手を合わせた。参列者らは、皆どことなく手持無沙汰にしていた。
 あの日のことを思い出すと、自身の祖母のお葬式、ひいては自身の子どもの頃を思いだす。漠然と……。

 子どものころのフカミは怖いものばかりで、平気なことなんて一つもなかった。
 フカミの初めの記憶は、カーペットの模様を眺めていることだった。床に寝転がって、カーペットの模様を熱心に見つめていた。指で模様をなぞったりした。何を考えていたのだろうか。何も考えていなかったように思う。
 一事が万事そんな調子で、無心になる時が多かった。学校でも、鉛筆や分度器とか三角定規を眺め、頭の中で文房具戦争という架空の戦争を起こしていた。机の上を滑るように動かしたり、空中を飛行機のように飛ばしたりしたかったが、そう派手に動くと同級生から怪しまれる。仕方がないので、それらを眺めながら、頭の中で動かしていた。
 他の子が、熱心にスポーツに取り組んだり、あるいは電車とか車とかに興味を持ったり、ヴァイオリンやピアノなどの音楽をたしなんだり、絵や写真にのめりこんだり、テレビやアイドルにはまったり、本を乱読したりする一方で、フカミは無心でカーペットの模様をなぞり、文房具を眺めていた。他のものに関心がないのではなくて、怖いから見ないふりをして、見られるものだけを見ていたのである。
 二人の友人だけを、きちんと思い出すことができる。今、彼らが何をしているのか知らない。しかし、その一時期、確かにフカミは彼らとそれぞれに交流した。だからフカミは、二人のことをよく覚えている。むしろ、二人のこと以外、大した記憶がないのだ。
 もしも彼らが、過去を振り返った時にフカミのことを思い出すとしたら、フカミは少し嬉しいが、その時があるのかないのか。そのお知らせがないのが、寂しい。
 一人はゴッチ。ゴッチは天然パーマのごちゃごちゃした頭をしていた。後藤くん、頭がごちゃごちゃの後藤くん。で、ゴッチ。ゴッチはクラスで目立つ方ではなかったが、サッカーが上手なので、そういった時は大変に活躍していた。もちろんフカミは、サッカーをしたことがなかったので、そういった時はフィールドの端でもたもたして、やり過ごしていた。サッカーに限らず、というよりも運動に限らず、何につけてもフカミはそんな感じだった。
 三年生の時。フカミは「学校の敷地内で、行ったことのないところに行きたい」という冒険心が燃え上った。たぶん、ようやく大抵のことに慣れてきたから、もう少し怖がりたくなったのだろう。それで手始めに非常階段を上がったら、最上階にゴッチがいた。最上階は図書室の裏側で、「行ったことのない場所」であり、そして誰も来ないところだった。
「何してるん?」
 人影を見た瞬間、フカミは逃げようかと思ったのだが、同級生、クラスメートであることに気づいて話しかけた。
「ここはぼくの場所だよ」
 ゴッチは当然のようにそう言った。ゴッチは最上階の踊り場に堂々と座っていた。周りには、どこから持って来たのか、コンクリートの階段には似合わない砂とか、まつぼっくりとか、何かの葉っぱとかが転がっていた。フカミは振り返って下の踊り場を見てみたが、コンクリートの階段の上にそんな葉っぱやらは散っておらず、それらがゴッチの作為であることは明らかだった。
「どこかから持って来たの?」
 とフカミがそれらを指すと
「うん」
 とゴッチはまつぼっくりを手に取り、それをフカミに差し出して
「投げていいよ」
 と言った。フカミはまつぼっくりを受け取って、非常階段の外側を指しながら
「こっちに?」
 と聞くと、ゴッチはゆっくりと肯いた。フカミが躊躇した様子を見て、まつぼっくりを一つ手に取り、素早いモーションで投げた。何の音もなく、まつぼっくりは消えてしまった。フカミは階段から顔を出してまつぼっくりの行方を追ったが、分からなかった。人の気配はなかったので、誰かに当たったということはないようだった。
 それで安心して、フカミも投げた。めちゃくちゃ遠くまで投げた気がした。
「じゃあ、明日の休み時間、それぞれ何か拾ってこよう」
 とゴッチが言った。それまでの冷ややかな目つきが、仲間を見る目になっていた。
「なんでもいいの?」
 とフカミが聞くと
「できたら、こういう感じの。なんていうか、分かるでしょ?」
 とゴッチは言った。俯いて砂を指でなぞり始めた。話は終わったようだった。昼休みの終わりはまだまだ先だった。校庭ではしゃぐ声が、遠くに聞こえていた。フカミは階段に腰かけ、頭の中でぼーっと文房具戦争の続きに興じた。「行ったことのないところへ行く」冒険のことはすっかり忘れてしまっていた。というか、冒険の目的は達せられたのである。
 休み時間というと、クラスメートは皆、運動場に駆け出すか、教室であやとりでもしているものだったが、ゴッチはクラスにも運動場にもいなかったわけだ。そのことに、クラスの誰も気づいていなかったし、いわんやフカミをや。そもそも昼休みに誰が誰と何をしているのか、クラス内の人間関係に何の関心も知識もなかったのであるが。
 それ以来、昼休みになると非常階段で落ち合い、何かを持ち寄った。ゴッチは草木とか砂とかが好きなようだったが、フカミは釘とか鍵とかチェーンとか、そういったものをよく見つけてしまうので、それらを持って行った。当初、それらに対しゴッチは難色を示していたが、そのうち、うまく配置する術を見つけ、面白がるようになった。
 週明けに踊り場に行くと、風に吹かれたのか、きちんと配置したそれらが乱れていることがあった。そうなると、月曜は修復作業から始まるのだった。あるいは、配置したまま乱れることなく残っていることもあったが、そうした時の方が、何か物足りない感じがした。
 フカミとゴッチは踊り場では話をした。話す内容は「ここにこう置くと町みたいだ」とか「森みたいだ」とか「工場みたいだ」とか、そういう持ち寄ったものの配置の話ばかりだった。交流が始まってからも、教室で話したことはなかった。教室でゴッチの様子を窺い見ていると、ぼーっとしているフカミでもゴッチがクラス内の誰とも大して話さないことに気づいた。ただ、サッカーが上手なので、敬意をもって接されているようだった。
 しかし、そうしたゴッチとの交流は、三年生の一年間で終わった。四年生に上がる時、ゴッチは転校してしまったからだ。お別れの挨拶もなかった。
 四月中旬、ようやく新学年が落ち着いた頃、非常階段の最上階に行ってもゴッチはいなかった。まつぼっくりや釘、鍵、チェーンが端に寄せられていた。砂や葉っぱは散乱して、階段の下に落ちているものもあったし、見当たらないものもあった。三月最後の配置を思い出しながら、フカミは修繕作業に取り掛かった。ゴッチは来なかった。修繕作業を終えて、風と日差しに浸ってぼんやりした。青空に鳥が舞っていて、羨ましいなと思った。
 それから何日経ってもゴッチは来なかった。けれどフカミは、新学期でバタバタしていて来られないのかな、なんて思っていた。のんびりした性格である。ぼんやりしている子どもだった。転校などという言葉を、思い浮かべることもなかった。
 それでもこのままでは四月も終わってしまうから、今日来なかったら直截会いに行こうと腹を決めた。その日も当然、ゴッチは現れなかった。ゴッチがどのクラスになったのか知らなかったので(どのクラスでもなかったわけだが)、すべてのクラスを確認しなくちゃならなかった。聞けるような友人がいなかったのである。
 何気ない様子を装い、隣のクラスの座席表を眺めていたら、親切な子が誰か探しているのかと声をかけてくれた。後藤くんだと告げると、声をかけてくれた委員長風の女の子は「後藤くんは転校したよ」と殊更に不審げな表情で言った。泥棒を見るような目つきだった。たぶん、彼女にとって、同級生の転校情報を一か月もの間知らない奴がいることは、許しがたいことだったのだろうと思う。フカミとしても、たぶん学年で最も親しくしていたはずなのに、最も後に知ったのだから、敗北感みたいなものを感じざるを得なかった。
 翌日、非常階段の最上階に行って、残っていたまつぼっくりを投げ、葉っぱを落とし、砂を蹴散らした。釘や鍵は投げると危ないので、家に帰る途中の道端に、周囲を気にしながらぽいっと捨てた。誰かが見ていて「捨てた」と指さされるのではないか、とドキドキしながら数日間を過ごし、そのうち忘れた。非常階段にも行かなくなった。
 もう一人は三津山。三津山は三角形のおにぎりを思わせる顔の形をしていて、目は逆三角形。鼻も上を向いていて三角形だったし、口も口角が下がっているから三角形だった。無表情だと威圧感のある顔だったから、四月に撮る集合写真などを見ると、悪人のように見えた。母親に「この中の誰と友達なのか」と問われ、仕方がなく三津山を指さしたら、念を押すように「この子と友達なの?」と確認されて、何か疑われているように感じたことを覚えている。
 しかし、三津山は快活に笑い、明るく、よくおどけて人を笑わせることのできる人間だった。顔のそれぞれの三角形が、笑顔になるとバランスよく愛想を生み出す。大人受けの良い人間で、先生に気安く話しかけ、先生も親し気に接していた。
 フカミと三津山が少しばかり接することとなった契機は、そうした三津山の明るさとはまったく別の場面であった。
 それは五年生に上がりたての時だった。お昼休みにみんなが校庭へ行っちゃって、幾人かは教室であやとりなんかに興じていたようなそんな時のことだった。フカミは、相も変わらずぼんやりしていた。教室内で何をするでもなく、どこを見るでもなく、腑抜けたようにぼんやりしていたはずだ。それでも、頭の中ではいろいろな妄想が渦巻いていて忙しかった。もう文房具戦争は終結していた。その頃は、頭の中で万華鏡を動かすように、抽象的に、幾何学模様を想像し動かす、というような、およそ他人には説明できないことをしていた。今となってはその遊びはできないのだが、当時は何の造作もなくその想像ができていた。目の前の景色よりも脳内景色がカラフルだったのである。
 対照的に三津山は、いの一番に校庭へ駆け、天大中小に興じるグループのはずだったが、その日はなぜか教室に残っていた。そして、脳内トリップに忙しいフカミに、三津山は話しかけてきた。突然話しかけられてびっくりしたのを覚えているが、三津山からすれば明らかに声をかけようとして声をかけたのに、びっくりされたからびっくりしただろう。フカミからすれば教室の中に意識がないのだから、驚いて当然であるのだが、とにかく、脳内トリップは中断され、フカミと三津山は初めて話したのである。
「何してんの」
 普段であれば伝える努力を放棄して適当に答えるところだったが、目の前にいる三角形で構成された顔を見ていると、フカミは何か伝わる気がして、
「こう、なんていうか、頭ん中で万華鏡を動かした時の光景を、こう想像して回しててん。分かる?」
 と身振り手振りを交えて言ってみたら、
「ふーん。なんとなく分かる気がする。邪魔してごめん」
 と三津山は殊勝げに答えた。バカにされたりするかもしれないと思っていたから、安心した。三津山は隣の席に座り、足を組んで頬杖を突き、外を眺めていた。大人っぽい仕草だった。フカミは脳内トリップを再開した。
 翌日から、昼休みになると三津山に連れられて校庭に面したベランダに二人横並びに座り、何を話すでもなく、過ごすようになった。フカミは連れられること自体が嫌じゃなかったし、横並びに座ってぼんやりするだけだった。三津山は遠くで天大中小に興じる同級生を見ていることもあれば、何が何でも見ないようにしている時もあった。三津山が何を考えているのか分からなかった。フカミはどちらにせよ脳内トリップできるので、沈黙が続こうが気にすることはなかった。
 ある日から三津山はダンゴムシ集めに執心し始めた。方々からダンゴムシを集めて、足元に転がしておくのだ。きゅっと丸くなったダンゴムシ。当時のフカミは、変な趣味だなくらいにしか思わなかったが、今思えば気持ち悪い。次の日になれば霧消しているので、三津山はまたそこら辺を捜索して、何匹か捕まえてそこらに転がす。飽きたら、ぼんやりに戻る。
 ずいぶん後になって、その頃、三津山がいじめられていたことを知った。しかも、それはクラスメートの誰かから教わったのではなく、母親から聞かされてのことだった。「全然知らない」ととぼけた顔で答えた息子を見て、フカミの母親は深いため息をついて、「このまま大人になってしまうんやろか」というようなことを言った。いじめのことを知った時にはもう、いじめは風化していた。なので、三津山が何をどういじめられていたのかフカミは知らない。ただ、母親の反応もあって、クラス内では周知の事実を知らなかった自分のぼんやりさ加減に、フカミはもやもやした気分になった。
 しかも、そうしたいじめのことを知ったのは三津山との不思議な関係が終わってからだった。そうやって過ごしたのは、二か月くらいだったのだ。梅雨だったか、夏休みだったか、その程度のことでしばらく中断したら、終わってしまった。きっといじめもそんな具合にいつの間にか終わっていたのだろう。
 気がつけば三津山は、またおどけた様子でみんなに溶け込んでいた。三津山がフカミと仲が良かった素振りを見せることはなかった。まったく、以前同様の関係になったわけだ。
 先述したもやもやした気持ちも、二か月くらいで消えた。いや、もっと短かったかもしれない。教室にいても、他人のことを見ている暇がないほど、フカミは脳内妄想を繰り広げていたので、その程度のことは気にしなかったのである。

 怖がりの話をしていたのだった。
 かように、フカミはクラス内のことを何も知らずに過ごしていた。クラス内の事情を知り始めたら、たとえば三津山がいじめられていたという話に遭遇するわけで、これは知らないほうが幸せな事実かもしれない。つまり、何も知らずに橋を渡った後に、その橋が老朽化していて、もう数キロ重い人が渡ったら崩れ落ちていた、と知るような感じ。知ってから渡るより知らずに渡るほうが怖くない。もしかすると、小学生の頃のフカミの過剰なまでの無知は、無意識裡での防衛だったのかもしれない(ゴッチの転校や三津山がいじめられていたことを知らなかったのは、それでもやはり悔しいことであったが)。
 怖がりであるからこそ、怖いもの知らずのように振る舞う。端から怖いものに触れなければ、怖がらずに済む。しかし、暗闇の中を堂々と歩いたって、当たる時は当たるものだろうに。

 そんなフカミの怖いもの知らずなぼんやりした日々は、祖母が亡くなった日に終わる。
その二年前に祖父が亡くなったのだが、祖父が亡くなった時のフカミは、無知力を発揮して、ひたすら宙を眺めていた。母親の手を握り、葬式場の天井を眺めていた。母親が泣いていて、時折父親と一緒にいるように促された。フカミは母親と離れるのは嫌だったが、大人たちの様子を見るとわがままは言えなかった。
 祖父が亡くなった時のことで覚えているのは、母親が一重の真珠のネックレスを探していたこと。
「二重のはあかんねん。不幸が重なってしまうかもしれんから」
 と母親が言っていたこと。しかし、その二年後に祖母が亡くなるのだから、縁起を担ぐことの意味のなさを思う。あるいは二重のネックレスをしていたら、一年経たずに祖母は他界してしまったとでもいうのだろうか。バカらしい。母親がいろいろと重要なものを入れていたレンジの下の引き出しを思い出す。母親の存在の感触みたいなものをくっきりと思い出し、じわりと安堵感がわく。
 そういうわけで、祖父の死に顔は覚えていない。当時は、死んだということをも理解しようとしていなかった。なんとなく、火葬場から立ち上る細く長い煙を思い出したような気がしたが、きっとこれは黒澤明伊丹十三の映画の光景だ。確か、その頃はもう煙の出ない仕組みになっていたように思う。
 祖父はがんを患っていた。肺がんだった。お見舞いに何度か行ったこともあるが、それもまた思い出せない。土日、気がつくと両親が着替えたり、化粧したり、髭を剃っていて、自分としてはいきなり車に乗せられ病院へ連れられた。そこはかとない不快さだけは思い出せる。
母親は、最後にタバコを吸わせてあげたかったと言っていた。そういう類の後悔は、今でもフカミは不得意だ。
 祖母の亡くなった小学六年生というと、ゴッチはいなかったし、三津山はたぶん別のクラスだったし、同じクラスだったとしても関係していなかった。いずれにしても、学校に友だちらしい友だちはおらず、かといって特別に嫌われ、いじめられるようなことはなかった。しかし、いつのまにか勉強ができるようになっていた。それまでは平均的だったはずなのだが(記憶にないが、成績が悪いと怒られたことも良いと褒められたこともなかった)、突然いろいろと分かり始めた。何がどう分かったのか、本人にも分かっていないのだが、とにかくテストで百点ばかり取るようになった。目が開いたと表現するより他ない。
 それを母親が嬉しがって、中学受験専門の塾に通わせるべく、物の試しに入塾試験を受けさせた。するとこれまた良い点数を取ってしまって、一番上のクラスに入れることになった。母親は狂喜乱舞した。たぶん、祖母は入院していた頃で、母親にとって数少ない明るいニュースだったのだろう。
 小学六年生の夏休み前に駆け込みで入塾する人なんてほとんどいなかった。そればかりでなく、いきなり一番上のクラスに入ったので、もともといた生徒たちは冷ややかな目でフカミをにらんだ。今となればその目線の理由はよく分かる。もし今その目線を浴びられるのなら、優越感に浸って楽しむだろう。いきなり、現職である係長から一足飛びに部長に出世するようなことがあれば、ということだが。
 当時は子どもらの目ん玉だけが浮かび上がって、フカミの皮膚を刺しているように感じていた。フカミは、素知らぬふりを決め込み、キョロキョロすることなく黒板だけを真っ直ぐ見つめた。おかげでどんどん成績は上がったが、学校と同じようにここでもまた誰からも声をかけられず、一人だった。
 そのうち塾へ行く道も塾の教室も、慣れて怖くないところになった。先生らは一番前に座っている、特待生のようなフカミのことをすぐに覚えた。人前で指名すると赤面して答えられないから、先生は他の人を指名しつつフカミのノートを覗き込み、正解していたら小さく親指を立ててくれた。それがすごく嬉しかったことを覚えている。
 算数も国語も理科も社会も、パズルみたいだった。一度見たことのある問題はすぐに解けるようになるから楽しい。一度も見たことのない問題をどうやって解くか考えるのも楽しい。難易度が高くなればなるほど、これまで得た知識を上手に組み合わせないといけない。そのうえ制限時間もある。それが心地よい緊張感を生んで、フカミは模試が大好きだった。志望校は常にA判定だったが、そんなことはフカミ自身にはあまり興味のないことだった。何点だったかもあまり気にならない。難しい問題を、楽しんで解けたかだけが気がかりで、うまくいかなかった時には悔しさで泣いてしまったりした。母親はそれを見て、模試の点数が悪かったのかと焦り、慰めたが、結果は別にいつも通りなので「何を泣いてたん?」と不思議がった。「この問題を、もっとちゃんと解きたかった」と言っても、母親にも父親にも伝わらなかった。
 受験勉強にはまったフカミは、土日は一日中塾にいた。授業のない時、他の子はご飯を食べて他の子と話したりしていたが、フカミは空き教室で勝手に自習をしていた。それを見かけた先生が、手の空いている時にフカミのところにかわるがわるやって来て、質問を受け付けてくれた。そのうち、廊下の端の部屋は自習室となり、フカミ以外の生徒もやってくるようになったが、先生らは教室に入るとまずフカミに質問がないか聞くのだった。
 祖母の治療費等お金のこともあったろうに、両親が躊躇なくフカミを入塾・受験させてくれたのだと思うと、胸が重くなる。
 母親は毎日祖母の面倒も見ながら、フカミの晩ご飯を用意してくれ、土日もお弁当を持たせてくれた。一年弱の受験勉強期間で、一度も不自由も感じたことがなかった。それまで何にも熱中しなかった息子が、受験勉強に熱心になっていることを喜んでいたのかもしれない。実際、成績も人に自慢できるくらい良かったわけだし。
 父親は夜遅くに塾まで車で迎えに来てくれた。フカミは車が嫌いだったが、車窓から夜の光景を見るのは好きだった。昼には見られない道路工事が始まっていたり、陽気にはしゃぐ人らが歩いていたり、失意に沈んだ様子で立ち止まる人がいたり。父親は仕事で疲れていただろうに、「調子はどうや」などと話しかけてくれた。フカミはそんな漠然とした質問に答える術を知らないから、「どうなんやろ」などと応えられなかった。そういった父親の、社会的な質問の仕方が嫌いだった。それに、父親は受験勉強をあまり歓迎していなかった。熱中していく息子に、少し呆れている様子もあった。土日に塾へ行こうとすると、キャッチボールしようなどと誘ってくることもあった。断り切れずキャッチボールしている間、解きたい問題が頭をよぎって、ただでさえ嫌いな運動がなおさら嫌なものになるのだった。
 一月末に中学受験を終えて、フカミは上から三つ目の中学校に受かった。上二つは飛びぬけた成績でないと入れないところだから、塾に通っていないのに、一目見た瞬間問題が解けてしまうような余程の天才か、小学校六年間ずっと塾に通ってすべての解法を頭にぶち込んだ努力家か、そのどちらかしか入れない学校であったから、フカミは常人が行けるところでは最上位の学校に入れたことになる。実際、上二つは模試でもC判定だったから、受ける気がしなかったし、過去問を見ても解く気がしなかった。あと一年か二年あれば、と思わなくもなかったが、中学受験で浪人することもできないので仕方がなかった。
 受験が終わり、両親は喜んでくれた。父親は冗談で、一年間の受験勉強で行けたのだから、何年も塾に通わせてしょうもないところにしか通らなかった人に比べて安上がりだ、そういう点では孝行息子だ、と言った。そういう父親の下世話な発言も、褒め言葉だったから、誇らしかった。
 受かったはいいものの、知らない場所へとまた踏み出さなければならないことに、フカミは怖さも感じていた。これから先、生きていくにあたってどうやら知らない場所に行くことばかりありそうだと思うと、先行き暗い気持ちになるのだが、それと同時に、塾通いから入試合格に到る成功体験も得たためか、楽天的な気持ちも少しは身につけた。どうやら自分は大丈夫だ、どうやら何かに守られているようだ、という圧倒的かつ受動的な自信が芽生えたのである。
 大した実力はないが、ある程度ならどうにかなるような感覚。これは、今もってフカミを包み込んでいる。
 そうした受験狂騒曲が終わった時、祖母が亡くなった。二月末のことである。
 学校から帰ると、両親ともにあれしなければ、これしなければと独り言あるいは話し合いをずっとしており、電話は頻繁に鳴るし、大騒ぎだった。二年前の経験があって、ある程度やることは分かっていたのだろうけれど、それでもバタバタしていた。フカミの入学準備もあったし。
 寒い二月だった。確かフカミは二年前にも着たブレザーを着た。ずいぶん体に合わなくなっていたような記憶があるが、今考えてみたら、小学四年生の時に着ていた服を小学六年生が着られるとは思えない気もしてくる。
 葬儀場やら、親戚やら、見知らぬ人やら、二年前と同じようなことがまたしても始まった。二年前はぼんやりと母親の手を握っていたが、その時、フカミはそれまで自分を包んでいたぼんやりから抜け出したことをはっきり自覚した。
 つまり、怖いよりも先に、状況に合わせて動こうとする自分が現れて、周囲をキョロキョロと見渡し、自分がどこにいれば邪魔でないかを考え、もう高校生だった兄の振る舞いを観察し、少し真似たりして親戚やら見知らぬ人に声をかけられれば微笑みで応えたのである。母親に「お父さんと一緒におって」などと言われることは一切なかった。
 そんなフカミを見て、伯母は「すっかりKGボーイやね」と涙と笑い交じりに言った。KGボーイとは、フカミの合格した学校に通う男の子らの愛称である。
 それが中学生になるから故の自覚の芽生えだったのかなんだったのか、今となってはあまり分からない。「人生で最初の記憶は?」なんて話題があったりするが、フカミにしてみれば、それがこの小学校六年生の時の祖母の葬儀だったような気もする。それ以前の記憶は、靄でかすんだ具合、神話に近い偽の記憶のように感じられるのだ。
 その時から、怖いものから逃げようとする気持ちが消えて、乗り越えようとする態度を取るようになったように思う。だから、入学式も、自己紹介も、初めての英語の授業も、体験入部も、怖いのだけれど、乗り越えられた。むしろその一つ一つに感じただろう怖さを覚えていない。楽しかった記憶もないが、なんとかなったという感触だけははっきりしている。

 祖母はクリスチャンであったので、葬儀は毎週通っていた教会で行われた。フカミが合格した学校はキリスト教教育の学校であった。フカミに記憶はないのだが、病床の祖母はそれを大変喜んだと言うから、最期に祖母孝行できたわけである。
 教会のことを思い出そうとすると、あまり心地よい気分にはならない。古く、ぼろぼろで、照明は暗く、隙間風が入り込んで寒かった。どうしたって好きになれなかった。
 かつてはモダンな建物だっただろう面影は認識できるのだけれど、一面を覆っている漆喰はところどころ剥げ、端々にひびが入っていた。蔦が絡まっていたら少しはおしゃれな洋館に見えたかもしれないが、なんというか、とにかく汚い壁だった。砂っぽい感じがした。いつだったか、母親に見つからないように壁をこすったことがある。ぽろぽろと壁が削れ、落ちた。このまま頑張れば、この建物を壊せる気がして、怖くなった。
 フカミはここ以外の教会を知らなかったのでそれを立派か立派でないか分からなかったが、今思えば、きっと何か由緒正しい建物だったのかもしれない。
 玄関をくぐると、外と続く廊下があって、奥が礼拝堂だった。廊下の左手に小さな部屋があって、ガリ版のような質感の印刷しかできない古ぼけたコピー機があった。小学校でもらうプリントとは全然違う手触りで、安っぽく、読みにくかった。右手には、調理場があった。学校の給食室のような調理場なのだが、とにかくすべてのものが古く汚かったから、そこで何かを食べる機会があっても、まったく嬉しくなかった。いや、できるなら避けたかった。礼拝堂は外とつながっていたから、外気が入り込んで夏は暑く冬は寒かった。お年寄りの信者も多いのに、どうやって乗り越えていたのだろうか。クリスマス礼拝の時など、イエスの生誕を聞きつけた羊飼いたちと同じ寒空の下にいるような気分になったものだ。
 二階に畳の部屋がいくつかあったはずだが、間取りなどはまったく覚えていない。いつの記憶か定かでないが、アトピーを持った信者の男性に二階に連れられたことがあって、それは子どもを親から引き離そうとかいう悪意ではなくて、親切に建物を案内してあげようというような話だったと思うのだが、幼いフカミは一歩目からもう嫌な気持ちでいっぱいだったし、照明のない暗い階段を上がるのも嫌で、階段を登り切った時に見えた二階の汚さや暗さに怖くなって、わっと言いながら駆け下りた。その時には部屋の中は見なかったが、何か別の時に各部屋をのぞかせてもらったはずだ。一部屋は青年部が占領していて、運動部の部室のように汚らしく使っていた。漫画や誰かのパンツなどが散乱していて、一歩たりとも入れなかった。もう一部屋は婦人部のもので、その部屋だって古い紙がそこここにあって、キレイなものではなかったように記憶している。どちらの部屋も畳の部屋で、キリスト教と畳が結び付かなかった。今思い出してもやっぱりどこか怖い気持ちになる。
 祖母の葬儀の日も、教会は暗かった。歩く度に木の床がギシギシ鳴った。コートを羽織ったまま参列してもいいのではないかと思うほど寒かった。祖母は友人が多かったから、たくさんの人が来た。六人掛けの席に七人で座り、寄り集まって暖を取った。賛美歌「神ともにいまして」を歌った。歌を歌うと、体が暖まるように感じられた。
 葬儀の後だったか前だったか、フカミはダイちゃんとマコトちゃんと三人きりになったことを思い出す。
 それがどういうタイミングだったか。両親も兄もおらず、なぜダイちゃんとマコトちゃんと三人になったのか。教会のどの場所だったのか、何も思い出せない。どんなような向きで三人が話したのかも、描き出すことができない。そればかりか、会話そのものもはっきりと覚えているものがない。とにかく漠然と、三人が一緒の空間にいたことを思い出せる。
 たぶん、ダイちゃんもマコトちゃんも口下手であったから、何か饒舌に話したと言うことはないのだ。また、フカミにとっての祖母は、マコトちゃんにとって母親である。その時、マコトちゃんがペラペラしゃべるわけもない。
 しかしながら、三人は確かに話した。耐えがたい沈黙などはなかったと記憶する。あるいは沈黙でも問題なかったのか。フカミは、その日、大人のように振る舞っていたが、その時もまた大人のように振る舞ったはずだ。
 マコトが十二歳。ということはダイちゃんが二十四歳くらい、マコトちゃんが二十九歳、のはず。

 テレビで「タイーヤマルゼン、ホイールマルゼン」と歌いながら、当世風の若者らが笑顔でタイヤを転がしているCMが流れると、フカミはダイちゃんのことを思い出す。
 ダイちゃんは自動車の整備工だからだ。
 CMで歌うその当世風の若者たちの白い歯をちらりと見せた笑顔、というかスマイルは、フカミの覚えているダイちゃんの笑顔、困惑したような、弱々しい笑顔とは異なるものだけれど、ただ自動車に関連しているという一点だけで、結び付いてしまう。
 ダイちゃんはフカミの記憶では、いつもすでに大人だった。野球選手みたいな、人の好さを感じさせる顔立ちだった。口数が少なく、ダイちゃんが自身に関する話をしているところを見たことがなかった。親戚の集まりではいつも母や祖母、母の従妹とか女性らが中心になって話しているから、それを十パーセントくらいの笑顔で黙って聞いているイメージだった(ダイちゃんだけでなく、どの男性も皆そんな感じだったが)。押入れから懐かしのものを出そうなんて話題になったら、力仕事要員として使われる人だった。
 ダイちゃんを思い出すと、関連して一枚の写真が思い浮かぶ。その写真はきっと実家に数十冊とあるアルバムのどこかにあるはずだ。フカミが思い浮かべているイメージと、寸分たがわぬものがどこかに挟まっているはず。
 その写真は、ダイちゃんが餅つきをしている写真だ。臼に杵を打ちつけながら笑顔でカメラの方を向いている。餅つきをしながら一言ギャグを言うクールポコというお笑い芸人がいたが、そのギャグを言う時の感じだ。まあ、あんな気合の入ったポーズではなく、もっと緩やかな空気が流れている。
 場所は、あれは祖母のお姉さん、つまり母にとっての伯母の家だった。大叔母の家には広い庭があった。ブランコやシーソーがあるほど広い庭だった。祖父が亡くなった年まで、毎年その庭で餅つきをしていた。つきたての餅を縁側で丸める作業をしたことを、フカミは薄ら覚えている。
 祖父の死とともに、祖母も臥せったため、毎年のイベントはなくなってしまった。その代わりに、餅つき機という炊飯器みたいな機械を近隣住民で共同購入して、各家庭で持ち回りに餅を製造したものだった。
 そのイベントがなくなると、お正月の親戚の集まりも悪くなったような気がする。祖父母の死だけでなく、年長世代は軒並み体調を崩しやすくなっていた。両親らの世代も、仕事や看病で日々の疲れがたまり始め、その下の世代も仕事が忙しかったり、友人らとの遊びを優先したりし始めた。
 今となってはもう、親戚の集まりなんてなくなった。フカミももうしばらく帰省していない。しばらく、というのは五年くらいのことである。気づけば、そんな間帰っていない。
 そう言えば、臼を挟んでダイちゃんの向かい側に、水をつける係として父が写っていた。父からすれば、親戚付き合いの盛んな母方の集まりに参加するのは、それほど楽しくないことだったのかもしれない。もちろん、写真には笑顔で写っているのだけれど、父親の気質を考えれば、きっとそうだったろう。家に帰ってからお酒を飲み始め、こたつで寝てしまう姿を思い出せる。
 ダイちゃんは、当時爆発的に売れたユニクロのフリースを着ていて、父はどう考えても不格好な、妙にもこもこしたダウンジャケットを着ていた。冬場の写真にはいつもそのダウンジャケットを羽織って写っているのだが、何を気に入っていたのだろうかと思うくらい不格好なダウンジャケットだった。そしていつだったか記憶にないが、何かの拍子で破けて捨てた。
 昔のカメラで撮った写真だから、全体にうすぼんやり褪せている。デジタルで取る今の写真にはライブ感というのだろうか、動いている感じ、生きている感じがあるけれど、その頃の写真はどれも、時間を静止させて無理矢理印画紙に押し込めたような不思議な感じがある。写真が発明された当初、魂が取られるなんて噂が流行ったそうだが、その気持ちはよく分かる。フィルムの写真にはどこか、時間を切り取った感じ、現実の一部を無理に押し込めた感じがあって、どことなく怖い。今の鮮明なデジタル写真には魂を奪えなさそうだな、と思う。そういえば、最近iPhoneで写真を撮ったら、シャッターを押す前後一秒を動画として保存するらしく、撮った写真を見返したらふっと動いて、驚いた。そうした機能がなくても人間は、写真を見たら前後の文脈を思い出すものとは思うし、思い出せない程度の記憶は前後一秒動こうと関係ないのに。だから、少し写真が動くことに、どことなく悲しさ、いや魂を取られるよりも怖い感じがした。その写真の中で永遠に生きさせられるような気分、という感じ。
 つまり、ダイちゃんと父親は、時間を切り取られたような感じで写っている。魂を紙に焼き付けられたような感じで、ぴったり止まっている。たぶん、その頃のダイちゃんは十代後半。父親は、三十代後半くらいだったろう。二人とも、今と変わっていないような、すっかり変わってしまったような、どちらとも言うことができない。
 フカミとフカミの兄を筆頭に、従兄弟姉妹らも同じくらいの年齢の小学生だった。子どもがたくさんいた。今、その時の子どもらが、その時の両親と同じくらいの三十代になっているのだが、フカミに子どもがいないように、他の従兄弟姉妹らにも子どもがいない。フカミの兄にようやく三歳の娘がいるくらいだ。そうだ、ダイちゃんにも子どもがいたはずだ。でも何歳になったのだろうか、フカミにはぱっと思い浮かばない。
 その写真の頃のダイちゃんはたぶん、自動車整備工になるための専門学校に通っていた頃なんだろうと思う。あるいは、まだ高校生だったのだろうか。
 ダイちゃんが整備工になろうとしたきっかけは、ダイちゃんから聞いたことはないが、たぶんダイちゃんの父親がトラックの運転手だったからだろう。ダイちゃんの父親について思い出そうとすると、まずは大叔母、通常「ばあば」について思い出さないとうまくいかない。
 そして、ばあばについて思い出そうとすると、どうしてもまずはばあばの死から思い出さざるを得ない。
 ばあばは、フカミが就職して一年目の頃に亡くなった。七十歳くらいだったんだろうと思う。平均寿命からすれば若かったのかもしれないが、ばあばにとって妹、弟であるフカミの祖父母らは六十代前半で亡くなった。フカミの親類に、八十歳を越して生きている人はいないから、ばあばは比較的長生きだったと言われた。
 ばあばの葬儀で、誰も泣いていなかったのを覚えている。
 フカミの母親がそれに怒って、ぷいっと外に出ていなくなってしまった。母親の姿がないなと思って、フカミが外へ出ると、母親は車に乗っていた。窓に頭をよりかけて、前方遠くを虚脱した目で眺めていた。泣いてはいなかったが、怒りとあきらめがわき上がって混乱しているようだった。
 母親は、ばあばの看護をしていた。昔ばあばにお世話になっていたから、と疲れた顔で母親は言っていた。ばあばが六十代後半になってから、先述のとおり親戚の集まりが減った。息子夫婦や孫(つまり、ダイちゃんの両親やダイちゃん)との交流もどんどん減っていたらしい。それが悪かったとは言わないが、気付かぬ間に認知症の症状が出始めて、そして一年経たぬうちに症状はひどくなった。もの忘れが激しいどころの話ではなく、何を言っても覚えていないくらいだったし、起きている間は四六時中何かを探していた。ずっと「盗られた、盗られた」と困っていたが、何を盗られ、何を探しているのかは誰にも分からなかった。外に出ることも難しくなっていたため、徘徊がなかったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。餅つきをした広い庭のある屋敷は、障害物も多く、躓きやすかった。家の中でさえも、あまりうろうろできないように、軟禁めいたことさえされていたのは可哀想だったが、仕方のないことだった。
母親は毎日とはいかないが、二日に一度は様子を見に行き、下の世話をしてあげたり、妄想に付き合ったげたりした。どうして、ダイちゃんの両親は来ないのだろうと憤慨したこともあったし、ダイちゃんの両親に介護するよう直接伝えたこともあった。どういった事情があったのかは知らない。
 ばあばの死因も知らない。誰がどうやって見つけたのか。脳が縮み、そうでなくとも把握不可能なこの広い世界が、途方もなく手に負えない大きさになっていったのだろうと思うと、怖い。
 フカミは自身の幼少期の怖がりぶり、なるべく自分の手に負える範囲を越さないようにしていた日々を思い出す。その時、フカミはもし何かが見つからなかったとしても、探しはしなかっただろう。なぜなら、探すためには自分の認知している世界から一歩外に出ないといけないから。そんな勇気は、幼いフカミにはなかった。今のフカミなら、大抵のことは平気だから、平気に探し物もできる。人に尋ねることもできる。しかし、将来、ばあばと同じように脳が縮み、怖がりを取り戻したら……。それでも、かつて(つまり今)のように、探せる自信の記憶が残っていたら……。そうなれば、きっとフカミもばあばと同じように、いつまでも探し続けることになる。その探し物は、見つかることがない。何とも怖ろしいことだ。
 ばあばは四十代で年上の夫に先立たれた。祖父母同様にばあばとばあばの夫も教師だったらしい。ばあばは遺族年金をもらいながら教師を続け、ダイちゃんの父親を育てた。
 ダイちゃんの父親は教師の息子でありながら、勉学の出来は悪かったが、スポーツ万能だったそうだ。高校生まで野球をし、一人で投げて打って、地元の弱小中学・高校を地方大会の決勝まで導いた。そのあたりではちょっとした英雄だったらしい。そのままスポーツ推薦で有名私立大学に行った。そこではそれまでのように活躍することはできなかったらしい。四年生でようやく試合に出られるようになり、公式戦でいくらか打った。プロから声がかかるようなこともなく、スポーツ選手としての人生は幕を閉じた。どのような経緯があったのかは知らないが、フカミにとってはトラック運転手のおじちゃんである。
 ダイちゃんの父親は、ダイちゃんとよく似た人のいい顔をしている。トラック運転手の職を気に入っていて「しんどいけれど、疲れたってことはないね」とよく分からないこと言う。下戸だから飲酒運転はできないし、できるだけ長く運転を楽しみたいからスピード違反もしないのだ、と笑って言う。
 ばあばは息子の運転手という職業も、孫の整備工という職業も、どちらも彼女の人生に馴染みのない職業だったから、あまり嬉しくなかったらしい、とフカミの母親が言っていた。
 自動車の整備工になるために専門学校へ行き、どのような資格を得、どのような経緯でその会社で働き始めたのか、すべてフカミは知らなかった。そしてほとんど車に乗らない身としては、国道二号線沿いにあるその整備工場がどのようなものかも、ピンとこない。ただ、父親は数年に一度の車検になると、そこへ行く。少しばかり安くしてくれるそうだ。
 フカミはその仕事がどれだけ大変か知らない。想像するのは、車の下に潜り込んでいる姿くらいだ。フカミには、三日も持たないだろう。自動車に興味がないのか、整備に興味がないのか、工具に興味がないのか、潜り込むことに興味がないのか、考えてみれば、どれにも興味がない。
 トルストイなんかが靴職人の話を書いたりするが(別に時計職人でも仕掛け人形の職人でもなんでもいいのだが)、工房にこもり技術と向き合うことは、憧憬すれど自分には向いていないように思われた。手先が不器用とか目が悪いとかそんな理由ではなく、致命的なことが欠けているに違いない。つまり、たぶん、根気とか情熱とか、そういうもののことだ。
 日々体を動かしている人らしいがっちりした体格が、喪服であっても分かる。週に一度しか休みがない、と聞いたのはいつのことだったか。
 灯りの少ない教会のどこかで、ダイちゃんがいつもの困ったような笑みを絶えず浮かべていたことを思い出せる。記憶の中のダイちゃんは、声を発してくれない。
 その横に、やはり気弱な顔をしたマコトちゃんがいる。
 マコトちゃんは母の、十歳以上離れた弟で、フカミにとって叔父である。特に幼少期のフカミにとってマコトちゃんは、いつも不機嫌な顔をしたおっちゃんであったが、今思えばまだその頃は「兄ちゃん」くらいの年齢で、おっちゃんと呼ぶには早かったのだろう。
 今振り返れば、その頃のマコトちゃんには、ハスビーンの憂鬱が漂っていたのだと思う。
 これは母親の言葉なのだが、年の離れた弟を両親(フカミにとっての祖父母)はとても可愛がり、何でも買い与え、塾や習い事にもたくさん行かせた。母親は、何も買ってもらえなかったし、塾や習い事にも一切行かせてもらえなかったから、すでに大人と言われる年齢になってからも、常にどこか不満を抱かずにはいられなかったらしい。そうやってぬくぬくと育ったマコトちゃんは、関西ではまあまあな大学に入った。フカミの大学と同じくらいのレベルのところである。さらにマコトちゃんは半年ほどアメリカに留学した。母親は祝福しつつも、自分なんかパスポートすら持っていない、新婚旅行は沖縄だった、と腹が立ってしょうがなかったらしい。十代のマコトちゃんは、想像するに自信満々、絶好調、上り調子の人生だったようである。
 十代後半頃のマコトちゃんの写真を見ると、革ジャンを羽織り、猫背で、ポケットに手を突っ込み、カメラをにらんでいる。十代のマコトちゃんと接したことはないのに、フカミはマコトちゃんを思い出す時、その十代のマコトちゃんを思い出さずにはいられない。母は弟であるマコトちゃんのことを「あの子は頭がいいのに、愛想がなくて損してる。アホや」などと愛おしげに言う。ちょっと年の離れた弟を、フカミら兄弟の長男のように思っているのである。
 そんな十代を過ごしたマコトちゃんが数年後に何故、ハスビーンと化したかと言えば、初めに就職した会社でパワハラを受けて精神を病んだためである。
 その会社が、何をしている会社なのかは、聞いたことがない。パワハラの内容も知らないし、当時はパワハラなんて言葉はなかったはずだから、たぶん「職場の人間関係に悩む神経の細い青年」みたいな扱いをされていたのではないだろうか。
 母親曰く「絶対にその会社の人達が悪いのだけれど、そうやっていじめられるようになったマコトちゃんにも悪い部分があった」そうだが、これは月並みな「いじめられる人にもいじめられるような要素があるのではないか」という加害者の理論であるから、あまり参考にならない。あるいは積年の鬱憤が言わせている言葉であるから、真に受けられない。
 たぶん、居場所を間違っていただけだ。いるべき場所は誰にも与えられていないけれど、いるべきでない場所は確実に存在して、けっこうな数の人がなぜかいるべきでない場所にいて、しかも、わざわざそこに留まろうとする。
 祖母の葬儀の頃には鉄道会社のコールセンターで、契約社員として勤め始めていたはずだが、その前数年の間、無職の時期があった。その無職の頃のマコトちゃんが小学生のフカミには記憶されていて、十代の頃のマコトちゃんを思わせるとげとげした雰囲気なのだった。誰とも目を合わせないし、誰とも話さない。いたたまれないようにぷいっと帰るが、誰も引き留めなかった。フカミも、きっとその他の親戚たちも、マコトちゃんが帰るとほっとした。
 今も続けているコールセンターでの仕事が、マコトちゃんの性に合っているのかどうかは知らない。「こちらはコールセンターです。お忘れになりましたものについて、時間、場所、特徴などをお知らせ願います」とかなんとか言うのだろうか。そして、駅や倉庫に問い合わせたりするのだろうか。
 フカミの両親には、契約社員という形態が信じられないらしい。今でも「正社員になれないのか」「突然契約を切られたりするのか」などと本人を問い詰める。確かに、この十余年、給与がほとんど上がっていないそうだから、契約社員という働き方は正社員より不利な部分がある。正社員であれば、昇給及び昇格により右肩上がりの収入が、伯父の場合は平行線であったわけで、物価の上昇や家庭の状況の変化を考えれば、相対的に収入がダウンしていると言えるかもしれない。鉄道会社が遺失物にどれだけお金をかけるかは、時の経営状況に左右されるだろうから、いつ雇止めになってもおかしくないのは確かだろう。
 フカミもそうした働き方、いや働かされ方に嫌気というか、嫌悪感みたいなものを感じる。フカミと同じ年齢の人間は、統計的にも正社員願望が強いなどと言われたもので、フカミも正社員でなければヤバい、という強迫観念めいた感覚を強く持っていた。同期の多くが転職などせず倒れるまで働く一つの原因にそれを上げることもできなくはないだろう。自分の働きたいように働くなんてことは、無理であることを少し上の年齢の人達が証明してくれたとも言える。あるいは、そもそも働きたくないのに働く以上、下手に使い捨てられないようにしなくちゃならないと、フカミや同じ年齢・年代の人間が気づいたと言うべきか。
 フカミは大学三年生の秋から冬にかけて、名前を知っている企業の総合職募集に向けて、エントリーシートを片っ端から送りまくった。適当な志望理由を書き連ね、自分の長所・短所などといったよくある項目は適当に使い回した。
そんなやっつけなエントリーシートでも大学名がそこそこなら大抵のところはとりあえず進めたから、面接でも、直前にホームページを読み返し、適当なことを話した。そんな適当な就活に騙されたのは今の会社だけだった、というわけで、フカミは今の会社に就職した。おれおれ詐欺みたいなものだと思う。数打ちゃ当たる、百社近くもあたれば、どこか一社くらいは騙せる。
 それでも四月一日に一斉に選考試験が始まり、想像した以上に駆けずり回らなければならなくなった時の暗澹たる気持ちは忘れられない。連日、二、三個面接を受ける。どんどん落ちる。パチンコ玉が無為に吸い込まれていくのは、こんな気持なんじゃないだろうか。少し肌寒い春の空気。ビルとビルの合間に孤独に立つ木。生温い風。終わりかけの花粉症らしい学生が、くしゃみを連発する。
 移動しては面接、面接しては移動する。数うちゃ当たったとはいえ、すべて間違っていたような気がする。今の会社だけを受けていればよかったような気がする。どうせ他の会社に上手く潜り込んだって、すぐに化けの皮が剥がれていたに違いないのだから。
 先述したような小手先だけ就活に騙される今の会社では、化けの皮をかぶり続ける必要もない。悪党に抱くような恩義と自らを嘲笑するような不安を感じずにはいられない。自分はどうやら、いるべきでない場所にはいないと思う。なんだかんだ、居場所を、席を確保したようだ、と。
 マコトちゃんに話を戻せば、つまり、その頃のマコトちゃんは(仕事に関しては今もかもしれないが)不遇であった。一回目の結婚も、一回目の就職とともに消え去ってしまった。
 フカミが小学校一年生の時に、マコトちゃんの一回目の結婚式があった。二回目の結婚式は、実際には催されなかったのだが、しかしその結婚式を一回目と呼ぶのは間違っていない。どこかのセレモニーホールみたいなところだったような気がする。ふかふかした絨毯の上を小さな革靴を履いて歩いたことを覚えている。そして、高砂から最も遠い円卓に、両親と祖父母らと座っていたように思う。いや、しかし両親の姿も祖父母の姿もまったく浮かんでこないのはなぜだろう。料理を食べた記憶もない。ただ、そうしたところの特有の装飾の施された取っ手がついた扉のことを覚えている。ひんやりとして、開く度に何かが入り込もうとしているような感じがした。扉の向こうには、別の披露宴や何かに参加するため、うろうろしているスーツ姿の男の人が歩いていた。絨毯が向こうまで続いていて、RPGゲームの迷宮のようにどこまでも続いているようだった。覚えているのはそればっかりで、式次第も覚えていない。いや、マコトちゃんとその時のお相手の顔も思い出せない。
 それから十数年後、マコトちゃんは職場で出会ったというタエコさんと結婚し、子どももできた。十数年の間、親戚一同はマコトちゃんに対し異口同音、「いつまでもプラプラしてたらあかんよ」「もうそろそろわがままも止めなあかんで」と諭していた。
 マコトちゃんはそうしたお説教が一段落し、ご飯も大抵食べ終えたらベランダに出て、煙草を吸っていた。喫煙者だった祖父が亡くなり、その他の親戚らもいつのまにやら禁煙していて、そうやって気の向くままにタバコを吸う姿も、どこか不評だった。母親はマコトちゃんの離婚の原因を喫煙に求めたり、あるいは相手が自分勝手だったのだと言ったり、フカミに対して様々なことを言っていた。
 生まれたばかりの赤ん坊を見に、祖父母のいなくなった祖父母の家に行くと、赤ん坊を抱っこし、幸せそうな顔をしているマコトちゃんに出迎えられた。フカミはマコトちゃんのそんな影のない笑顔を初めて見た。
 祖母の葬儀のあの日、マコトちゃんは悲しんだ表情ではなく、諦めたような弱々しい笑いを唇の端に浮かべていたことを覚えている。
 その時、マコトちゃんがどのような気持であったのかは分からない。もしかすれば、自身の(自身に起因することばかりではないものの)ふがいなさを責める親がいなくなったことへの、ある種の安堵があったかもしれない、と勝手に想像してしまう。
 自分がそのような境遇であれば、親の死が、少しばかりの休息になるだろう、とフカミは思う。かといって、マコトちゃんが喜んでいたとか、悲しんでいなかったとか、そういう余計なことを言いたいわけじゃない。
 その日の三人の時間が特別だったのか、なぜフカミの記憶にあるのか、定かじゃない。
 ただ、なんとなくの愛着を二人に抱いている。あるいは、自分の性分や生き方が二人、いや二人だけでなく、周囲の親戚ら誰とも違うという形ではっきり感じ、そして感じ始めた一つのきっかけだったからかもしれない。使われるでもなく、自分らしさを求めるでもなく、しかし損することもないように生きる、という生き方を。
 祖母の葬儀後、フカミは中学へ進学し、それまでの漠然とした小学生時代から打って代わって、はきはき過ごした。友人らしい友人もできたし、勉強にも勤しんだし、下手ながらテニス部に所属した。高校では生徒会活動に参加し、大学ではテニスサークルに所属した。しかし、その十年間で知り合った人らとは誰ともつながりがない。結婚したり、子どもができたり、出世したり、起業したりしていることだろうが、フカミにはうかがい知ることもない。
 
 新條は乳がんで母親を亡くした。まだ五十代前半だった。新條の横顔を思い出す。二重の目が、酒を飲んで眠たくなった時のように重たげで、分厚い下唇や尖った鼻、引き締まった顎も、いつもなら軽快な笑みに使われるのにその日は鈍重な、無用の長物のように映った。
 新條と会うのは二年ぶりだった。新條は二年前から他社へ出向していた。これは、期待されていないとか厄介払いとかではなく、他社へ出しても問題ない振る舞いができる、と人事部から判断されたためであって、フカミなどには下りない辞令だった。横浜に本社のある会社へ出向していたため、少なくともフカミと新條は、この二年、疎遠になっていた。出向は二年を期限としているため、今度の四月で帰ってくるのだろう。そうなれば、また飲みに行ったりもするだろう。
 新條とは、研修所の大浴場で初めて会話した。フカミは研修所で、大抵一人で行動していた。他に二十人ほどいる同期らと、一緒に過ごす元気がなかった。環境の変化に戸惑っていることもあったのだろう。小学校の時のように、気づけばいつも一人でいるのだった。はみ出されたのではなく、自分からはみ出ているのだった。
 新條は社交的で、同期らと上手くつるんでいたから、フカミとの接点はなかった。しかし、どうやら新條は長風呂が好きだったので、フカミも長風呂をする人間だったから、始めは数人いた大浴場で、二人きりになったのである。
 研修施設であるからさすがに水風呂はなかったため、フカミは度々お湯を上がっては、カランで体を冷やし、椅子に座って休憩していた。それを二回ほど繰り返し、三、四十分も風呂場にいた頃である。新條が浴槽から少し身を乗り出し、
「ずいぶん長風呂するね」
 と声をかけてきた。関東の言葉だ、とフカミは思った。
「風呂が好きやねん」
 と答えると、
「東京にはいっぱい銭湯があるぞ。関西がどうなのか知らないけど」
 と新條は得意げに言った。フカミは銭湯にはあまり行ったことがなかった。実家の周りにもあったのだろうけれど、スーパー銭湯に行くことはあっても、そうした町の風呂屋には行かなかった。
「社宅の近所にもあるやろか」
「たぶんある」
 風呂上がりにフカミと新條は研修所を抜け出し、近くのファミレスでビールを飲んだ。新條を通じて、ようやくフカミも同期らと話せるようになった。その恩は、十年経った今も忘れていないつもりだ。
 社宅の近く、と言っても自転車で十分弱、一駅分ほど走ったところに銭湯があった。こぎれいな銭湯で、百円追加すればサウナに入れた。新條が、同期と遊びに社宅へ来た次の日、わざわざフカミを尋ね、一緒にサウナに入ったことも何度かあった。
 そう言えば、フカミの結婚式の日も、新條とスーパー銭湯に行った。
 五年前のことだ。会社の後輩であり、出身地が同じ聡子とフカミは結婚した。聡子はフカミより一年後に入社したので、後輩なのだが、大学時に留学して一年ダブっていたから、同い年である。
 聡子が入社してすぐの六月頃に開催された、若手だけの飲み会で初めて話した。大した話をしたわけではない。出身地の話をしたわけでもない。けど、なんとなく気が合った。連絡先を交換して、七月半ばにはお付き合いを始めた。七月頭に二人で飲んだ時、向かい合ってどうでもいい話をしているだけなのに、相手の好意を感じるとともに、自分も相手に対し好意を発している、とやけに冷静に感じた。
 しかし、会社の後輩に手を出したなんてのはあまり嬉しくないお話だとフカミは感じたので、周囲には言わずにいた。にもかかわらず、付き合って二年経った頃には周知の事実となっていたみたいだった。フカミが、周知の事実となっていることに気づいたのは、それからしばらくしてのことだった。どうやら周囲も気を遣って、知らないふりをしていたみたいだった。

 それがきっかけというのではないが、その頃、フカミは結婚を考え始めた。とにかく聡子とは気が合った。観たいと思う映画が一緒なら、その映画の感想も同じ、という具合。時折少し違った感想を抱くと、それが楽しかったり。何をしても、一緒にいられれば楽しいというような。
 結婚を考えている旨を告げるとすんなり同意を得られ、結婚することになった。同意を得たのはカフェで駄弁っている時だったが、それをプロポーズとすると、聡子も白けてしまうだろうと思い、後日、念のため高いレストランを予約し、花束を用意した。それを聡子は気障だと笑った。プロポーズした帰り道、フカミはどこかで定期券を落とした。定期券はすぐに再発行できたが、十年前に母親が買ってくれた定期券入れは見つからなかった。
 両親への挨拶や式場の予約、新居の選定といったことを進めていると、人生がスタートしたような気持になった。一人暮らしをしていた間、もしかすると生きた心地がしていなかったように思えてくる。
 その五年前の挙式に、新條はわざわざ神戸まで来て、フカミの挙式に参列してくれたのである。
 親戚と友人だけを呼んだ小さな会だった。聡子は親しい友人らと同期の数人を、フカミも中学から大学にかけて親しくした数人と新條を呼んだ。三十人程度の、こじんまりとした結婚式・披露宴だった。
 山の上のチャペルで、かつての先生に牧師を務めてもらった。披露宴はチャペルのすぐそばにある旧外国人邸宅を使い、ホームパーティのようだった。新緑溢れる五月のこと。木々が青々と茂り、風が吹けばさらさらと葉の擦れる涼やかな音を立てた。
 披露宴の最中に、宇多田ヒカルの『花束を君に』を流したことをよく覚えている。

花束を君に贈ろう
愛しい人 愛しい人
どんな言葉並べても
真実にはならないから
今日は贈ろう 涙色の花束を君に

 結婚式らしくない曲ではあったが、聡子と朝を迎えたある日、テレビを点けたらこの歌が流れ、とてもいい曲だと思った。聡子も歌いだしの「普段から~」というのを、何気なく、時折呟いたりしたものだった。
 親への手紙だとか友人の余興だとか、そういうものの一切ないのんびりとした披露宴だった。フカミも聡子も友人や親せきとお話をして、笑い続けていた。特別な一日だった。
 新條は同じテーブルになったフカミの友人らと、まるで旧知の仲のようにコミュニケーションしていた。時折、聡子の同期らとも話をしていて、フカミは安心した。
 夕方の五時過ぎに披露宴は終わった。親戚らを見送って一段落ついた頃、着替えようと控室に戻ったフカミにメールが届いた。新條から「二次会だ!」というメールだった。フカミはお礼も兼ねて行くことにした。聡子は聡子で、友人らが待っているらしく、別行動となった。
「神戸は分かんないな。どこかいいところないの」
 どこかで着替えた新條と三宮で落ち合い、フカミが大学生の時によく行った適当な居酒屋へ入った。懐かしさを覚えつつ、大学生の時にその時の友人らといた場所に新條といることの不思議さを感じた。
 新條は「結婚式ってもっと格式ばっためんどくさいものだと思ってた。こんなゆるい感じだったら楽しいから、何度でも出たい」と口を極めて褒めてくれた。「上司も呼ばず、親も出しゃばらず。他ではなかなかできへんよ」とフカミは自嘲気味に言った。以前、兄に「上司も呼ばず、親の挨拶もないってのはおかしい」と小言を食らっていたからだが、新條は「上司なんて別に呼ばなくていいよ。しかも関西まで呼ばれた方も面倒だろうし。俺も呼ばないようにしたいね。ハワイでやるか。そしたら、緊張しいの俺の親も、挨拶なしで済むしな」と予定があるような口ぶりで言った。「ハワイか。もしやるなら言うてや。夫婦で旅行がてら行くから」「予定はまったくないけどね」と新條は笑った。
 それでビールを二杯飲んだら、ずいぶん疲れが出た。そう述べたら、新條はいたずらっ子のような笑顔で「そう言うと思って、さっき検索したら、ここの目と鼻の先にスーパー銭湯があるぜ。ちょっと寄ってこうや」と言った。「新幹線の時間まではまだあるから」と引っ張るように銭湯へ。
 で、そこで二人は爆睡してしまった。バカである。気がついたら新幹線の最終どころか、終電も終わった翌〇時三〇分であった。酒もだいぶん抜けたので、二人はもう一度風呂に入り、またリラックスシートを確保して翌朝まで眠った。聡子には「銭湯に行くよ」とメールをしていたのだけれど、続報していなかったので事情を送ったら「アホやねえ」と返ってきた。聡子は聡子で、実家に帰っているのである。フカミも実家に帰る予定だったので、母親にメールをしたら同じく「アホやねえ」と返ってきた。
「新條の結婚式でも、二次会は銭湯やからな。引出物はバスタオルにしろよ」
「ハワイでやるから、水着用意しとけ」
 なんて会話をして、新條を見送った。腫れぼったく、重たげな目が朝の光を受けていた。こうやって飲んで、友達と街で朝を迎えるのが初めてのように感じられた。これまで大学生時代に何度かあったはずだが、そんなことはどうでもいいような気がした。五月の朝は寒かった。ごみ袋が点在して、カラスが飛び交っていた。終わったし、始まった。生きた心地を噛みしめられていると思った。

 フカミは、ソファに深くもたれ、本を手に持ちながら、二年ぶりに見た新條の顔から、これらのことを考えていた。母親の死を、新條がどう感じているのか、フカミには想像がつかなかった。悲しみはちゃんと、日々薄らいでいるのだろうか。聡子は最近始めた手芸に、黙々と熱中していた。静けさのうちに、子どもがいたら、とフカミは思った。
 子どもをいつ作るか、という話題になると聡子は、
「子どもは欲しいけど、産むのが怖い」
と言って、いつも話は立ち消えになった。きっと聡子は、フカミが腹を痛めるなら今日でも明日でも子どもを作ることに賛成なのだろう。反対にフカミとしては、自分が腹を痛めないから今日でも明日でも子どもを作ることに躊躇いがないのである。無痛分娩がどうとかそういう話ではない。つわりなどのしんどさもそうだし、お腹が大きくなることそのものなど、一連の変化がすべて怖い。無性にエビフライが食べたくなる、みたいな話を聞くと、楳図かずおの漫画を読んだような気分になる。子どもを産むことに、あまりにも手間がかかりすぎる。医療はもっと、虫歯と妊娠に対してやる気を出してほしいと思う。改善された部分もあるんだろうが、そもそも虫歯が発生しないようにすることと痛みしんどさなく子どもを産めるようにすることを考えてほしい。癌になれば進行を遅くするしかできないし、骨折だってひっつくまで待つだけだし、医療は魔法のように病を治してはくれない。などと悪態をついてしまうが、フカミもいずれはお世話になる身なのである。
 何にせよ、実際に体を変形させて産むのであるから、躊躇してしまう。想像するだけでさーっと血の気が引く。その上生まれてからも、二時間ごとに夜泣きするとか、片時も目が離せない育児なる不合理が待ち受けているのかと思うと、積極的な気持ちになれない。そのあたりもなんとかならんのかと思う。昔はあなたも人に迷惑をかけたのよ、と言われたって困る。迷惑をかけたからといって、迷惑をかけられることを許容する理屈にはならない。分別がつくまで、スキップすることはできないのか。
 大学卒業後すぐに子どもができて結婚した人のFacebookに、子どもの写真は見当たらなくなった。もうその子は中学生だから、親と写真を撮ることや、それをSNSにアップロードされることを嫌がっているのかもしれない。今後子どもを持ったとしたら、同級生の子どもとは一回り以上年の違う年齢になるのだと思うと不思議だ。同時に中学、高校、大学と進学してきたのに、結婚や子ども、仕事、病気、親の介護・看護・死別などなど、どんどん人それぞれになっていく。

 一人一人を問い詰めたい。みんな、どうしているのだろう。気になりながらも連絡を取ることはない。