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夜六時の岐阜駅は閑散としていた。私はそこから船に乗り、長年愛聴してきたアーティストOのコンサート会場へ行くのである。船の時間は、もう間も無くのはずだった。
ここ数年、仕事に忙殺されていた私がOのこのコンサートを知ったのは二ヶ月前のことだった。十年余り沈黙していたOが昨年から活動を再開していたのは知っていたが、仕事のことで頭がいっぱいの私は新曲も確認せず、無音の日々を送っていた。私の聞く音と言えば、コンビニ入店時の音とか、電車の発車音とか、そんなものだけだった。
二ヶ月前の夜中、妻が気を利かせてこのコンサートの抽選に応募してくれていたことを、晩御飯を食べている時に知らされた。
いつも朝の早い妻は、私の夜遅い帰宅を待つことなく、寝入っている。それは仕方がないことだ。しかし、その夜はわざわざ布団を這い出て、私に抽選に応募したことを知らせたのだった。当選したのではなく、応募しただけなのに、当選を確信したかのような口ぶりであった。
普段は食後すぐ気絶するように眠るのだけれど、その日は妻の確信めいた口ぶりが気になって、なかなか眠りに入れなかった。布団の中で、そのコンサートのことを調べた。
コンサートは、つまり私が今から行く先は、岐阜駅、長野駅、新潟駅からそれぞれ船で一時間ほど揺られた先にあるM村という聞きなれない村の公会堂で行われる。十九時半会場、二十時開演。定員は四十名。
Oはその全盛期、ミリオンヒットを立て続けに出したミュージシャンだ。今回の復活も注目を集めており、昨年開いた全国ツアーは軒並みソールドアウト、予約開始直後、数分でチケットが完売したらしい。十年前の人気絶頂期においても、私はOのライブ、コンサートには行けなかった。チケットが当たらなかったのだ。何度チケットセンターに電話をしただろうか。繋がった試しがない。十分、二十分経ち、私は電話機の前を離れる。母親に「残念やったね」と声をかけられても無視をしたものだ。そして、その日は晩ご飯の味もせず、箸が鉛のように重かったものだ。
ましてや、四十名だけのこんな小さなコンサートに当たるわけはない。寝息を立てる妻の顔を見ながら、なぜ、妻は確信めいた様子で応募したことを私に告げたのだろうかと、不思議でならなかった。その根拠は今もって不明だが、結果、私はコンサートのチケットを手に入れることができ、今こうして岐阜駅にいるわけである。
夜七時、新幹線の停車する駅とは思えない人気のなさである。
船は西口から発着するとチケットに記載されていた。私はステンドグラスの飾られた階段を降りて、西口へと急いだ。四十名の観客はそれぞれ、十数名ずつ、岐阜駅、長野駅、新潟駅の船に乗ると聞いていた。
西口に着くと、それらしい人の列があった。むしろ、それ以外に人はまったくいなかった。
私は列をなしている人に、Oのコンサートに行くのかと尋ねた。スマートフォンを見つめていた男は、さっとよそ行きの笑顔を作って「そうですよ」と優しく返事してくれた。シャツの上に薄いセーターを羽織った、線の細い男だった。Oのファンに、よくいるスタイルの男だった。
私は安心してその列に並び、船が来るのを今か今かと待ちわびた。私はOに会えるのが楽しみだった。
小さな船だった。強い風が吹けばひっくり返ってしまいそうな、弱々しい船だった。年配の夫婦や親子連れ、そのほか数名の男女らが乗り込み、私は最後に乗りこんだ。船の甲板に備え付けられた、コの字型の座席に座っていた。十数人が、少しずつ間を空けて座っているせいで、私の座るスペースはもうなかった。その様子を見て、乗船を促していた乗組員が「詰めてくれろ」とアナウンスし、人々がもぞもぞと尻を寄せ合って、ようやく私の座席が端にできた。私は周囲に礼を言って座った。隣には、先の男性が座っていた。そのさらに隣に大柄な女性がいて、ずいぶん窮屈そうであった。
乗組員は私らを数え、十二人、と呟いた。乗組員は顔の筋肉のたるみが年老いた印象を強めていたが、腕や足腰など筋骨隆々の肉体は若さを保っていた。精神的には老いているが、身体がまだまだ数十年は生きてしまう、そんな年の取り方のように見えた。私は、自分がそのように年老いることはないだろうと思った。
では、と老乗組員が出発を告げようとしたところ、Oのコンサートですよね、と息を切らして女が飛び乗ってきた。乗組員はその女が来ることを知っていたような態度で、船の中へ促した。私らはまたもぞもぞと尻を寄せ合い、つまり私の横にスペースを作った。女は間に合ったことへの安堵と、飛び乗るようなことになった照れを同居させた表情で、ひょこひょこと頭を下げて座った。船内には十三人が座った。ぎゅうぎゅう詰めだった。
船は汽笛を鳴らし、夜の岐阜駅を後にした。人気のない岐阜駅に、汽笛は随分遠くまで鳴り響いたことだろうと思った。遠く遠くに見える民家の灯りが目に入った。お祭りみたいだと思った。
しばらく誰も言葉を発さず、水面の泡などを見ていた。親子連れの子どもは早くもこっくり頭を揺らし始めた。老夫婦のうち、妻の方も眠気にやられていた。
エンジンはドドドドドッと大きな音を立てて船を進ませていた。船体はガタガタと揺れ、私達の身体は小刻みに揺れた。水に乗っかるというのだろうか、時折船が跳ねると、私は腹のあたりが冷える気持になった。
コの字の真ん中に座っている、どうやら三人連れらしい男の一人が「なかなか冷えるね、」と言った。「早く着いてほしいもんだ。そろそろ船酔いしてしまいそうだ」。しかし、他の二人が聞こえなかったようで、彼はもう一度同じことを叫ぶように言った。私は彼らに聞こえなかったことが、なぜ自分には一回目で聞き取れたのだろうか、と自分の耳を疑った。
そのうち船がスピードを落とし始めた。近くに島が見えた。灯りのほとんどない、暗い島だった。木が茂り、一つの妖怪のようだった。
駅を出てから何分経ったのか、私にははっきり分からなかった。一時間は経っていないはずだった。五分とも十分とも、半刻とも言えなかった。
船は停まったが、島には発着場がないようだった。エンジンがドドッ、ドドッと空吹かしされた。波に合わせて船は揺れた。乗組員がデッキへ顔を見せ、「降りる人はいますか」と聞いた。私にはなんのことやら分からなかったが、先の三人組が返事をした。老夫婦も、親子連れも私の両隣の男女も返事をしなかった。私はコンサートに行く人間はここでは降りないのだろうと判断し、その三人組がどうする気なのか見ることにした。
三人組は老乗組員に促され、なんの文句も言わずに、ザバンと海へ沈んだ。一人はクロールで後の二人は犬かきのような平泳ぎで島へと向かって泳いでいった。
私はどういうことだろうと、混乱した。周囲も「ああ」とか「ええ」とか驚いていた。しかし、これが一般的な、そういう世界なのかもしれない、と私は考えたかった。老乗組員の平然とした様子に、皆平静を取り戻さざるを得なかったが、どうも釈然としないまま、三人組の姿は遠ざかっていった。船がゆっくりと動き始め、島も遠くへ行った。
夜の暗さが不気味だった。海の色も暗く、波の立てる音も不安を掻き立てた。私はこれから念願の、Oのコンサートに行くのだと、岐阜駅に降り立った頃の陽気さを取り戻したかった。
船が停まった頃に目を覚ましていた老夫婦の妻が、その不穏な空気を一掃しようと、努めて明るく「もうそろそろ会場に着く頃かしら、」と皆に聞こえるように言った。「Oさんのライブには、二十年前に行って以来で、ドキドキするね」と夫に向けて言うと、夫は「あの頃、仕事に余裕が出てきて、何をやるのも楽しかった。その楽しい時間にいつもOの音楽があった」と感慨深そうに答えた。
私の隣に座っていた男が、老夫婦の方へ身を向け「私も二十年ほど前に、一度きりOのライブに行ったことがあります」と言った。「まだ十代で、初めてのライブハウスに緊張したものです」。私は気分を晴らしたくて少し無理をして会話に割り込んだ。「二十年来、Oの音楽を聴いてきましたが、生で聴くのは初めてです。魔法的なステージを作り上げると聞いたことがありますが、二十年前のライブはいかがでしたか」。私はなるべく声を張り上げたが、船の音がうるさく、誰にも聞こえなかったのではないかと心配になった。
「魔法的! その通りです!」と大声をあげたのは私の左隣に座った女だった。大きな声を出し、照れた様子であったが、「本当にその通りです」と確信めいた声でまた言った。
私は自分の髪が塩っぽくなっていることが気になった。人差し指で前髪を梳いたら、髪の毛はギシギシしており、指に引っかかった。
「あなたは何年前のライブに行ったことがおありなんですか?」と親子連れの父親が女に聞いた。「私たちはもちろん初めてですが」と夫婦で顔を見合わせた。母親は寝ている子の背中を優しく撫でた。子は小学校に上がったくらいの大きさに見えた。
「実を言うと私は、Oの最後のライブに参加したのです。と言っても、そのOのライブ、コンサートに行けたのは、その一回きりですが。Oの活動休止、と言うのでしょうか、沈黙と言うのでしょうか、Oの最後のライブに、そのような予兆、予告はありませんでした。ご存知の通りOは少し明るすぎるほどの振る舞いでしたが、いついつまでも、そのように皆を楽しませるのだと折に触れ宣言していたほどでした。雑誌などでは躁鬱病だったと書かれていましたが、私には知識もありませんが、あの振る舞いを躁状態と言うのは、何か違う気がします。ひたすら人を楽しませようと、エンターテインメントを、ポップを追求しているように見えました。少し話が逸れました。その日のOのライブは、私にとって今のところ最初で最後のライブですが、魔法的でした。それまでのOのすべてのヒットソング、人気曲を演奏してくれました。Oの声はデビュー当初の不安定な可愛らしさを孕んだものとは異なり、伸びのある、豊かなものでした。私は、少なくとも私は、あと五十年は生きて、Oが老いてゆくのを見届けるのだと思いました。将来Oが亡くなった時には、きっとただの一人のファンとして、どうにか献花をしたりするのだろうと、なんだかそのように思ったのでした。」
「その頃の私は二十五歳で、社会のことを何も知りませんでした。努力と結果がイコールではない、ということを感じていました。テストの点数やそんなことではありません。就職や人間関係、ちょっとした仕事の成否、お金の多寡など、目に見えるようで見えないものたちのことです。しかし、結果の良し悪しはいつも必然的に見える過程を経るのでした。平たく言えば、私は運命について言いたいのです。Oが沈黙してからの十年余り、私はそうした必然的な報われなさについていつも考えていました。その頃勤めていた会社は、私が転職してから間もなく倒産しました。それは、何か理不尽な結果ではなく、たまたまのことだったのだろうと思います。本当に、なんの因果関係もなく、私たちは突然結果に鉢合わせるのです。」
「先日のOのコンサートには、抽選で外れたため、私は行けませんでした。全国十三ヶ所、計二十万人を動員したコンサート。私はすべての会場のチケットに申し込み、ついにどれにも当たりませんでした。ツイッターで、同じくOのファンらをフォローしていますが、誰も当選していませんでした。果たして誰があのコンサートに行けたのでしょうか。
(周りを見渡すと、皆首を横に振り、コンサートに行けなかったことを示した。)
にもかかわらず、今日のライブには行けるのですから、何があるのか分かりません。このライブのことを、私は当初全く知りませんでした。北海道に住む私の母が、突然電話を寄越してきたのです。そして、概略を聞いた後、母はURLを読み上げてくれました。URLを電話越しに聞くことがなんだか可笑しかったのですが、同時に、なんだか当たりそうな気もしました。まあ、外れたってもう悔しくもないくらいでしたが。幸運なのでしょうか? なんだかそんな気はしません。当たるべくして当たるように、世界はそんな風にできているのではないかと思いたい気もするのです。」
またしばらく誰も口を開かなかった。私は女の独白に反応することができなかった。なんとも思わなかったのである。せいぜい「そうですね、なんだかそんな気がします。」くらいなら言ってあげられたのかもしれないが、私は言わなかった。なんとなく、言いそびれた。言うほどでもない言葉だった。私は寂しくなった。返事ではない言葉を、見つけてあげられたらと思った。
波の音がする。私は目を閉じて、音を聞こうと思った。波の音、船のエンジン音、そして遠くから鳥の鳴く、くーくーくーという声が微かに聞こえてきた。
船は七時半ちょうどにM村の公会堂前に着いた。長野駅、新潟駅からの船は私たちより前に到着していたようで、船の姿はあるものの、もうもぬけの殻のようだった。そして、公会堂の前に少しばかり列ができていた。
私たち岐阜駅組は、少しでも早く列に並びたくなって、急いで船を降り、公会堂前まで早足で駆け寄った。けれど、このコンサートは全席指定席だったので、何も急く必要はなかった。列に並んでから船を振り返り見ると、老乗組員がロープを結び直していた。私は帰りもあの船に乗るのかと思うと、少しばかりウンザリした。
公会堂は小さく、古びた建物だった。
私は真ん中、三列目の右から三番目の席だった。とはいえ、狭い公会堂であるから、どの席が良いとか悪いとか、そんなものはなかった。私の隣にはやはり先ほどの長広舌を振るった女性と、男性が座った。どうやら、船ごとに固まって座席指定されているようだった。
ステージには何か動物を象った椅子がひとつ置かれていた。その横にはフォークギターがあって、アンプなどの音響機器は見当たらなかった。
私は座って会場を一通り見渡してから、まだ時間があることを確認し、急いでお手洗いに行った。
客席に期待が満ちていくのが分かる。ドキドキという擬音語が、目に見えるようだ。みんながOを待っている。人生の一大事として。
Oは時間ぴったりに、袖からふらりと現れた。多くのライブであるような、もったいぶった間や、思わせぶりな照明、煽るようなカウントなどはなかった。ふらりと袖から姿を現し、驚いてなんの反応もできないでいる私たちに手を振って「こんばんは」と言った。マイクを通さなくとも、この公会堂は声が届く小ささだった。
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気がつくと新幹線はもう新新横浜に着いていた。
私はこんなにガヤガヤとうるさい新幹線に乗るのは初めてだった。不思議な気持ちだった。様々な声が聞こえてきた。「あれではいけないよ」「楽しまないといけないよ」「そんなことではいけないよ」と笑いながら説教めいたことが繰り返されているようだった。
品川まであと少しという時、「人類は進歩してるのだねえ!」と誇らしげに言う声が車内に響いた。どうやらノーベル賞が発表されたことに対する感嘆のコメントだったようだ。
ノーベル医学賞の、受賞理由にあたる功績が、私には毎年なんのことやらさっぱり分からないのであったが、その大きな声をなんだか微笑ましく思った。
最寄駅、地下鉄から地上へ出るとら風が吹いて、髪の毛がバタバタと暴れた。
そろそろ髪の毛を切ろうと思った。
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その日、私は朝からやることがたくさんだった。