先日、お店で注文したものがなかなか提供されない事態に遭遇してしまった。
オーダーが通ってなかったのではなく、どうやら私たちの後に同じメニューを注文したテーブルへ、間違えて出してしまったようだった。
結果、厨房は私たちのオーダーを処理したものとみなしてしまったようで、不審に思った私たちが催促したことで異変に気付き、だいぶん経ってから食事がサーブされた。
こうやって文字に起こすと、事態はそんな程度のものなのだが、その時は誰も説明してくれず、むろん謝罪もなく、なかなか不快な経験だった。
久々の不快な経験だったので、不意にやけに悲しかった。
中学生の時、ラグビーの試合で右腕を折った私は、週に一回診察を受けに接骨院へ通うことになった。接骨院は毎日大盛況で、二階のリハビリ室も長蛇の列だった。
私はいつも本を読むことで暇を潰していた。
その接骨院は雑だったので、名前を数回呼んで来なかったら飛ばす、というシステムだった。
一度、本に熱中してしまった私は、ふと目をあげると二時間ほど待ち続けていて、看護師さんに聞いたらとっくの昔に呼ばれていたことがあった。
なぜか看護師さんに怒られて、私は不快な気分だった。そもそも、数回呼んで諦めるってのはなんなんだ。待合室はかなり広くて、診察室からちょこっと顔を出して呼んだって聞こえない時も少なくない。時におじいさん、おばあさんが「私の番ですか?」なんて聞いて追い払われたりしてて、わけわからん。
その日はレントゲンも診察も最優先で対応してもらったが、診察ではむすっとして話さなかった記憶がある。まあ、ただの骨折で、そして私は子供だったのだ。
その接骨院では、いつだったかリバビリの時、何を間違えたか腕の骨折にもかかわらず腰を揉まれて、その気持ち良さがすごかった。次からは腰のマッサージなど一切なかったのだが、あれはなんだったのだろう。
まあ、なんというか、その程度の取り違えで済んでるからいい。
「とりかへばや」という平安時代の物語では、二人の男女の子供を、男の子は女の子として、女の子は男の子として育てる物語である。
是枝監督の「そして、父になる」は病院で新生児を取り違えた物語であった。実際のケースもあって裁判になったりしている。
そうしたある意味はっきりした取り違えでなくとも、校風の合わない学校へ来てしまった子どもや、合わない部活に所属してしまった子どもなどはたくさんいるし、なんでこの職業を選んだのか、というような人もいる。そういう人ほど、天職だなどと悦に入っているのは恐ろしい。
そんな調子で、神様が私の人生を取り違えていなければ良いな、などと思ってみるが、もし取り違えられててもいいのだと思い直す。生まれちゃった以上、生きちゃうし、死んじゃうのだから。