Nu blog

いつも考えていること

2019参院選について考えたこと

選挙を営業にたとえてみれば、B To Bの営業をやってる自民党と熱狂的なファンを抱える公明党に対し、野党はB To Cで、一票一票積み重ねるより他なく、どれだけSNSが盛り上がろうと薄利多売だから、結果思いのほか利益が上がっていない。

ある一人の人がどのコンビニを選ぶかは、その時によるけれど、ある企業がどの取引先を選ぶのかはある程度一定している、みたいなもん。

もちろん野党にも支持母体、支持組織があるから、このたとえばかりで説明できるものではない。しかし、その支持母体が弱体化しているのだから、ちと辛い。その点でも自民党の支持母体は複数あるし、それぞれ強い。

 

SNSを見ていると、私の観測範囲には「反自民」「反安倍政権」が溢れかえっている。

私自身もその傾向にあるからだが、特に意識してそういうアカウントをフォローしたわけではない。

相撲や美術など趣味のことで、さらに考えの合う人を選んだ結果であり、類は友を呼んだまでだ。

だから、この自民勝利の結果は、観測範囲との相違が見られて疑問に思ったりする。

まあしかし、世界が相撲好きで溢れかえっていないように、反自民、反安部も主流ではないのだと思えば、納得。

また、「選挙に行った」と報告する人はいても「選挙に行かなかった」と報告する人はいないから、この投票率の低さも驚きではない。

 

しかし、そもそも投票に行かない人に行ってもらう意味はあるのか。

どうも「投票に行こう」と呼びかける人の多くは、行かない人が「反自民」であると思い込んでる節がある。そんなわけないだろう。

現在の得票率そのままに得票数が増えると考える方が自然ではないか。

「行かない人」が選挙に行くにあたって政治のことを考え出したら「反自民」票になる、とか現在投票している人には「政治に関心のある層」あるいは「政党との利害関係のある人」という偏りがあるのではないか、という反論があるかもしれないが、「反自民」派はちょっと楽観的すぎる。

すでに50%の人が投票してるのだ。「反自民」の人は積極的に投票に行っただろう。むしろ残りの50%は現状維持、現状追認派なのだから、多くが自民党に入れると思わざるを得ない。

問題は投票率ではなく、小選挙区制と比例区制だ。

一人区が多くなればなるほど、多くの票が死に票になる。二大政党制となり、政権交代が起きやすいとされるこの制度が、投票数と投票結果の歪みを生み出している。比例制にいたっては、わけわからん。

代案としては、全国どこでも個人に投票できるようにして、得票数1位の人から順番に議席を割り振ればいい。一票の格差もなくなるし、有権者の意思がダイレクトに見える。安直だと言われるかもしれんが、それが一番わかりやすい。

なお、れいわ新撰組やN国については特に意見ありません。現時点においてはそれを何かの象徴とは捉えない。良し悪しも断じれない。あんまり良さそうではないなと予感するのみである。

 

とまれ、人々は激しい変化を望んでいないことだけは確かだ。いつのまにやら変わっているのは許せるらしいが。

そうなのだ。思うのだが、政治が生活に及ぼす影響が大きすぎるのではないか。目指すべきは、政治が生活に及ぼす影響を少なくすべきではないか。

まあ、こんなもんは極端な逆張りなのだ。

生活が安定するなら、独裁状態の方がマシ、なのが我々である。

 

最後に立憲民主党について考えたい。

私が勝手に考えるところになるが、立憲主義を掲げているからには、権力に対する「法の支配」を強める、あるいは徹底するわけだろう。

つまり、行政府の長は名目上首相だが、実質としては事務方のトップ、事務次官になるはず、べき。大臣の役割は省庁間の利害調整に限られ、「政治判断」を廃し、現状の法律で判断できないことは立法府での議論を待つ。悪い言い方をすれば「お役所仕事」「お手盛り人事」の復活だ。

かつて「役人叩き」に走っていた民主党とはまったく反対の動きであるように思う。

そして、最近の日本人はそんなテクノクラートによる支配よりも、政治家によるリーダーシップの方が好きだ。

現在の自民党政権が真似するように、民主党政権下において官僚がメタメタにされたことを我々は心の底から歓迎したのがその証左である。

私はフランクフルト学派第2世代なので、政治は調整役、テクノクラート万歳なんですが(誤読)。

かっこいいことになんとなく賛同していたら、実現された時に「おもてたんと違う」と言い出しそうな気がするのだ。まあ、そもそもそんなもの目指してないのかもしれませんね。

前段落に戻るのだが、いずれにせよ、政治の影響範囲を狭めるべきだと思います。金を分配するのが政治なら、金を持たせなきゃいい。そういうことです。